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第42話 お別れの日

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 本居は保健室を訪ねた。無論、試合で負傷した靖、嵐子の容体を気遣ったためだ。

「失礼します」
 
 入室した本居は、そこにベッドに横たわる息子を心配そうに見守る理事長の姿を見出した。

「理事長、息子さんの容体は?」
「ええと、君は確か靖の友人の……」
「本居といいます。息子さんとは小学生以来の友人です」
「我が家に遊びに来た時、一度顔を合わせたことがあるよね?」
「覚えてましたか?」
「ああ、剣術道場で知り合ったとかで、靖もいいライバルが出来たと喜んでいたよ」
 
 意外な言葉だ。靖が自身をライバル視していたとは。剣術道場で知り合って以来、剣技で彼に先んじたことは一度もないはずだが。
 理事長がポツリと呟いた。

「靖は友人が少なかったから。あの当時、剣術をやっている友人は一人もいなかったはずだ。息子は学級委員長にはなれても、ガキ大将にはなれないタイプなのだよ」
「……」
 
 本居の口元が綻んだ。共に剣術を愛する友としての彼に、改めて厚い友誼を感じたのだ。
 眼下で眠る靖の頭には包帯が巻かれていた。病院に搬送されなかったところをみると、どうやら軽傷で済んだようだが、一刻も早い意識の回復を願わずにはいられない。

「ところで一番合戦君の方は?」
「背中に裂傷があったので、念のため病院に搬送されたが、校医の診立てでは命に別状はないそうだ」
「そうですか、良かった」
 
 安堵に胸を撫で下ろした本居。そこでふと傍らの理事長が密かに入手した大スクープの情報源であることに気付いた。
 ムクムクと記者魂が頭を擡げる。取材するにはまたとない機会だ。
 彼は意を決すると、「理事長、実はお尋ねしたいことがあるのですが」

「うん、何かな?」
「一番合戦君に……、その、娘さんの方の話なのですが。実は彼女、あなたの実子ではないかという噂がありまして。有り体に言えば、あなたと蘭子さんの間に出来た娘だと」
 
 理事長の表情が一瞬険しくなった。

「それをどこで?」
「あなたや蘭子さんの同期生を中心に取材を重ねました。実は以前から靖と嵐子君が非常に似ているという噂がありまして。あなたと蘭子さんが混合ダブルスで優勝した逸話は半ば伝説と化しています。二人が恋人同士だったとしても何の不思議もありません。それでもしやと思いまして」
「事実だ」理事長の声は小さく鋭かった。
「ーー!」
「嵐子君は紛れもなく、わたしの血を引いた娘だ」
「……」
 
 予期したとはいえ、やはりその衝撃は大きかった。
 本居は二の句が継げなかった。
 室内を沈黙が支配した。
 秒針の歩む音がハッキリと耳朶を打つ。壁に掛かった時計は既に午後九時を回っていた。
 天井を見つめる本居の視線がいつしか友の顔に落ちた。

「あの、靖はこのことを?」
「いや、知らんよ」
「そうですか」
 
 その時だった。小さな呻き声と共に靖が目を覚ました。
 彼はしばらくの間、虚空に目をさ迷わせていたが、やがて自身を取り巻く安堵の瞳に気が付いた。

「……ここは?」
 
 本居が応えた。

「学院の保健室だ。おまえは助かったんだよ」
 
 沈黙。
 靖が、そこに蘭子が存在するがごとく天井を睨んだまま、

「そうか、僕は敗北したんだ。なんて無様な」と嘆いた。
 
 沈黙。
 硬く閉じた双眼から一滴の涙が零れ落ちた。
 理事長が笑った。

「どうだ、公式戦初敗北の味は?」
「……」
「なかなか苦いものだろう? 実はわたしも公式戦初敗北の相手はあの蘭子さんだったのだよ」
「ーー?」
「親子揃って彼女の前で討ち死にした訳だが、まあ、良薬口に苦しだ。その経験を今後の糧とするがいい。以前、わたしがそうしたように……」
「……」
 
 沈黙。
 靖が双眼を見開いた。そこにはもう涙はなかった。
 理事長、背伸びをすると椅子から立ち上がった。

「さて、では帰るとするか」
 
 靖も気怠そうにベッドから降り立った。
 そして本居の方を顧みると、「家まで送ろうか?」

「いや、俺の家はすぐそこだから。こんな夜は火照った頭を夜風で冷ましたいのでね。歩いて帰るよ」
「そうか」
「ではお大事に」
 
 理事長に一礼すると保健室を出た本居。廊下を歩きながら浴衣の袂より取り出した一枚の紙片を眺めていたが、「これはボツだな」そう呟いて、その紙片を握り潰した。
 そこにはこうしたためてあった。ーー世紀の大スクープ、一番合戦嵐子は理事長、清流院擾の娘だった!!! 生徒会長はお兄さん?!

 ■■■

 あの世紀の大一番から既に十日が経過していた。
 冥王学院も御多分に漏れず夏休み期間中であり、院内に人影はなく、夏の眩い日差しだけが廊下に透明な影を落としていた。
 あれはアブラゼミだろうか? それともミンミンゼミ、あるいはクマゼミか。そんな夏の気怠い空気に交じって、職員室の方から微かに人の話し声が聞こえてくる。
 ある夏の日の昼下がり、一番合戦嵐子の姿は冥王学院の職員室にあった。

「どうかね、傷の具合は?」
 
 当直の坂田が眼鏡をずらして上目使いに尋ねた。

「はい、もう大丈夫ですぅ。私は不死身の女の子、あの程度の怪我で入院なんて大袈裟なんですよ~」
 
 嵐子が笑った。

「そう、それは良かった」
 
 坂田も笑った。
 その視線は嵐子から窓外へ移された。
 外の風景というよりは、何かもっと遠くを眺めている、そんな感じの穏やかな眼差し。
 嵐子も釣られたように窓外へ目を移した。

「お母さんがわたしに刀を与えたのは、わたしが三歳の頃でした。今でもハッキリ覚えています。ーーこれは刀匠だったおじいちゃんが精魂込めて鍛えた日本一の刀だ。この刀に相応しい武道家になれ。でも私ぃ、保育園のお友達をその刀で引っ叩いちゃったんです。そしたらお母さん、カンカンに怒っちゃって。代わりに与えられたのがピコハンだったんです。それから毎日ピコハンで素振りを繰り返しているうちに、いつの間にか手に馴染んじゃって」
「で、得物をピコハンにした訳だね?」
「勿論、手は加えてはありますよ。玩具のままでは使えませんから」
「使い熟すのに随分と苦労したろうね?」
「ええ、既存の剣技はピコハン向けには出来ていませんから」
「一度、君が打刀で試合するところを拝見したかったが。無論、心得はあるのじゃろ?」
「もしわたしが打刀で試合をしたら、死人の山を拵さえていたかもしれません。わたしぃ、まだ前科者にはなりたくないので、いざ鎌倉、という場合にしか打刀は使いません」
 
 坂田が小さな笑い声を漏らした。そして再び窓外へ目を移すと、「今は台風の季節じゃが、今年はまだやって来んのう」と天気の話題を一くさり。熱いほうじ茶を一口啜ると、

「実際、君は名前の通り嵐じゃった。正に学院の台風の目じゃった。じゃが、君のお陰で学院内の沈滞していた空気が吹き飛ばされたのも事実じゃ。君が来るまではBクラス、Cクラスの生徒は所詮才能のない者は上級者に勝てない。稽古など……、努力など無駄なことだと諦観しておった者が大部分じゃった。だがのう、君のあの試合、清流院君に叩かれても叩かれても希望を捨てずに立ち上がるあの姿に、大勢の者が感化されたようで。ほら、耳を澄ませば聴こえてくるじゃろ? 夏休みにも拘わらず体育館や道場で、稽古に励む生徒達の声が……」
 
 嵐子の耳にも聞こえてくる。生徒達の稽古に励む気合の入った声が……。
 嵐子の心にも響いてくる。生徒達の剣術に打ち込む情熱が……。
 その時、靖や玲花、五月やイク、本居や朽木、太田や羽山、龍虎や金太郎や足柄山の熊、その他大勢の生徒の存在が身近なものとして感じられ、思わず嵐子は微笑みを浮かべてしまった。
 坂田が視線を戻した。

「また日本へ帰ってくるのじゃろう?」
「はい、そのつもりです。出来ればまた冥王学院へ転入したいと思います。それがお母さんの遺言ですからぁ。あっ、それまでに日本語、上達しておきますね」
「うむ、待っているよ。出来ればわしが教鞭を取っているうちにな」
「はい、了解しましたぁ~」
 
 嵐子は深々と一礼すると、坂田の下を辞去した。
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