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最終章 阿国、跳ぶ

(三)幸若の敦盛

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「あと、ひと息なのに」
そっと徳利を阿国はもらった。
「やるといって、やれなくてもいけないのか」
天邪鬼はおどけたようにうなずく。
「あざといやつめ」
「さあ、あとひとり」「おまえひとり」
小躍りの天邪鬼。
阿国がいよいよ挑む。
そこへ冷やりと風が吹く。念仏のようなつぶやきが、ひたと消えていた。辺りはしんとする。息を呑んでのぞいているのか。
「ほれやれ、それやれ」「なにをする。なにをやる」
「あわてなさんな」
帯から、阿国はおもむろに扇子を抜く。
「どれ、やってやるか」
すっと舞いのかたちとなる。そして、ろうろうと唄いはじめた。
思えば・・この世は・・常の住み家にあらず・・草葉に置く白露、水に宿る月より・・なほあやし・・
凛とした唄が心地よくも、心をゆさぶってくる。
ひらひらとその扇子は、木の葉のごとく、ときに風に踊り、ときに川に流れる。あたかもひとの浮き沈みのようにひらひら。
「うむ。これは、幸若の舞い」「その敦盛か。やれ、笛があればよい」
ゆるりとして、ときに鋭く。
勇ましくも、はかなげゆえに、なお悲しさが引き立つ。
そして。
人間五十年・・
化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり・・一度生を享け・・生を享け・・
とんと、踏む。
滅せぬもの・・滅せぬものの・・
また、とんと、踏み込むも、もう、そこまでであった。
「どうも、このくだりは殿方の舞いのような、踏みに重みが足りない」
阿国はぶっきらぼうにいう。
「えい、出来ないか」
天邪鬼は、それでもうれしそうに手を叩いた。
「いやいや。よいよい」「みごとみごと。あっぱれあっぱれ」
満面の笑みとなった。
「あとは、我がやる。やってやる」「幸若の敦盛か。舞ってやる」
ふっと阿国が笑う。
「おまちな。なにも、舞いをやっとくれというのじゃない」
「なに、やっておった」「舞いをみせた。ならやってやる」
「違うね」
いうと、阿国はからから笑った。
「つまり、あたしは」
ぴしゃりと扇子を鳴らす。
「出来ないことを、やってみせたのさ」
天邪鬼の目玉が、真ん丸になる。
「この、敦盛がどうにもねえ。うふっ。ならば、あんたにやってもらうのは」
ぐいっと阿国はにらむ。
「出来ないことを、やってもらおうか。どうだい、なんでも出来るのだろう」
天邪鬼から、笑みが消し飛ぶ。
「な、なんという」「ぬうっ。この、痴れものめ」
油汗がたらたらと流れた。
「まるで、矛と盾だよ」
阿国がとどめを放つ。
「いいか。出来ないことがないなら、出来ないことは出来ない」
がああっ。
天邪鬼が天に向かってほえた。
身をよじり、なにかしようとするも、ふるふる震えて、なににもならない。もだえて、のた打ち廻る。あげく、掴みかかってきた。
「わっ、この、あんぽんたん」
すんでで、天邪鬼は転げた。その足がぐしゃっと土塊となっている。
「はがれたか。化けの皮」
ぱん、ぱんと、なにか砕ける音がした。
ざざっと、つんのめる千石。ぺたりと座る百学。ともにふうっと息を吹き返した。
「なっ、なんだ」
千石は目をぱちくりする。百学ははっとなった。
「ややっ、もしや姉さま。やり込めたのですか」
阿国は扇子をぱたぱた。祠の前には、もっこりと盛った土塊があった。そこから二つの白い煙が昇ってゆく。ひとの姿になるも、直に消えた。
やっ、やったかと、千石は百学と喜び合った。
「さすがだな、姉さん。それで、なにをやった。どうやった」
「幸若の敦盛」
「えっ、あの舞いか。あれ、舞えるようになったか」
あかんべえをすると阿国はとっとと馬の処へゆき、つなぐ縄をほどいた。首をひねる千石のそばで百学は振り返る。ひとの石はひとに戻ることはなかった。やむえないのか。
そこへ、いきなり藪がざわついた。モドキどもが慌てて逃げてゆく。遠くで猪のうなり声があった。
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