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第五章 白鈴の文

(三)正体は、さとり

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ざざぶりの雨がぽつりぽつり。
沖に日が沈むころ、ようやく雲が切れ切れになった。みゃあ、みゃあ。かもめが二羽三羽と飛んでゆく。
ざざっと波が寄せては返す。
「おおっ蟹め。刃向うか」
浜辺でおちびがひとり、小枝を持って蟹相手に、やあ、とおう。
その浜辺を見下ろすように朽ちた古寺。傾く屋根には二つ影があった。
「借りが出来たな」
「せや。あとでたんまり返してもらおうか」
ふんと、才蔵が鼻を鳴らす。
「さんざ、戦で助けたろ。ただ突っ込むおたんこに、どんだけ煙玉で守ってやったか」
「なら、そん時いわんかい。商い終わって値切りにきても遅いっちゅう」
太眉をくいっと猿飛。
「なにい、おたんこ」
「やるんか、狐葉」
見合う二人、やがて大笑いした。
「いつもの狐葉やな」
才蔵はふっと息をつく。
猿飛は夕空を仰ぐ。
「あの坊さん。今頃はどの旅の空やろか」
「うん」
高くに鳶が一羽舞っている。
「あのとき・・」
めずらしく、猿飛の歯切れがわるい。
「そう、わいはちょうど信州やら越後でねた拾い。その戻りや、里のことを知ったのは。おそらく狐葉よりちょい早かったか。駆けつけたときには、どうにもならんかった。小助を拾うのがせいぜい。わいも、あかんたれや」
「おたんこ」
おおいと浜で声がした。
「なんや、小助。おっ、おっきい蟹でも捕まえたんか」
ぶんぶんと手を振っている。
「そや。あいつな、こんど穴山一族の養子になったのや」
「おおう。ならもう猿飛一族の下忍はおさらばか。これで家も女房も持てる」
「はれて、穴山小助さまや」
「りっぱ」
「あの、お方も喜ぶ」
ふと猿飛は、はるか遠くを望む瞳をした。
「なあ、いっそ、このままわいらと信濃へいかへんか」
「ほお、信濃か」
「面白いお方がおるのや。真っ直ぐで、えらぶるのが嫌いで、温かい」
「うっわあ。おたんこが好きそうな」
「あのお方は、いずれ天下を取るか、天下を敵に廻しても一歩も引かぬおひとよ」
「そうか」
「こい、こいよ、狐葉」
才蔵はちらり沖を向く。かすむ島影があった。
「あれか。でも、いまさら伊賀の亡霊なんざ、坊主にやらしゃいい。それともやられっぱなしじゃ、おさまらんか」
「それもあるけどな」
「なんや。ほかに」
「奥の院に娘がいる」
猿飛が渋くなる。
「すまんな」
「いいえ。まいどのこっちゃ」
こきとその首を鳴らし、くるっと肩を廻す。
どこかで、こおんと寺の鐘が鳴った。
「ぼちぼち刻限やな。湊へいかな」
「なんか、いつも忙しないな。おいらたちは顔合わせたらじきに離れてゆく」
ふんと猿飛。
「そんな、おなごにもてるつらはごめんやからな」
「すんまへんなあ」
「真似すなや」
ひとしきり笑ったあと猿飛は立ち上がった。
太眉がくいっと跳ねた。
「ましらごときに、もう、やられんな。それでも下手やったら」
めったにない、怒りがあった。
「そんときは、わいが、ぶっ殺す。冥土でもういっぺん、いてまえや」
ふふっと才蔵は笑う。
「それは、おたんこが一番強いってことか」
「あたりまえや」
からからと猿飛は笑った。
「いく、才蔵」
「ああ、猿飛」
一つ跳ねて浜に下りる。
わかっているのか小助が駆けてきた。その手を才蔵に向け、ぶんぶん。
「あにい、あにい」と叫ぶ。
「ほんとは、ほんとは、あにいのこと大好きやあ」
瞳にいっぱいの涙で、手を、ぶんぶん。
夕日に照らされた浜をゆく。振り向き、振り向き、小助は手を振る。やがて駆け出したとみるや、二人はふっと夕日に消えた。
才蔵の瞳からも涙がほろり。
「友よ、さらば」
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