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第四章 才蔵のしくじり

(三)逃げろや逃げろ

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じやらり。
弓月が大瓦の数珠を拾い上げた。ちらと辺りを見る。遠くでぱきぱきと音がする。
「ゆくか」
ぐいと眉を上げた。
「直に、ひと喰らいとなった赤牛一派のものどもが来よう」
春竹は念仏を止めない。
「えい、弔いはひとまずおく。逃ねばならぬ。そうせねば大瓦さまはお怒りになろう」
弓月は、その震える肩に手を置いた。
「歩きながらも念仏はやれる」
数珠を渡されたことで、春竹はようように立った。そのかたわらで、鈴々はまだ泣きじゃくる。才蔵はしかめっつら。
「まずいな。心が泣いては、めいっぱい走れない」
「なんの、わしが薙刀をふるえばよい」
「いや、大瓦房はもういない。囲まれたら抜き差しならない」
ふむと弓月。
「いつもの子狐だな。なにか手立てはあるか」
すると、才蔵は鈴々に問うた。
「この、ひと喰らいどもは、追っかけるだけなのか」
鈴々はしゃくりあげながらもぽつり。
「もう、喰らうことしかないの」
「おつむは空っぽ」
こくりとうなずく鈴々。なにがいいたいのかと、弓月は小首を傾げる。
「それにしても、手も足も伸ばしたまんまでやってくる。窮屈なこと」
「死人ゆえ、固まってる」
「曲げられない」
鈴々はこくり。
「なら、このまんま進む」
「なにっ、行き止まりとなるぞ」
「崖下へぶちあたる」春竹も目を丸くする。
ふふっと才蔵は笑った。
ぱき、ぱきと枝を踏む音が近づく。ぐずぐずはしていられなかった。

いつしか、月は天高くになっていた。
ひたりと風は止んでいる。
みょうに冷えた。遠くの藪ががさがさゆれる。それがじわりと寄ってくる。
「はて、なんとする」
弓月は切り立つ崖を仰いだ。
岩肌はごつごつ。あちらこちらがひび割れて、その割れ目から木がによきり。その木に絡むつるが、だらりと下へと垂れていた。
「もはや、逃げようがない」
弓月に鈴々もうなずく。
「いっぱいに、囲まれる」
才蔵はへらへら笑ってる。
「まさか、集めてる」
春竹が目を丸くした。
「当たり。ここへおびき寄せる。その、頃合いをみて逃げる」
ぐっと、つるを握った。
「いい。太くて、ちぎれそうもない」
「登るのか」
ふうむと弓月。
「そんな。やつらもそれを追って」
春竹が慌てた。
「登れない」
才蔵はきっぱり。
「手足が曲げられない。どうやってつるを掴んでよじ登る。よしんば腕っ節だけでつるをたぐるというなら、途中でつるを切ればいい。あとは下でうろうろするだけ」
「ふはは、抜け目がない子狐め。おつむを巡らせぬやつらにすべはない。まとめて足止めにするのか」
「逃げられる」
弓月も春竹も笑った。
「では、我らはしばしやつらを」
いや、と弓月はいう。
「囮はひとりでよい。もう、登ってゆけ。どうやら、これは娘には苦手のようだ」
鈴々は真っ赤になっている。
よしと才蔵は手を引き、つるを握って、二人でよじ登り始めた。
「弓月さま」
鈴々が声をかける。
「早うゆけ」
弓月はにっこり。その笑みはどこか寂しげであった。
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