碧春

風まかせ三十郎

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Ⅱ 痴態×痴女=美少女 それは破綻した方程式

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 周囲の人々は私事に没頭しているがのごとく、だあれもわたしと視線を合わせようとはしなかった。他人と目を合わせないのが乗客としてのエチケット。だがこういう場合に限っていえば何となく腹立たしい光景ではある。この無関心を装う人々の中に確実に一人、わたしと不快で不潔で不謹慎なコミュニケーションを取りたがってるやつがいる。

 ん、このハゲ親父か!

 背後に佇む中年サラリーマンを注視する。
 額に浮かんだ玉の汗。くたびれて皺の寄った安物の背広。そしてスクエア型の眼鏡の奥から覗くいやらしい目付き。鬱屈した中間管理職の体現者であるこのオヤジ以外、それらしき該当者は見当たらない。ジッと睨みつけても、オヤジはどこ吹く風。こちらを不審げにチラ見すると、再び手にした週刊誌に目を落とした。うん、このオヤジ、袋とじを開いてやがる。さてはエッチな記事を見て発情したか? 身体を捻ってやんわりと拒絶しても、それは却って相手の欲情を煽るようなもの。ここは強い態度に出ることが肝心だ。

 仕方ない、一丁、やったるか!

 貞操の危機を回避するためなら、少しくらいの暴力は許される。こんなとき幼い頃から習っていた空手が役に立つ。とは言っても、道場以外で技を使うのはこれが初めてだ。心臓は試合が始まる直前の、あの心地よい緊張感に波打っている。思い切り息を吸い込むと、後ろ手に太股に伸びた腕を取って脇に挟んで素早く捻り上げた。

 痛っ!

 それは人いきれに紛れてしまうような小さな悲鳴だった。
 そのとき電車がガクンと揺れた。でもわたしがバランスを崩したのは、その衝撃のせいだけではない。意外に軽い手応え。ーー八神が好むライトな低タール煙草の事ではない。その華奢な腕と、それを覆う濃紺の服の袖は、どう見てもオヤジのものではない。冷や汗越しに見たオヤジの両腕は、こちらの誤見を肯定するかのように、週刊誌と通勤鞄で塞がっていた。
 ではこれはいったい誰の腕かしら? もし女性の腕だとしたら、なぜわたしは狙われたのか? まるでナマコでもつかまされた気分。ほんと、気持ち悪いったらありゃしない。放り出そうとして、ふと目に止まった袖口の三本線のストライプ。まてよ、これって、もしかしてうちの学校の制服だったりして……。
 恐る恐るその腕を引っ張ったのは、事実を確認するのが怖かったからだ。
 人垣を割って顔を出したのは……、女の子だった。それも同じ学校の生徒!
 顔を見合わせた瞬間、相手の双眸には吃驚したわたしの顔が映っていた。彼女は掴まれたままの左腕をチラ見すると、不意ににっこりとほほ笑んでみせた。

 なぜ、なぜ、この状況で笑う?

 思わず愛想笑いを返したのは、彼女が予想の他美しかったせいかもしれない。そう、汗臭い中年オヤジに触られるよりはずっとマシだ。そうだ、そう思いたい! でもなぜこんな娘が痴女紛いの行為を? 頭の中はちょっとしたパニックだ。同性に悪戯されたなんて、仲間内の笑い話にもならない。
 もう彼女を咎め立てする気は失せていた。それでも腕を離さなかったのは、彼女の真意を知りたかったせいかもしれない。単なる冗談か、はたまた欲求不満の解消か? まさかわたしに気があるなんてことは……。もしかして、百合ぃ~!

 電車が急に減速した。彼女は傾いだ人波に添って、わたしの胸に凭れかかった。
 見上げる彼女の双眸から微笑が消えた。そんな哀願するような眼差しで見つめられると、まるでこちらが加害者になったような、いわれのない罪悪感を抱いてしまう。

「あなた、可愛いわ」

 彼女の吐息がわたしの耳朶を掠めた。
 見開かれた碧い瞳の奥に、わたしの黒い瞳が重なった。

「ねっ、いいでしょ?」

 いったい何の許可を求めているのか?
 
 それを問い質そうとしたわたしの唇は、不意に彼女の唇で塞がれてしまった……。

 瞬間、頭の中が真っ白になった。腕時計の秒針が重なり合って、心音がコツコツと小刻みに時を刻んでゆく。一秒という時間をこれほど長く感じたことはない。
 
 この瞬間、彼女もわたしと同じように目を閉じているんだろうか?

 悪夢を振り払うには、周囲の状況に流されない意思の力が必要だ。無理やり目をこじ開ければ必ず世界は一変する。悪夢と現実は入れ替わり、わたしは再び別の道を歩み始める。でも目を見開いたその時に、彼女と目を合わせてしまったら? 瞼に焼き付いた彼女の面影が、変わることなくわたしの目の前で微笑んでいたら?
 夢は願望充足の現れだっていうけれど、この不条理世界のどこに希望を見い出せというの? この状況を現実と認めざるを得ないそのときは……、わたしの世界観は一変する。どの道、選択の余地はないようだ。

 えーい、ままよ!

 目を見開こうとすると、瞼の筋肉がひくひくと痙攣して、わたしの意思に逆らった。たかが瞼を持ち上げる運動に、これほどの力を強いられようとは……。その不随意筋のごとき反抗的な態度に、わたしは不具者のごとき絶望感を味わった。

 もう一度……。

 その瞬間、パッと視界が開けて、わたしは居るべきはずの場所へ舞い戻った。そこは以前と変わらぬ車内の風景。でも彼女の姿だけが欠けていた。

 ど、どこへ行ったの?

 止めどなく流れる時間の、あるいはほんの一瞬の擦れ違いだったかもしれない。
 
 あっ、いた!

 見つけたときは、もう手遅れだった。
 彼女は開かれたドアから人波に紛れてホームに滑り降りた。車内で置いてけぼりを喰ったわたしに、揶揄やゆを含んだ視線を投げかけながら……。

 わたし、もしかしてからかわれた?

 むらむらと沸き上がる怒りも、今となってはぶつけようがない。
 持て余した感情のままに、視線はいつまでも車窓から彼女の背中を追っていた。
 電車が再び走り出した。彼女の後ろ姿が視界から消えたとき、わたしはふと重大な事実に思い至った。

 ……そうだ、わたしもこの駅で降りるんだった。
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