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第五章 白鈴の文

(五)阿国一座がやってきた

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雲が広がっていた。
ぽつり、ぽつりとくる。みるみる、ざっと雨になった。さめざめと降りつづく。
土間では鍋が煮えている。
すうすうと、泣き疲れて小助が茄子婆の膝枕で寝ていた。
そばで、糸瓜爺が鰹節を削っている。
しゅっ、しゅっ、香ばしい匂い。
かたり。
奥で部屋の戸を開ける音があった。
薄暗い四畳にせんべい布団が一つ。それをどけて、角でまんじりともせず才蔵がうずくまっていた。
「おや、さわりますよ」
「春竹さん」
その左手の盆にはおにぎり二つと漬物。向かい合うように座り、はいと置く。
「お、おいらは」
「もう、いいのです」
春竹は微笑む。
才蔵は苦味がのた打ち廻った。上手くしゃべれない、もがく。
「おいらは、おいらは」
涙がほろり。
「な、なにも出来なかった。また、なんにも」
「いいのですよ」
「豊春にも、なにひとつ。そのあとのましらにも、てんで」
「才蔵さん」
「みんな、みんなおいらのせいだ。おいらが、おいらが」
「それはもう」
「よくない。おいらのせいなんだ。おいらが、すべて」
堰を切ったように、わめいた。
「では、なにが、出来たのです」
「出来たよ。なんでもおいらなら。でも、おいらがだらしないばっかりに」
くっと、春竹の眉が跳ねた。
そのまま詰め寄る。ぱんとほおを引っ叩いた。
「なんでもか。なら、やってくれ。さあ、この右手を元に戻せ」
「そ、それは」
「なにもかも、おいらが、おいらが。まだ、わからぬか」
「わからぬって」
「その、ましらとやらに、なにをやられたか」
「やられた」
ぐいと襟首を掴む。
「うっ。お、おいらは、逃げたっ、ひとでなしって。おまえは、ぶちりって」
「そこじゃない」
「えっ」
「突いたのは、そこじゃない」
才蔵はきよとん。
春竹はいう。
「そも、なぜに、おのがせいにする。なんでもかんでも」
「なんでもかんでも」
「大瓦さま、弓月さま、豊春房に、応宝寺のもの、蟹頭のもの、さらに鈴々さん、かっての里のものまで。みんな、ひとりで、なんとかなったのか」
「おいらは」
「うぬぼれるな」
春竹が突き放す、才蔵はころりとなった。
「そこを突かれた。おいらが、おいらがに、しばられてる」
ふいに、紅丸の言葉がよみがえる。
おまえは、おまえに溺れる。
「そうか、そういうことか」
うぬぼれてたのか。
それで、なにもかも背負いこんで、あっぷあっぷになって、まさに溺れたんだ。その足をさらに、ましらに引っ張られた。
才蔵は涙があふれた。てんで空回り。悔しいけどなにか腑に落ちる。その、力みが抜けたのを春竹は悟ったのか、ものいいが柔らかくなった。
「どれ、縄をほどけるや、否や」
「縄を」
「もはや、過ぎたことは戻らない。なのに、囚われていては溺れるのみ。しばる縄は解かねばなりません」
「どうするの」
「すっぱり割り切れば良い。あなたは、やれるだけやってみる。うまくいったらしめたもの。うまくいかなかったら、そのときはそのとき」
「そのときは、そのとき」
「すべて、うまくやろうというのが、おかしい」
「おかしいの」
「それが出来たら、神か仏」
「そりゃそうか」
「ひとは、ひとなのです。それを知ること」
「そうか、おいらは、おいらか」
「はい。子狐のように、素早く、賢く、ちょいといたずら好きで、涙もろい」
春竹が笑った。
その笑みはどこか温かい。そう、里のものや、応宝寺のもの、さらに蟹頭のものどもが、笑ってたのとそっくり。
そしてと、春竹がいう。
「その、ましらとやらが、どういったかは知りませぬ。なれど、婆さまは怒ってました。里のものが、助けを求め、泣いておったとは、ぬけぬけと。みな、ひるまず勇ましかった。なかでも、小助らが助かったは、おのが身もろとも火薬で川の堤を壊し、敵を少しでも阻んだ幼い兄弟がおったからとな」
「黒丸と白丸」
「里は強かった」
才蔵はうなずいた。ふむと、春竹はゆるりと立った。
「わたしは、これより応宝寺へ戻る。このような始末でもつけねばならない。おそらく、寺を追われるでしょう。でも、それを幸いに山にて修行を積み、いま一度ぶちりに挑む」
「春竹さん」
「あなたは、あなたの、お好きになさい」
「おいらも」
才蔵も立った。
「もう、いっぺん」
春竹はもはや語らず部屋を出た。縁側の柱の陰でこくりと茄子婆がうなずく。
ぱらぱらと雨は小降りとなっていた。
と、婆がふいに仰いだ。
「おったのか」
くすっと笑った。
「おまえが、いいたいこと、みんないわれたの」
屋根の瓦がかたと、鳴った。
「ふるのう、猿飛」
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