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第一章 呑んだくれの阿国

(一)ねたはないか

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ばらばら。
通り雨がさっと抜ける。
あとには妖しいほどの夕日が町並みを照らした。
和泉の国は堺。
商いのものたちが、いまだ日の本のつわものににらみを利かせるところ。
時は天正十年(1582年)六月。
京の本能寺では、魂消ることがおきていた。

「もうっ、やってらんない」
たんたんと、足早に階段を上がってくる。
年のころは二十歳過ぎか。
黒髪を高いところで束ねて、それで輪をこさえて止めている。のちに唐輪髷と呼ばれるかぶいた髷のひとつ。雪に鶴が舞い踊る洒落た小袖を着こなし、軽く帯を崩している。背丈はやや高く、すらりとした姿。面長で眉は細くのび、切れ長の瞳がちょいとつり上がっている。通る鼻筋に、小ぶりな口元はほんのり桜色。
まるで、凛と咲く百合の花のようだが、いささか目つきにしたたかさがある。
出雲の阿国という。
なかなかの喰わせもの、というものもいた。
その、むくれたままに二階にゆくと、障子をばんと開けて、どっかと上座に座る。下座では白衣姿の、似たような年のころの女がしきりに薬研で、木の実やらを砕き粉薬をこさえていた。
ふふっと、ぽっちゃりとした丸顔が笑う。
「あらま、今日はまた、えらくぷんぷんだね」
「そりゃそうさ、白鈴。やっとこさ仕上げた芝居のねたをけんもほろろ。あげく、おつむを冷やせって。あの千石のやろう」
「淡路屋の若旦那かい。めずらしいね。芝居が飯より好きな傾奇者かぶきものなのに。なんのねたをもってったの。ともあれ、もういっぺんおつむを下げないと。旦那衆がうんとならないと、銭も集まらない」
へらっと阿国が笑う。そして、腰に下げた徳利を手にして濁酒をぐびぐび呑み始めた。
「もういいの。ぼんくらどもめ」
やれやれと、白鈴呆れ笑い。阿国は酔いがからんでくると、さらにああだ、こうだと、ぶちまけてくる。騒いでいる。二階を通りをゆくものが、ときおり仰でいった。
そこは、町の端にある漢方屋。看板には太文字で鈴屋とある。
童どもには、怖れられていた。よく効くがひりひりと辛い。おっかあや、おっとうに悪さをすると鈴屋に連れてゆくとおどされていたからだ。
ひょいと風のように、小僧が店にやってきた。
「阿国姉さんいるの」
やや面長の顔立ちに鼻筋が通るも、口元はにやけてる。瞳も切れ長で細長く、いつも笑っているかのよう。
さながら、すばしっこい子狐。
けれど、出で立ちたるや、錦絵の雲竜を染めた大人の羽織を平気なつらで着込んでる。軽く結った髪を後ろに、ぶらりと垂らす。
生意気を絵に描いたら、こうなるか。
すたすたと、入ってゆく。そこかしこに、丸薬やら、粉薬かきちんと並べられてある。つんとするにおいが鼻をついてきた。
「おっ」
やたら大っきい高麗人参が置かれてた。なにげに、日に焼けた腕が伸びる。
「才蔵っ」
ぴしゃりと声がかかる。
いつの間にやら、つぶらな黒い瞳で、きゅっとにらむ小娘が立っていた。色白で整った目鼻立ちが可愛い。その顔で怒ると、より可愛くなる。
「鈴々」
子狐つらが、へらへら笑った。
「居たのか。なら、すぐ出てこいよ。こっちは、千石の旦那から姉さんどこだって、尻を叩かれて、走りまわってるのに」
鈴々はぷいっとそっぽを向く。
「どうも、このところ、値の高い人参の数が合わない。さては、どこかのねずみとにらんだら、やっぱり」
「まてよ、ちょいと摘まもうとしただけじゃないか。いいか、もしおいらがその気なら、この店の品なんか、あっという間にかっぱらってやる」
「そら、しゃべった。やっぱりねずみだ。あとで、阿国姉さまに灸をすえられるといい」
鈴の描かれたはんてん姿の鈴々が、ちらっと二階を仰ぐ。
「それで、姉さんはいるの、いないの」
「さあ、あたし忙しいから」
そのまま背を向ける。才蔵が階段から上をのぞこうとするのを、なにくわぬ顔で邪魔をした。
ぷっと、苦笑い。
「さては、酔っ払ってるのか。呑んべえめ」
そこで、わめいてやった。
「いまや、踊りといえば阿国の一座。出雲の大社おおやしろの寄付を頼みて、日の本を西へ東へ踊りと芝居で賑わせる。一座がゆけば、やれ楽しや、やれうれしや、心が舞い踊る」
才蔵も、ひらりと舞う。
「さて、そこで、こたびの芝居は、炎に散りゆく姫君とやら。なんとも悲恋な姫の物語。ときに姫として生き、姫として嫁ぎ、そのさだめに迷いもなかった。なのに、過ぎ去りし日々の恋が、いまに、よみがえる。それも、主が謀反で倒れる炎のなかで。
ややっ、そなたは光秀か。濃姫さまっ。燃え落ちる本能寺。涙はらはらって、けど、このねた、ほんとに舞台でやるの」
子狐のつらがしょっぱくなる。
「京の都は、いまやてんやわんや。どの武将もぴりぴりしてる。そこへ、この姫君の見世物なら、あとで、どんなお咎めがくるやら。一座だけじゃなくて、堺の衆もとばっちり。さすがの旦那もおじけるさ。華やかな絵巻物だけど、このねたは没だね」
どんと、二階で音がする。鈴々は耳をふさいだ。
「おっかねえ。じゃましたな、鈴々」
ふっと笑うと、もう才蔵の姿はなかった。
二階では、なるほどと白鈴が笑いをこらえてる。上座では、半紙を並べては、阿国がどっぷりと墨を含ませた筆で、文字を書き散らかしていた。
ずぶと、大蛇がのたうつように文字を走らせる。そしてするりと抜く。ぽたりとしずく。
「むう」
気に入らないのか、紙を丸めてぽいと投げる。
「いまさら、流行りの、阿弥陀仏の写経かい」
白鈴が呆れる。
「悟ったの。芝居とは、後先なんかどうでもいい。粋のよさこそ。なのに、へっぴり腰のやつらばかり。なら、芝居屋よりも、もっともらしいお経を売れば、そのほうが楽に銭になる」
「むくれるのは、およしなさいって」
「むくれるさ。だいたい、唐から逃げてきたって、白鈴と鈴々。踊りはへたっぴで、唄も音がずれる。でも漢方を知ってる。なら、商いになると喜んだのに、堺に叔父がいて、店までやってると知るや、とっとと出てった。それで、久しぶりに来たら、いまや鈴屋の主か。左うちわだね」
「おっと、からむね。そりゃ、一座のみんなには済まないけれど、鈴々のためにも旅回りは辛かったのさ。さんざわびたじゃないか」
ぐびっと阿国は徳利の濁酒をそのまま呑む。
「許さないよおっ」
どぷっと、硯の墨を筆に含ませるや、太文字を走らせた。
「いやはや、これはあっとなる、ねたはないものか。そうでもないと、この呑んだくれは、どうにもおさまらない」
ことっと、薬研をどけて白鈴は腕を組んだ。
ふと、どすどすと音がする。のそのそとした足取りで、誰か階段を上ってきた。
「白鈴や。阿国姉さまが、淡路屋を出てったまま戻らないって。どこいったか」
布袋様のようなつらに、ちょんとあごひげのおやじが、ぬっと入って来た。
「あらま、居た」
阿国はぶすっとする。
「居ちゃ悪いか、王鈴」
わっはっはと、王鈴はその太鼓腹をゆすって笑った。
「そんなことない。おめでたいね」
年中おめでたい顔がいう。
南京屋の王鈴。
たぬきおやじとも、唐狸とも、やたらあだ名されている。
なんとも、ぷんぷんにおうも、どこか憎めない。
ちょうど、鈴屋の反対の街並みの端に店がある。そこで、おもに唐の器や骨董品を売っていた。ただ、店の奥は胡散臭いものばかり。古の竜の玉だの、呪われた首飾りだの、瓶につめた人魂とやらもあった。まさにお化けの店と童には人気があった。
「あっ、そうだ、叔父さん」
白鈴がここぞとばかりにいう。
「阿国がね、いま煮詰まってるの。なにか、いいねたはないの。ほら、商いでみんなを、たぶらかしてるような、いかがわしい、ぷんぷんにおうやつとか」
こらっ。
阿国と王鈴の声がかぶった。
「なにが、煮詰まってるの」
「なにが、たぶらかしというの。みんな、ほんもの。それはそれは怖ろしい」
はいはいと白鈴は笑ってる。
ふと、王鈴はあっとなった。そこらじゅうに書き散らしの紙が丸めて転がっている。
「おや、ほんと煮詰まってるね」
いや、それはと阿国がいいかけるのを、王鈴は構わずにいった。
「よろしい。ねたというなら、とっておきの秘宝がある。天竺のもの。ただの亀の甲羅にみえるけど、地図が刻まれていて、どこやらの海に竜宮があって、お宝の箱があるらしい」
阿国が呆れて笑う。
「あんぽんたんか。婆さまになってどうする」
「あら、そうか。ならば、そうそう」
王鈴がへらっと笑った。
「ちょうどよい。そういうねたもの、いっぱいのひとが、うちに商いきてる。下にいるよ」
ぱんぱんと手を叩いて呼んだ。
「やあやあ、紅骨さん。構わないから、おいで」
阿国がいいにくそう。
「こ、こうこつ」
白鈴がそっと阿国のそばに寄る。
「南京屋の仕入れ先のひとつさ。ときおり、人足に荷を担がせては商いにきてる。おもに骨董なんかを売ってるけど、占いもやるの。あたしは、どうも苦手のひと」
「ぶっそうな、やから」
「いや、胡散臭いほう。さて、なにものやら。和人か、唐人なのか、それすらわからない。売りものの品も、ひとくちで眠り続ける林檎だの、見た目が野獣になる薬だの」
「やれやれ、狸だか、なんだか、もう一匹いるのかい」
白鈴は苦笑いする。ひた、ひたと、階段を踏む音がする。
やがて二階に上がってきた。
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