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第四章 才蔵のしくじり

(一)逃げろや逃げろ

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ぎゃあ、ぎゃあ、ぎゃぎゃ・・
鳥とも、獣ともつかぬ鳴き声が闇からした。
ざざと木々がゆれる。
どの枝も、歪み、曲がり、ねじれている。その、もがく木々に囲まれて古びた石段が、これもくねってつづいていた。
いま、ひと固まりのひとが下りてゆく。
四、五本の提灯がゆらりとゆれる。汚れた黄色の袈裟衣がひるがえった。
ひそひそと、ささやき。
「わからぬ」
おびえたものいい。
沼は、と続いた。
「これまで、ひとり供えるのも、おっかなびっくりであった」
「しかり」
ひそりひそりと、いい合う。
「あの沼ゆえにの」
「それが、もう、存分にせよと知らせがあった」
「どうなされたやら」
ひたひたと小走り。
「もはや、沼は煮えておるというに」
「なんと」
「血に汚れ、ひとの魂をたらふく呑み、ぐらぐらと煮えおる」
「やれ、いつ沸いてしまうやら」
「沸くとな」
「湯気のように、あれが吐かれる」
「あ、あれか」
ひっと声があった。
「さらに、そうとならば、もはや底が抜ける」
ざわっとなった。
「ならぬ」
「えい、なにもかも滅びる。それはならぬ」
「なればともかく、これはという供えもの。ことを成せば、沼を眠りにつかせられる」
「ゆえに、供えを求めて、夜に走るか」
「ほとほと、面倒よな」
うなずき合う。
「念を、喰らわさねば」
「念となれば、ひとが生きておらねばな」
「念ずるゆえにの」
「生きたまま、沼に沈める。ぶちりは、それより始まった」
「もう、どれほど沈めたやら」
ひゅっと冷たい風があった。
「なれど、その念が、呼ぶのではないか」
荒げたものいい。
「古の聖をお呼びし、法典をいただくのではないか」
うむうと、うなった。
「ちなみに、いかなる供えのものを選べばよいやら。まごつけば、沼は手遅れとなろう」
「選ぶか」
「汚れなき、念のもの」
「それゆえ、混じりがなく、強い」
ふははと笑うものがいた。
「いまさらであろう。こたびは滅茶苦茶よ。真面なものさえ、どこにおる」
ざわざわとなった。
「そこらじゅう、ぶちりだらけ」
「まことか」
「やつめ」
「手配りを下手しおったな」
そのとき、木々の茂みががさりとなった。
白足袋の足が止まった。
茂みから、ひそり。
「なに、ゆえに、こちらへ逃げよと仕向けたとな」
「ふむ」
提灯がゆらゆら。
「しかし、生きて来れるや、否や」
あっと、仰ぐもの。
「そうか、冷たい月か」
「あれが出おる」
「おいで、おいでか」
「や、闇招き」
ひとつ、提灯の灯が消えた。
「もし、命拾いがおっても、そのものは供えものや、いかに」
「ちっ、こたびはよさげな坊主もおったのに」
茂みから、またひそ、ひそり。
「なっ、巫女はどうかとな」
おおっと、どよめいた。
「よもや」
「ど、どこに、おった」
「まさか、浜の遊び女を仕立てるか」
提灯が茂みに向く。
「いうておくが、純なもので、生娘であろうな」
なにか笑いがあった。
「よい、頼もう」
懐から、じゃらりと小袋を出し、そのまま茂みへ放った。
闇にふっと消える。
「あとの小袋は、巫女を拝んでからよ」
ざわっと茂みがゆれる。ぷんと白粉のにおいがした。
「ふん。あれも、銭のぶちりよな」
「ところで、いかに」
「いや、巫女とならば」
うむうむとなる。
「されど、せいぜいひとりよな」
「なら、満月がよい」
おっと、手を打つもの。
「黄泉と近こうなるというの」
「そこで、護摩を焚き、我らは祈り、沼へ巫女をぶちる」
「みえたわ」
「ならば、もはや山をうろつくこともあるまい。おいで、おいでで、木乃伊ミイラ取りが木乃伊ミイラになる」
ゆらゆらと、提灯は石段を戻っていった。

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