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第六章 百地のからくり

(五)桃々さま

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その、紅白寺では、くんと濃い酒の香りでいっぱいになっている。
本堂はありゃりゃになってた。
酒樽は一つは空っぽ。もう一つも二分ほどに。尼さま二人はとっくに酔いつぶれて若い衆もばたばた引っくり返っていた。千石は笑顔のまま白目をむいてる。
ちゃぷり。
もう樽の酒を柄杓で汲んでは桃々は呑む。
「あら、そろそろ、おねんねかい。阿国」
盃をころんと転がすや、阿国もその手に柄杓を握る。
「なんの。呑むのが辛そうじゃないか、桃々」
うわばみ二人が笑い合った。
ただ、さすがに二人とも酔いが足元にきている。樽にしがみついて、それでも柄杓で酒を汲み、呑む。
「ええい、しぶとい」
「それは、こっちの台詞」
笑ったあと、ふと阿国がしんみりとなった。
「ところで、あんたのような気風のいいひとが、どうしてあんな坊主の女房なの」
桃々はしみじみと笑う。
「昔に、哀れな女がいた」
ぼんやりと天井をながめた。
「とうも道家の寺の娘だった。あの、鈴京家ほどではないけどね。それで、ある葬儀で皇族に縁のある坊主に惚れたの。そのひとは皇族の娘との結婚があった。でも二人は離れられなかった。若かったね。二人で逃げた。
ゆくあてもなく船に乗ったら嵐にあって船は沈み、気づいたら倭国の浜にひとり流されてた。あのひととは、それっきり」
悲しみをこらえる瞳があった。
「抜け殻のとうは、なんなく人さらいにあって売られた。そして流れ流れて、唐に似た小唐の湊のはずれで、野盗の頭の女になってた」
「やるせないね」
「嘆いてもね。それからは、博打場でほとんど裸で酌をさせられた。そんなときに、馬づら坊主がふらりときた。みょうなやつでね、あまり遊ばないけれど、濁酒をなにげに三つ四つ置いてゆく。うまい酒だったよ」
「ほう」
「面白いやつがいるとなった。それから頭は馬づらにのせられて、濁酒に薬種やらも売るようになって、銭がたんまり入ったと大喜びさ」
「宝明寺の明海だね」
「もとは、寺に捨てられた赤子とか。やむなく寺が育てるうちに賢いとなって、坊主となった。ただ生まれをさげすむものもいて、ずいぶんといじめられたらしい。
あるとき、字も知らぬ寺男にからかわれて、毒茸の汁を呑まされたという。とことん吐いて助かった。するとむしろ、喜んで、ひとりで薬種を学んだそうな」
「歪んだのも、薬種も、そこからか」
「めにものをみせる、腹だったろう。そのときのために、寺の外でつるむやからを、こさえたかったか」
「ふむ。そしたら桃々さまが居た。それでちょっかいを出したか」
「そんな並みのやつならよかった。それは、あるとき、縁側でおまじない。とうは、あのひとの子を授かってた。この子は産みたかった。なんとか幸せになれますように。それを明海がのぞいて、これは道術かって。いや、びっくりした」
「まだ、唐かぶれの前だろ。知ってたの」
「おそらく、薬種から、漢方、そして道術へと連なったかね。あげく呪術で、なにかやらかしたかったのかもしれない」
「ふむ」
「もちかけてきたよ。どうだ、こんな先の見えぬ処より、わしのものにならぬかと。坊主の嫁ともなれば、ひととして暮らせようというの」
「見返りがあるね」
「はいな。道術を教えること。それと、ここが明海の喰えないところ」
「というと」
「おまえの力は、封じてもらうとね」
指さす額に赤い焼き印。
「ほんとは、野盗どもも呪術でぶっとばせた。でも術は体に重荷となる。子を産もうとするならやれなかった。でも産んだらね。そこを先に手を打たれた」
「すっかり抜けたの」
「とうが、印をこさえたが、我ながら、さっぱり」
阿国ははたとなった。
「そうか、それで王鈴はぶちりを退治するのに、桃々のことはしゃべらなかったか」
桃々がひとつため息をする。
「産むためなら、ひとの暮らしがあるなら、やむえない。とうはうなずいた。とはいえ、あの、賊の頭が許すものかとみてたらふらりとやってきて、いつものように博打して、いつものように濁酒を置いてゆく。ひとこと、とうには酒を呑むなと告げて」
「毒酒か」
「半時ほどで戻ってくると、もがき苦しむものどもに、油をかけて屋敷に火を放ち、とうを連れていった。念仏あげてた。笑いながら」
阿国はぞくっとなった。
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