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第一章 呑んだくれの阿国

(一)邪鬼あらわる

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どんよりとした雲ゆきだった。
河内の山中はこのところ雨でえらくぬかるんでいる。
ぱから、ぱから、ぱから。
そのぬかるむ泥を跳ね飛ばし、いましがた騎馬武者が五、六ほど駆け抜けていった。
「ほい。この間道の先ね。旗もちらほら、やはり勝ち組の陣がある」
ひょいと木の間から尼姿のものが顔をのぞかせる。
「もう、戻ろうよ」
もうひとりの尼姿が渋い顔になった
「白鈴、ここまで戦場に深く入っては抜けるのは厄介。下手にうろうろして、勝ちに酔ったやつらにみっかったら、たまったもんじゃない」
「乱取りというのね。手込めなんかまっぴらだよ。でも、ならやつらの巣である陣へゆくのは、なおのこと危ないだろ」
「それが、ふらちは立て前は禁じてる。とくに、尾張の大将はうるさい。もしも陣でやっちまったと知れたら、お腹をぶすりもの。だから、かえって大丈夫」
ふうんと白鈴。
「ともあれ、才蔵がくれた地図の通り」
阿国が書きなぐった紙切れをひらひら。
「どなたさまが居るのかね。子狐は字まで跳ねてるからわからない」
「ほほっ。まったく」
「やれやれ、路銀を用意してくれたはいいが、もっと水とか煎り豆とか腹の足しはなかったかね。とっとといっちまった」
「酒もね」
白鈴はあさってを向く。
「子狐、こんこん、気の向くままに。なにやらうらやましい」
阿国もあさってを向いた。
「あれも、はぐれ狐。いつも笑うその裏には、なにやらあるのさ」
へえってなるも、白鈴は首を振った。
「あのね、そういや、久しぶりに白鈴お姉の、そのおっきい尻踊りをみたかったって、どういうこと。いっちまうときも尻をふりふりいきやがった」
阿国は笑いこけた。
「それそれ。ほら、せっかく陣にいくんだ。おめでとうございまする。当家のさらなる吉兆を願いますると、あたしらもひとふりするかい」
「ちょっと、どうせ、あんたは酒にありつきたいだけだろ」
白鈴はぷりぷり。
阿国はへらへらと笑いが止まらない。
道を二つ、三つと曲がると、その先では、旗がずらりとはためいていた。陣幕が張られ甲冑武者どもが固めている。
はや、めざとく里のものが祝い物をもって寄っていた。
「立つ波に月の家紋。はてどっかで」
阿国はぽつり。
二人は、なにくわぬ顔で里のものにまぎれた。
酒樽やら桶に鯉を入れたものやらが次々と陣幕へ入る。しばし並んでいると幕から、派手な陣羽織の武者二人が従者に囲まれ出てきた。
へへえっと阿国と白鈴は控えた。
武者二人は大股で通り過ぎようとして、そのうちのひとりが足を止めた。
「むっ、そのほう。面をあげよ」
「は、はい」
阿国が上げる。
見事なあごのひげがあるものの、まだ青臭さがにおう若武者がのぞきこんだ。
「おう、よもや、ぬしは出雲の巫女踊りではないか」
だ、だれ・・白鈴が突っつく。
さてね・・あたしのひいきはたんといるよ・・
「いや、久しいの。あの京の巫女踊り以来か。そのおり、わしに向けて舞台より笑みをくれた。嬉しゅうて、跳び上がったの」
「は、はい」
「わしは、たまらず句を詠み、文として届けた」
「そんなの、山ほど、いえ、ありがたきこと。その、たしか」
「泉州の、大波次郎左、浜(はま)守(もり)よ。いや、こんな処で」
白鈴は目がまん丸になる。
あらま、あの、大波家なの・・・
いや、てんでさっぱり・・そういうのだったら、そうだろうね・・
「返しの句はなかったの」
阿国はしれっと返す。
「巫女は殿方には仕えませぬ。ゆえに、こんな女は忘れてたもれと、返さぬことが返しの句であります」
そっと目頭を押さえる。
「主が神ではやむえぬか。それで、こたびは」
花開く笑みの阿国。
「おめでとうございます。なれば、更なる吉兆をと手分けして廻っておりまする」
「なんと、めでたいの。おまえさまの舞なら、ぜひ」といいかけて浜守は口をつぐむ。狛犬のようなつらの、もうひとりが腕を掴んだ。
「うっ、そう、そうよ。その舞は、またのちに」
そそくさと、また歩こうとする。ところが掴んだものはそのままでいた。
「あ、兄者」
狛犬づらは、じろりと二人を見ている。
阿国と白鈴は首をひねる。
「兄者、どうされた。ゆくのではないのか」
聞こえぬふりで狛犬づらが二人に笑った。
「さても、わしは大波太郎丸、浜(はま)長(なが)じゃ。陣の主よ。さて、ぬしたちを見込んでの、少々手を貸してくれぬか」
あっ、はいと阿国。
「巫女なればこそよ。なに、褒美はやる」
「はて、なにでしょう」
狛犬眉がくねる。
「憑きものを祓ってくれ。この先の里じゃ」
あっちゃあ・・
阿国と白鈴は息を呑んだ。

どんよりと薄暗い空。
やけに強い風が吹き抜けた。
ほどなく四人の前に馬が三頭引かれた。
阿国はためらいもなくひらりと乗る、つづいて白鈴が押されて乗り、おのれの馬にどちらか乗せたかった浜守はやや残念そうに馬に乗った。
先に馬にのった浜長が、それっと駆ける。二頭はつづいた。
「ふむ、阿国や。さっきの騎馬武者はこれやも」
「かもね」
右に左にと曲がって山を降りてゆくと、谷間の小さな里に出た。
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