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Ⅲ
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「哀れなものね。この三十年、民間は技術力で目覚ましい発展を遂げたけど、逆に官庁は技術力を失って、入札価格すらも自前で設定できなくなった。結果は民主導によるコンクリート構造物の生産方式の分業化と省力化よ。高度経済成長は無責任な工事が罷り通る温床を造ったのよ」
彼は杜撰なトンネル工事の話を聞いた。先に流し込んだコンクリートが割れているにも拘わらず生コンを足したのだ。これではコンクリート内部に空洞が生じてしまう。
「発注官庁の担当者の多くが一流大学の土木工学科の卒業生なのに。彼らは大学で何を学んだの? 必要なのは技術屋でしょ? 事務屋が必要なら他の学課から採ればいいのよ」
彼は杜撰な生コンの強度試験の話を聞いた。試験体の強度が基準を大幅に下回ったため、工事担当者が慌てて発注官庁に報告したところ、帰ってきた指示は建造物の改築ではなく、検査データの改竄だった。
「以前はこんなことなかったはずよ。官庁は厳格な管理の下で民間に施工を請け負わせていた。書類審査だけの施工は見掛け倒しの安価な建造物を増やすだけ。あなたのお父さんは建設省の優れた技官だった。公共事業の悲惨な現状を知ったらなんて思うかしら?」
背筋に驚愕が走った。なぜ親父のことを知っている?
「わたしには見える。この地上のあらゆる場所が……。あなたが点検していたトンネル、あれもお父さんが施工したものよ」
知らなかった。父親が施工したトンネルを息子が点検するなんて。こういうのを機縁というのだろうか?
「お父さんの残した偉大な遺産を、その眼でしっかりと確認するといいわ」
大袈裟な物言いだな。恒久的な価値を認められた文化遺産じゃあるまいし。
「たかがローカル線のトンネルがじゃないか。新関門のような海底トンネルなら先端技術も必要だろうがね。こんなトンネルは誰でも施工できるんだよ」
「四十年経っても安全性を保障できるトンネルが今いくつあって? あなたのお父さんはそういう仕事を残したのよ」
「それは嘘だ。さっき危険な剥離を確認した。親父がいくら入念に施工してもコンクリートの劣化を防ぐことは不可能だ」
科学の進歩は多くの失われた人命の上に成り立っている。鉄道という大量輸送の手段は大勢の人たちを幸せにしたが、いつも世界中のどこかで脱線や衝突などの大惨事を引き起こしている。すべては人間のすることだ。欠陥があって当然じゃないか?
「俺はあの剥離を叩き落とす。それでいいだろう?」
親父だってそれで満足してくれるさ。
「それはお父さんに対する侮辱よ」
「どういうことだ?」
「あなたのお父さんは立派に仕事を果たしたわ。あのトンネルは造られてから四十年近く経つけど、危険な亀裂なんて一つも見つからない。手抜き工事は一切ないわ」
「じゃあ、俺が見つけた亀裂は……」
「ここは新幹線のトンネルよ。一九七四に開通した……」
山陽新幹線だ。反射的に阪神大震災の折に崩壊した高架橋の姿が脳裏を過った。施工時における橋脚の接合不良が原因だった。山陽新幹線の建設は工期の短縮に加えて、労働者の不足が深刻化する中で進められた。あらゆる箇所に地雷のごとく施工不良が埋もれている。架線からボルトが抜け落ちたり、トンネルの天井からコンクリート塊が落下するのどの「想定外」とされる事故は、そのうち日常化した現象となるかもしれない。
だが……。彼は周囲の闇に問い質した。
なぜ自分はここにいる?
自分は北海道の片田舎のトンネルにいたはずなのに、少女はここが山陽新幹線のトンネルだという。ふと気付けば、トラックやその上に組み上げられた足場までなくなっている。
「さあ、こうして線路に耳を当ててみて」
少女は耳をレールに押し当てると、彼にも同じことをするよう促した。
彼は言われるままにレールに耳を押し当てた。すると微かに接近する列車の響きを聞き取ることができた。
「もし天井からコンクリート塊が落下したら、どんな惨事になると思う? 相手は二七〇キロで突っ走る超特急よ。脱線したら死傷者なしにはすまないわ」
「そんなバカな。ここは北海道のローカル線だ」
少女の碧眼に酷薄な微笑が宿った。まるで氷雪を想わせる冷たい色だ。
「思い出して。あなたの奥さんと子供は山陽新幹線に乗って博多の実家へ帰るはず」
「そうだ、俺は仕事が忙しくて一緒に帰省できないが……」
まてよ、山陽新幹線だって? まさか、俺の家族が乗っている?
そう思った瞬間、天井からコンクリートの小片がパラパラと崩れ落ちた。
「このトンネルは間もなく崩れ落ちる。構造が脆いから新幹線の猛スピードの振動に耐えられない。新幹線の運行システムは確かに優秀だけど、すぐに崩落する欠陥コンクリートのトンネルや、すぐ陥没する盛り土のレールでは事故は未然に防ぐことはできない。しょせんは人のすること。技術屋がシステム化された未来を悲観したら、新しい発明などできはしない。新幹線が四十年近く守り通した安全神話も、そんな人が生み出した砂上の楼閣なのよ」
闇の彼方に光が見えた。トンネルやレールを軋ませる轟音が聞こえてくる。
「さあ、自分の眼で確かめるのよ。鉄道史上最大の惨事を。そして奥さんや子供の死ぬところを」
「止めろ! あの列車を止めるんだ!」
その絶叫がトンネルの内壁を撃ち砕いた。天井から数個のコンクリート塊が落下した。
(了)
彼は杜撰なトンネル工事の話を聞いた。先に流し込んだコンクリートが割れているにも拘わらず生コンを足したのだ。これではコンクリート内部に空洞が生じてしまう。
「発注官庁の担当者の多くが一流大学の土木工学科の卒業生なのに。彼らは大学で何を学んだの? 必要なのは技術屋でしょ? 事務屋が必要なら他の学課から採ればいいのよ」
彼は杜撰な生コンの強度試験の話を聞いた。試験体の強度が基準を大幅に下回ったため、工事担当者が慌てて発注官庁に報告したところ、帰ってきた指示は建造物の改築ではなく、検査データの改竄だった。
「以前はこんなことなかったはずよ。官庁は厳格な管理の下で民間に施工を請け負わせていた。書類審査だけの施工は見掛け倒しの安価な建造物を増やすだけ。あなたのお父さんは建設省の優れた技官だった。公共事業の悲惨な現状を知ったらなんて思うかしら?」
背筋に驚愕が走った。なぜ親父のことを知っている?
「わたしには見える。この地上のあらゆる場所が……。あなたが点検していたトンネル、あれもお父さんが施工したものよ」
知らなかった。父親が施工したトンネルを息子が点検するなんて。こういうのを機縁というのだろうか?
「お父さんの残した偉大な遺産を、その眼でしっかりと確認するといいわ」
大袈裟な物言いだな。恒久的な価値を認められた文化遺産じゃあるまいし。
「たかがローカル線のトンネルがじゃないか。新関門のような海底トンネルなら先端技術も必要だろうがね。こんなトンネルは誰でも施工できるんだよ」
「四十年経っても安全性を保障できるトンネルが今いくつあって? あなたのお父さんはそういう仕事を残したのよ」
「それは嘘だ。さっき危険な剥離を確認した。親父がいくら入念に施工してもコンクリートの劣化を防ぐことは不可能だ」
科学の進歩は多くの失われた人命の上に成り立っている。鉄道という大量輸送の手段は大勢の人たちを幸せにしたが、いつも世界中のどこかで脱線や衝突などの大惨事を引き起こしている。すべては人間のすることだ。欠陥があって当然じゃないか?
「俺はあの剥離を叩き落とす。それでいいだろう?」
親父だってそれで満足してくれるさ。
「それはお父さんに対する侮辱よ」
「どういうことだ?」
「あなたのお父さんは立派に仕事を果たしたわ。あのトンネルは造られてから四十年近く経つけど、危険な亀裂なんて一つも見つからない。手抜き工事は一切ないわ」
「じゃあ、俺が見つけた亀裂は……」
「ここは新幹線のトンネルよ。一九七四に開通した……」
山陽新幹線だ。反射的に阪神大震災の折に崩壊した高架橋の姿が脳裏を過った。施工時における橋脚の接合不良が原因だった。山陽新幹線の建設は工期の短縮に加えて、労働者の不足が深刻化する中で進められた。あらゆる箇所に地雷のごとく施工不良が埋もれている。架線からボルトが抜け落ちたり、トンネルの天井からコンクリート塊が落下するのどの「想定外」とされる事故は、そのうち日常化した現象となるかもしれない。
だが……。彼は周囲の闇に問い質した。
なぜ自分はここにいる?
自分は北海道の片田舎のトンネルにいたはずなのに、少女はここが山陽新幹線のトンネルだという。ふと気付けば、トラックやその上に組み上げられた足場までなくなっている。
「さあ、こうして線路に耳を当ててみて」
少女は耳をレールに押し当てると、彼にも同じことをするよう促した。
彼は言われるままにレールに耳を押し当てた。すると微かに接近する列車の響きを聞き取ることができた。
「もし天井からコンクリート塊が落下したら、どんな惨事になると思う? 相手は二七〇キロで突っ走る超特急よ。脱線したら死傷者なしにはすまないわ」
「そんなバカな。ここは北海道のローカル線だ」
少女の碧眼に酷薄な微笑が宿った。まるで氷雪を想わせる冷たい色だ。
「思い出して。あなたの奥さんと子供は山陽新幹線に乗って博多の実家へ帰るはず」
「そうだ、俺は仕事が忙しくて一緒に帰省できないが……」
まてよ、山陽新幹線だって? まさか、俺の家族が乗っている?
そう思った瞬間、天井からコンクリートの小片がパラパラと崩れ落ちた。
「このトンネルは間もなく崩れ落ちる。構造が脆いから新幹線の猛スピードの振動に耐えられない。新幹線の運行システムは確かに優秀だけど、すぐに崩落する欠陥コンクリートのトンネルや、すぐ陥没する盛り土のレールでは事故は未然に防ぐことはできない。しょせんは人のすること。技術屋がシステム化された未来を悲観したら、新しい発明などできはしない。新幹線が四十年近く守り通した安全神話も、そんな人が生み出した砂上の楼閣なのよ」
闇の彼方に光が見えた。トンネルやレールを軋ませる轟音が聞こえてくる。
「さあ、自分の眼で確かめるのよ。鉄道史上最大の惨事を。そして奥さんや子供の死ぬところを」
「止めろ! あの列車を止めるんだ!」
その絶叫がトンネルの内壁を撃ち砕いた。天井から数個のコンクリート塊が落下した。
(了)
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