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第七章 紅白さまのお札

(三)ひと喰らいの猪

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ふぎっ、ぶぎゃあっと、黒猪は猛り狂った。境内が踏み荒らされる。
あっ、あにさまっ。
百学が危うい。ともすれば、屍につまずきそうになる。倒れたらもはや助からない。踏ん張れと千石は叱咤した。
「ねばれ。それが、あっちが逃げる間となる」
ともかくぶっ叩く。突けなくとも鼻先を叩いたらひるむ。千石は百学をかばいながら巧みに黒猪を退かせていった。
二匹、三匹と、そこで叩きが甘かったか、一匹はひるまなかった。あっとなるも穂先をかぷりとくわえられた。
「やられた」
退いてた黒猪がいっぺんにくる。あにさまっ、百学の玉が間に合わない。
そのとき、どおんと爆音があった。もうもうと白煙が広がる。黒猪はぶぎゃあっと散らばった。煙からひょこりと才蔵が現れた。
千石がふうっと汗をぬぐう。
「肝が冷えた。それでも、こちらよりあちらだ。姉さんと鈴々はどうなった」
「その、姉さんと鈴々がやらかす」
「やらかす」
千石と百学がはてとなった。
ふっと才蔵は笑う。
「これは、ほうろく玉かい」
「えっ」
いつのまにか、百学の手の玉を握られてる。そして火までついている。白煙が消えかかっていた。ぶひっと一匹の黒猪がこっちに向かっている。
「でも、あの毛はやたら硬いから」
「どてっ腹は」
そういって玉を転がす。すると、どおんと破裂して黒猪は跳ね上がって引っくり返った。腹はぱっくり裂けて、はらわたがのぞいた。
借りるよと、才蔵は手槍も手にすると、穂先にはらわたを絡めた。
「いっちょやるか。二人は木に登ってごらんあれ」
渋る二人を木に登らせると、才蔵は槍をぶんと廻す。それで、ぷうんと血生臭いにおいが振りまかれた。黒猪どもはぶぎゃ、ぶぎゃあと猛った。
ほら、ほらと槍を廻して才蔵はからかってやる。
やにはに逃げた。
とたんに、黒猪が追う。どれもこれもそろって追っかける。ぐるぐると境内を走り廻った。土煙りがもうもうと上がる。
ひょいひょいと逃げる才蔵。それを、どどっと黒猪どもが追っかける。
千石と百学は息を呑んでいた。
「しかし、どっかで攻めないとな。息があがったら、ひとたまりもない」
「玉を放ちもしない。なにがあるのやら」
「そうか、やらかすのは姉さんと鈴々か」
そこで百学が御堂を見やる。
屋根に鈴々がひとりいる。ぽかりと開いた穴から荒縄を一本ずるずると出して、そのまま屋根の右側から垂らした。それからは穴の近くに座って境内をながめている。
「あにさま」
「はて」
千石も首をひねった。
どどっ、どどっと地響きがする。ぶぎゃあっと猛る。もはや、黒猪は狂ったように追っかけた。ひいっと、けれど才蔵は笑ってる。
二つ、三つと廻るうちに勢いづいたか、もうすんでの処まで寄ってきている。がちがちと喰らいつかれそうだ。
「よっしゃ。なら、まとめて突っ込んでこい」
ひょいっと、身軽に才蔵が逸れた。
あっと百学。
「えっ、御堂に逃げるの」
「ばかな。あの勢いなら、扉なんぞいっぺんに破られる」
千石がうめく。あわやと才蔵は扉ではなく、床下へ逃げ込む。
黒猪は、怒涛の如く、勢いのまま床下へと突っ込んでゆく。ぐらりと御堂がゆれた。
「いまっ」
鈴々が屋根裏に叫ぶ。その合図で、阿国がかちわりを抜刀。
ばっさりと、くくられた荒縄を断ち切った。ついで丸太を蹴っ飛ばす。ばきりと折れる音とともに、ぐらりと丸太が落っこちた。
がっしゃあん。
瓶を叩き割ったとみるや、こんどめきめきと床が抜けて、砕けた瓶とともに油がどっぷりとまかれた。床下はもはや油の海。そこに、黒猪が押し合いへし合い。
まとめて突っ込んだおかげで、てんで身動きが取れない。たっぷりと油にまみれた。
「ほらよ」
才蔵がぽいと玉を投げた。どおんと爆発。
急いで阿国と鈴々は縄で屋根から下りた。めらめらと瞬く間に御堂は炎に包まれてゆく。黒猪どもは、そろって火だるま。
ぶぎゃあっと、焼かれるのを逃れようと水のにおいを嗅いだのか、群れは沼へと走りに走る。次々と飛び込み、そのまま沈んでいった。
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