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第七章 紅白さまのお札

(二)逃げた明海

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黒ずみ、くねった枝の柿木。
その根元にもたれて胡座をかいている。
洒落てゆった髪も、もはやざんばら。狩衣は泥だらけで、あちこち破けて血がにじむ。そして、てらてらの白塗りもひび割れていた。
ぷくりと、右ほおと、あごに、小ぶりなこぶがある。
薄く開いた目玉は白濁していた。
「おだぶつの秀麿」
百学が息を呑む。
「これで、息があるのか」
ときおり、ひくひくと震えた。
「直に沼へふらりふらり。こうなったら、もう終わっちまった」
才蔵が首をすくめた。
「お、お陀仏は、まっぴら」
ごふっと秀麿が咽る。
ふるふるとなる左手には、金色のお札に、水晶の数珠を掴んでいた。
「これは、もしや、まだひととして踏みとどまっているのかも」
百学が鈴々に問うた。
「お札も数珠も唐のもの。なら、あるいは」
「めっけもの。ひでりとやらに問える。さあ、ここでなにがあった。明海坊主はどこに居る」
千石は容赦ない。
白濁の目玉はゆらゆらゆれて、ごふっと咽る。
「急かせては糸が切れちまう」
阿国がなだめる。
そこで、百学がやむなく腰の竹筒の水を呑ませた。ひとくち、ふたくちと、のどをうるおすとその目玉が座った。
「ぷ、ぷう。お、おおっ、た、助けてたもれ」
「真面になったな」
千石がのぞく。
鈴々はふるっとなって才蔵の背に隠れた。百学も二歩、三歩と退いた。
「なあ、助けるもなにも、まずはねたをくれ。いやなら置いてくまでのこと」
どすの効いたものいい。秀麿はふっと息をついた。
「ねたか」
薄ら笑いが浮かぶ。
「ねたは、どこからがよいか。はてさて、そもそもというのであるなら、すべてはまやかしでおじゃる」
「まやかし」
才蔵の瞳が三角になった。
「そも、ぶちりなぞ、おらぬのよ」
百学も鈴々もでんぐり返りそうになる。
「ひでり、おちょくるか。ならば、この霧はなにか、ひと喰いはなにか、ましらはなにか。なんで、ぶちりの仲間は、あんなむごいことになった」
掴みかかる才蔵を、千石と百学とでなんとか羽交い絞めにした。
「おらぬなら、このありさまは、なんだというの」
阿国が冷ややかにいう。
「それは、毒である」
千石がぽかんとなった。
「毒だと」
「いかにも」
秀麿はぬけぬけという。
「ここも、あそこも、毒が漂っておる。はなから、毒を奥の院がばらまいた。それをひとが吸って酔った。酔ったあげく、あるものはひとでなくなり、あるものはあらぬものを見た。ほれ、ぶちりでおじゃる」
「そ、それは」
「おっ、ぬしは知っておるな。阿片やらで、ひとが狂い、ひとが幻をみるのを」
百学は否とはいえない。
「ちょいと、いまさらだけど面白いね。なら、なんでそんな真似を、やらかす」
阿国が含み笑い。秀麿は目玉が笑った。
「蟲毒」
「こ、こどく」
千石が目を白黒させた。
「たしか、唐では古からの呪術。なんでも壺の中に、毒蛇やら毒虫を入れて、それが互いの毒にて殺し合い、生き残った一匹がいの壱の毒になる」
鈴々がいった。
「あまつさえ、ひとを操るほどの毒をこさえようとした。やつめは、そこは道術を使って毒にひとの恨み、辛みまで込めおった。まさにひとの蟲毒。そら、ぬしらとて毒が廻っておじゃる」
「なにが、ねらいかい」
「泉州に、紀州を我がものとする。その一手として、大波家を酔わそうとした」
「まんまとはめたね。それで、つづいて大波から毒をばらまくかい」
ところがと秀麿は咽た。
「下手をしたの。やつはどうやら、おのが毒に酔っぱらった」
千石がほおっとなった。
「毒に酔い、毒に狂うた。そして、この日の本を丸ごと毒に沈めるとなった」
と、秀麿はからから笑いかつ、ほろほろ泣いた。
「なんたるあほう。それでは国は滅ぶ、国盗りにならぬ、なにゆえまろは手を貸しのか。あげく、まろまで毒虫の一匹になりかけた」
やにわに、かっと怒る。
「やられてなるか。ならば先にやる。そこで、手下どもを呼び、殺めんとしたが、しくじった。やつめ、どこで、あんなほうろく玉を手に入れたのか」
それが、あの穴ぼこと、ひとがばらばらの畑かと百学はうなずいた。
「となると、明海は逃げたな」
千石は舌打ち。
「ところが、どうも、ぼんやりとする。どこまでが、現で、どこまでが幻か。まろも毒に酔うておるのか」
才蔵がいらっとにらむ。
「おっと、そういえば、蟲毒の仕上げは護摩を焚かねばならぬと、笑っておった」
はっと百学が指さす。なにやら、御堂のほうから煙が上がっている。はたしてと、鈴々は迷う。けれど、才蔵はとっとと登っていった。
「だめもと」
「そう、早まるなって」
千石が追ってゆく、それで阿国たちも登り始めた。そこへ、まっ、まちゃれと声がかかる。なんと、ひょこり、ひょこりと秀麿が木の枝を杖にしてついてきた。
「やめとけ。命拾いが、ちゃらになる」
千石のいうことなぞ、御構い無し。しゃにむに追ってくる。
「耳はないですね」
百学も呆れた。
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