上 下
32 / 177
第三章 鈴々の帝鐘

(五)ひと喰らい

しおりを挟む
ごうっと風が吹き抜ける。
ざわざわと木々の間から月の光がこぼれた。夜明はまだ遠い。
どおっ。
二匹、三匹まとめて、ひと喰らいがふっ飛ぶ。ばきばきと枝がへし折れた。大瓦が薙刀をふるう。さらに飛びかかられても、あっという間に叩き伏せた。つづいて、弓月もちぎれそうな片足に添え木を巻いて薙刀をふるう。
ずんずんと、五人は林のなかを進んでいった。
「魂消たな」
春竹の背で才蔵がぽつり。鈴々は瞳から涙がほろり。
春竹は黙々と歩いてゆく。
いま、大瓦の髪はぐいと逆立ち、むき出た歯が尖る。弓月もおそろしく爪が伸びていた。そして大瓦には腕とわき腹に、弓月はその片足にかぶりつかれた跡があった。
ふと大瓦が指す。
「ほれ、あの崖の上に朽ちた御堂がある。そこに蟹頭のものどもはおる。もうひと息ぞ」
そして弓月も指す。
崖につながる山道が、林を抜けたところに見えた。
まこと、もうひと息であった。
ごふっ、ごふっ。
大瓦が咳こみ、太い古木にもたれかかった。
「大瓦房」
青ざめた顔がにっと笑う。
「春竹、なんのこれしき」
弓月がそっと竹筒を渡した。
ごくりと水を呑む。
「ふう。されど、おかしなもの。いよいよ闇に落ちそうになれば、なるほど、えたいの知れぬ力がわいてくる」
弓月もうなずいた。
「加えて、さきほどより、耳元でなにやらささいておる。それがしだいに大きゅうなってゆく。いってはならぬと踏み止まってはおるが」
鈴々は青ざめた。
大瓦がひとつ笑う。
「思えば、つわものどもに媚びてなにが仏法かと嘆き、抗えることを知らしめようと参ったが、これでは寺の厄介者払いに、まんまとはまったの」
「大瓦房」
弓月が咎めるようにいう。
「改めて、すまぬ。わしについて来たばかりに、このような処で」
「おまちを。みな覚悟のうえのぶちり。わびなどいりませぬ」
春竹がきっぱりといった。
あいわかったと、大瓦は頭をぽりと掻き、そして鈴々に向いた。
「さて、のう娘よ。やはり、このささやきに乗らば」
鈴々はぎくり。
僵尸きょんしーとかいう、唐のひと喰らいに転ずるのか」
その口元がふるふる。
「い、いやそれは、その、このぶちりどもに、つい口からぽろり。あたしも本物は知らない。すべては伝え聞いたもの」
「うむ。なれど、その伝えものに当てはめれば、まるごと合点がゆく。元は宝林であろう。あやつが、ひと喰らいと化して、みるみる広がった」
弓月もふむとなる。
「とにもかくにも、味方が敵に転ずる。おおよそ始末におえぬ。まさに自滅よの。先の連中もこのぶちりで、ほふられたか」
春竹が声高になった。
「りっ、鈴々さん、手立ては。どうやら、このぶちりは唐もの。ならば唐ものの清めやら、祈りなら鎮められるやも。この転ずるを防ぐにはいかに」
その片手が小さな肩をゆさぶる。
鈴々はうつむくしかない。涙がほろほろ落ちた。
「春竹房」
弓月がたまりかねる。しかし鈴々は顔を上げた。
「ある。きっとある。やってみますとも。ですから、ともに奥の院へ参りましょう」
なにかいわんとした弓月、その前に大瓦の手がぬっと出る。
ごつい手が、鈴々の頭の乗っかってなでた。
「鈴々」
娘ではなかった。
「ありがとう」
鈴々は涙が止まらない。
ひゅっと風が吹き抜けてゆく。
すると、才蔵があちらこちらと見廻した。藪の枝がざわりとゆれる。
「もう、来おったか」
大瓦は気合を入れる。
「さんざ倒した。あとはしれておる」
ちらとふり返った。
「鈴々、もう構うことはない。存分に、その退魔の鐘をひびかせよ」
えっと鈴々。胸元を押さえた。
弓月がうなずく。
「はて、あのぶちりをぶちれた鐘をなぜ使わぬかと、大瓦房と首をひねっておった。それはおそらく、闇のものに片足入れたわしらも苦しむと、案じたゆえであろう。なれど、ここは正念場。ためらいはいらぬ。なんとしても、みなで助かろうぞ」
「ゆ、弓月さま、大瓦さま」
春竹はそっとうなずく。才蔵はそっぽを向いたまま、そのほおに涙がつたう。
そろりと帝鐘を手にした。
青い色がこんなにも悲しく見えた。
しおりを挟む

処理中です...