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第16話 演習

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 まだ暑い盛りの七月下旬に行われた野外大演習は九万人のグローク人が敵味方に分かれて戦う大規模なものとなった。これは野外演習の総仕上げを意味するものであり、以後は艦船実習が課業の中心となる。選抜されたグローク人が大隊を指揮し、それを教官たちが連隊に統率する形で行なわれた。九万人のグローク人はパミーヤ高原を中心に配置され、東軍をヴォルフが、西軍をプレンデルが、それぞれ指揮官となって統括した。
 ウォーケンは丘陵に作戦本部を設置して、他の幕僚と共に各部隊の動きを督戦した。兵は特殊な戦闘服を着込んでおり、模擬弾が命中すると、その箇所や距離により戦死から軽傷まで、コンピューターにより選別され戦列から弾かれた。銃身で突かれた者も、銃剣で突かれたものと見做され同様の処置が取られた。戦死者及び戦傷者の数を正確にカウントすることで、実戦さながらの戦闘を再現できるのだ。
 
 演習は早朝の〇六〇〇時より開始された。
 グローク人兵士は各所でぶつかりあい、早くも数か所で白兵戦が発生した。その勇猛果敢な戦いぶりは初日で戦死者二百名、負傷者八百名という数字となって表われた。実際、取っ組み合いや銃床で殴られたりして数十名の負傷者を出している。その陸軍兵すらも凌駕する戦意旺盛な戦いぶりは、ウォーケンを初めとする司令部幕僚を十分に満足させた。初日の演習は十四時〇〇時に終了した。司令部に集まった現地指揮官も口をそろえてグローク人の敢闘精神を褒め称えた。

「やりますな、彼らも……」

 ヴォルフが感に堪えたように呟いた。

「意欲と使命感の勝利ですな」

 ブレンデルも確たる様子で頷いた。

「いっそのこと、うちの部隊を海兵隊に鞍替えさせますか」

 ソコロフは言った直後に、その発言が冗談にならないことに気が付いた。
 ウォーケンはその日の戦果を総括すると、改めて各部隊に指示を出した。

 ■■■

「明朝も〇六〇〇時より作戦開始か」

 トムソンは夕飯を掻き込みながら命令書に目を通した。
 これがあと六日間続くのだ。四十歳過ぎの自分にはしんどい訓練内容だ。だが部下の前で無様な姿はみせられない。彼はいまや兵曹待遇となって小隊の指揮を執っていた。下士官が小隊の指揮を執るなど他の部隊では考えられないことだが、中堅指揮官ですらグローク人で補わなければならないこの部隊にとって、字が読めて人望のある者はそれだけで貴重な人材といえた。彼らはこの海兵団を卒業するまでに士官に任命され、やがては配属された艦艇で主要部署を任されることになるだろう。彼らが経験豊かな人類士官並みに働けるかどうかはわからないが、今後の航海実習において更なる階級の変動が起きることは確実だった。教官たちは彼らの適性を見抜くために、あらゆる試練を課してくるはずだ。トムソン自身は敢えて出世を望まなかったが、グローク人の大儀のために命を捨てる覚悟はできていた。彼はとうの昔に妻と離婚しており、一人息子とも音信不通となっていた。自由が彼にもたらしたものは開放感よりもむしろ喪失感だった。戦争は自分の人生に重大な意義をもたらす最後の機会かもしれない。

「よう、この文字何て読むんだっけ?」

 トムソンが命令書から目を離すと、グレイが手にした本の一字を指さした。それは人類の幼児が字を覚えるために書かれた絵本だった。

「”友達”だよ」

 皮肉なものだとトムソンは思う。字を知っていることが出世の条件の一つであることを知ったとたん、多くのグローク人が積極的に字を覚えようと努力するようになった。司令部は初心者向けの絵本を配布して、彼らの向学心に応えた。トムソンやダフマンのように字の読み書きができる者は、仲間から事あるごとに字の読み方を尋ねられた。そんな識字運動のような動向に背を向ける者もいた。たとえばスレイヤーなどは、

「フン、今更字なんか覚えてどうする?」
「なんだ、おまえ、出世したくないのか?」

 クロウは怪訝そうに本から顔を上げた。

「焦るこたぁねえさ。出世したきゃ戦闘で功績を上げりゃいいんだ」
「まあ、おまえさんは運動神経がいいから、それも可能だろうが……」

 スレイヤーがクロウの本の表紙を覗き込んだ。

「おまえが読んでる本、みんなのものと違うな。どこで拾った?」
「図書館さ。ダフマンに教えられてね。あの絵本くらいなら読めるからな。どうせ読むなら、もっとマシなものをと思ってよ」

 クロウが手にしたのは中等教育用の教科書だった。彼はいくらか字が読めたので、絵本の代わりに教科書で難しい字を覚えようとしているのだ。それでも彼はグレイと同じく二等兵のままだった。その点、スレイヤーは連絡艇の操縦技術を認められて、既に一等兵に昇進していた。専門分野の腕を磨くことも昇進の有利な条件の一つだった。この部隊にいる限り、出世の条件はいくらでも転がっているように思われた。

 ■■■

「二二〇〇までに就寝のこと」

 トムソンの口から思わず欠伸が漏れた。
 就寝時間にはまだ少し間があったが、中年の肉体には耐えがたい疲労が蓄積していた。そろそろ眠ろうかと考えていた彼の下に、司令部から新たな辞令が届けられた。それは明日を以て彼を二等兵曹に任命するというものだった。
入隊してわずか二か月で下士官に昇進とは……。出世とは無縁の部署で戦うことを覚悟していたトムソンからすれば、これは思いもよらぬ果報といえた。だが軍隊に限らず、社会において出世に責任は付きものだ。ろくな実戦経験のない自分に、どれほどの職責を全うできるというのか? 今日は後方で兵站を担当したが、明日は前線で戦わねばならない。連隊の左翼を担ってパミール高原の東にある丘陵を占拠するのだ。果たして自分は課業で教えられた通りの行動を、小隊に命じることができるだろうか? 興奮した兵士たちにより各所で白兵戦が頻発したことは、彼の耳にも届いていた。実戦にせよ演習にせよ、まずは冷静になることが大切だ。
 心にゆとりが生まれたせいだろう。彼は消灯ラッパの音を聴くことなく眠りに就いた。

 そんなトムソンの様子に気付くことなく、グレイは灯の下で一心不乱に絵本を読み耽っていた。この半年の間に何度読み返したことか。トムソンやダフマンに繰り返し尋ねたお陰で読めない字はほとんどなくなっていた。当初は字を習得するための読書だったが、彼は次第にその物語に惹かれていった。それは旧世紀を代表する奴隷文学の傑作で、トムという黒人奴隷の苦難に満ちた半生を描いたものだった。自分の記憶とダブる部分も少なくなく、特に最後のトムが息を引き取る場面では、重労働に病み疲れて死んだ祖父の姿が瞼に浮かんで涙なしには読めなかった。
 
「なんだ、また読んでるのか?」

 クロウが思わずグレイの顔を覗き込んだ。
 歩哨任務を終えて天幕に帰ってきたのだ。
 
「おまえ、泣いているのか?」

 グレイが涙に暮れた顔を上げた。

「おまえこそ、これを読んで悲しくならねえのか?」
「作り話を読んで感動するのはお子様だけさ」
「いや、ここに描かれていることは事実だって、ダフマンが言ってたぜ」

 クロウは煙草に火を点すと、天井に向かって紫煙を吐き出した。

「だとしたら黒人同様、俺たちも人類と対等な関係を築けるかもしれねえな。まあ、今の俺たちにとっちゃあ、遠い遠い夢物語なんだろうが……」
「ダフマンが言ってたぜ。強く求めさえすれば理想は必ず実現するって」

 クロウが苦笑いを浮かべた。

「ハハッ、これだから苦労知らずの言うことは……」
「俺も最初はそう思ったさ。でも黒人の歴史ってやつを教えてもらったら、もしかしたらって思ってよ」
「どうせ実現するなら、俺たちが生きているうちに実現してほしいもんだ」
「俺たちは架け橋なんだそうだ。人類とグローク人を繋ぐための……」
「架け橋? 誰がそんなこと言った。またダフマンの野郎か?」
「ああ、そうだけど」
「おまえ、この頃あいつの影響を受けてねえか?」

 グレイはふと考え込むように視線を落とした。
 クロウは煙草を揉み消すと、憐れむようにグレイを見た。

「おい、ダフマンに言っておけ。俺たちは架け橋なんかじゃねえ。捨て石だとな」
「捨て石?」
「そうさ、だからそんな夢物語なんか捨てて、生き延びることだけを考えるんだ」

 クロウはごろりと横になった。その視線の先には疲労の浮き出たトムソンの背中があった。

「うちのトム爺やはもうお休みかよ」
「あれ、さっきまで起きていたんだけど……」
「歳には勝てねえってわけか。こんなおっさんが俺たちの隊長とはな。明日の演習に耐えられるのかね」
「静かにしろよ。起こしたら悪いだろ」

 グレイの押し殺した呟きに、クロウはしかめ面して口を噤んだ。
 天幕に再び静寂が蘇った。グレイは再び黙々とページを捲り続ける。眠気を感じているにもかかわらず、手を止めようという気にはならないのだ。不意にわからない字に出くわして、読み方を尋ねようとクロウを見ると、既に彼も軽やかな寝息を立てて眠っていた。そのときグレイは消灯ラッパの音を聴いた。ダフマン、スレイヤーの両名は明け方まで歩哨に立つので、消灯時間になっても戻ってくることはない。グレイはようやく本を閉じると、灯を消して眠りに就いた。
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