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第六章 百地のからくり

(六)式神

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「逃げろ」
そっと背後に寄った才蔵がささやいた。
「ここは、おいらが踏んばる。鈴々を頼む」
袖を引く手が痛々しい。おそらく、あのかちわりも、ふるえるかどうかなのに。いよいよとなれば、その身を砕くつもりか。
ならば。
「和尚のせっかくのお招きなら、この百学が参ります。さあ、二人は荷を蔵へ」
才蔵が慌てた。
「ば、ばか、おまえ、ひとりで」
百学は歩きかける。鈴々も引き留めようとした。
そのとき、凛とした声が飛んだ。
「これっ。お帰りの前に、ゆくのかい」
さらりと寒椿の小袖姿が美しい。
阿国が笑ってる。
後ろには千石と白鈴そして小雪に小桜とともに、一座の娘たちが控えていた。
「ようやく、お出ましかい。明海和尚」
「かっかっ、おまえさまか、阿国とやらは。ふむ、べっぴんでも癇の強そうな娘」
ひゅるりと風が吹き抜けた。
阿国はからんと黒塗りの下駄を鳴らしてくる。それに一座は続いた。やがて、明海が率いる宝明寺の一団と向かい合った。
ふと、千石が首をすくめた。
「なにかみょうに寒くないか」
「これは、よどみがある」
白鈴が眉をひそめる。
「禍々しいよどみ。はて、あの坊主はなにか。しのかみというやからか。とうてい、真面なではあるまい」
「ぶ、ぶちりと、いうか」
阿国がふんと笑う。
「よっしゃ。なら、あたしらの勝ちね」
目を丸くする白鈴、千石は目を白黒。そして阿国は百学の処までくると、お帰りと告げて一歩前に出た。
もう、二歩、三歩で触れ合える。
明海と阿国。
白い目玉がきょろりとなる。紅の唇はにっとなる。
「いや、手間がはぶけた。そろって寺へこられよ」
「おあいにくさま」
阿国は微笑んだ。
「こちらでの踊りはお終い。次がつかえてる。和尚にはごきげんよう」
「急くな。それとも、わしの招きは嫌か」
「旦那衆は、そうやって袖を引く。真面に相手をしてたらたまりませぬ。堪忍してもらいましょ」
「わしの酒は呑めぬと」
「宴にこなかったのは、どなたさまで」
「ほう、えらく口を叩くのう。たいしたもの」
「それはもう。西へ東へ勧進廻り。踊り踊って日の本の、その名もめでたき、出雲さまの阿国一座とは、あたしらのこと」
「そうでるなら」
ものいいが荒くなった。
「その、勧進踊りのものとやら。問うことがある。こちらへ参れ」
「ありゃ、袖にすると力ずくかい。野暮はおやめな」
「問うことがあるというておる。追っつけ船も戻る。面白き土産もあろうな」
「あるだろうさ。なにせ、あの恐ろしき島ともなれば、ひと隠しやら、ひと喰いやら、魑魅魍魎の住処。ひとが、猿やら、人形に化けても、ちっともおかしくない」
白い目玉がぎろりとなった。
「はて、おまえはなにものぞ。ちょろちょろしおって、踊りが生業とも思えぬ」
阿国の瞳もきらりとなる。
「和尚こそ。人が変わったともっぱらのうわさ。明海さまというのなら、その頭巾を脱いでおくれ」
それまで、うんともすんともなかった坊主どもが、ざわっとなった。
「お、和尚は病んでおられる」
赤袈裟坊主がわめく。
「いかにも。その痛ましい姿をさらせとは、なんと無礼な」
白袈裟坊主も怒鳴る。
その、ものいいとは裏腹に声音はうわずっていた。
千石がへらっと笑う。
「つまり、坊主どもも疑ってるのか」
「けれど、それで脱いだら、あたしらはどうなるの」
白鈴がふるっとなる。
「鬼が出るか、蛇が出るか。でも、なにかある。だから坊主に成りすましてる。寺のものにばれたくなかろう。ゆえに、おいそれと尻尾は出すまい。それを阿国は見越してる」
「綱渡りだよ」
「楽しんでるさ」
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