2 / 3
Ⅱ
しおりを挟む
「君は誰だ?」
こりゃ三途の川まで一直線か……。夢なら早く覚めてくれ。
「安心して。あなたはまだ死んではいないのだから……」
心を見透かされた? 彼は戸惑いを隠せないまま問い返した。
「どうしてこんな場所にいる? ここは関係者以外立ち入り禁止だぞ」
少女はトンネルの天井の一角を指さした。するとそこにスポットライトのような光が射した。彼が故意に見逃そうとした、あのコンクリートの亀裂がくっきりと浮かび上がった。
「あの亀裂が気になって……。かなり広範囲に広がっているわ。もし崩落したら大惨事に繋がるかも」
亀裂は縦二・五メートル、横三メートルくらいか。もしコンクリート劣化の主要因である中性化現象やアルカリ骨材反応だとしたら、浸食はどの程度進んでいるのか。
「深さは四五センチよ。重量にして約二トンといったところかしら」
彼は苦笑を隠せなかった。
「君は凄いな。目視検査だけで、そこまで見抜けるなんて」
どんな熟練作業員でも亀裂の深さまで見抜くことは不可能だ。少女はいい加減なことを言っているのだ。
少女がクスリと笑った。
「わたしの言葉が信じられないのなら打音検査をしてみるといいわ。本当か嘘かすぐにわかるから」
もし少女の言うことが事実なら、巨大なコンクリート塊がするはずだ。彼は手にした検査データに目を落とした。確かに以前から亀裂は確認されている。だが亀裂の大きさに変化はなく、崩落の心配はないものと記入されていた。
「検査の必要はないな。あれは以前の検査で調べたから……」
「コンクリートは劣化するものよ。半永久的なものではないわ」
「なんだってそうだろ? 形あるものは必ず壊れる」
「でも高度経済成長期以後に造られたコンクリート構造物は物理的耐用年数、いえ、経済的耐用年数すらも満たしてはいない」
物理的耐用年数とは構造物の性能低下による寿命のことであり、経済的耐用年数とは構造物の減価償却の寿命のことだ。彼も現場に携わる者として、少女の言うことは熟知していた。ただ見て見ぬ振りをしているだけだ。
「このトンネルはそれ以前の古いものだ。造りはしっかりしているよ」
少女は不意に笑い出した。その悲鳴にも似た甲高い音がトンネル内に不気味に木霊した。
「皮肉なものね。古い方が安全だなんて……。骨材に塩化物イオンを多量に含んだ海砂を使用したり、コンクリートの流動性を高めるために多量の水を加えたり。これが高度経済成長によって産み落とされたコンクリート構造物の実態よ。繁栄の陰で人々が失ったものを具象化しているとは思わない?」
思わず頷いてしまった。無力な自分に愛想が尽きたとでもいうように……。
「仕方ないよ。国内で良質の骨材を入手するのは難しいし、じゃぶコンの方がポンプ圧送や型枠に流し込むとき扱いやすい」
「そのために鉄骨は腐食してコンクリートは脆くなる。多くの人命が危険に晒されるけど、もし事故が起こったら、誰が責任を取るのかしら?」
巨大事業の運営に死傷者は付きものだ。だが責任など誰にも取れないのだ。だから責任の所在は体よく分散されている。もし引責辞職する者が一人いたら、陰で何人の者が胸を撫で下ろすことか……。
「人間のやることに100パーセント安全ということはない。でも100パーセントに近づける努力はしているつもりだ」
誰かが同じことを言っていた。そうだ、これは死んだ親父の言葉だ。
家の近くで橋脚工事があった。電柱の陰から覗くと鋭い眼差しで工事を監督す親父の姿が目に映った。
「だめだ、だめだ! それじゃスランプが大きいじゃないか!」
そう言って親父は作業員を叱咤した。仕事には一切手抜きを許さなかった。他人の監督した仕事ですら疑問があれば口を挟んだ。完成したての橋脚を削って鉄筋を配置を自分の眼で確かめたという。工期が遅れて陰で泣いた業者も少なからずいたはずだ。これは親父の同僚から聞いた話だ。コンクリートの神様は家庭では寡黙な男だった。だから一言一言が脳裏に焼き付いているのだろう。幼い頃の心象風景は時々夢に現れて、仕事に励む息子を叱咤する。
「手を抜くな。いい仕事をしろよ」
二十代の頃はひと月に一回は見ていたように思う。それが結婚して仕事が忙しくなるに連れて、徐々に減っていったのだ。もう見なくなって久しくなる。最後に見たのは確か三年前か、それとも四年前か……。
自分も息子に誇れる仕事がしたい。息子は小学四年生だ。血は争えないというべきか、建築に興味を持っている。学校の作文には世界一高いビルを建てると書いていた。その夢を摘み取ってはならない。
「ならばあなたはあの亀裂を叩くべきよ」
あれは叩き落とすべき剥離なのだ。だが彼は逡巡した。
少女の言うことは事実だ。最近になってトンネル内の崩落事故が相次いだ。鉄道屋のトンネルは丈夫だという思い込みは脆くも崩れ去った。専門家の間からも「列車を運休してでも緊急総点検すべきだ」という声が上がっている。だが鉄道会社の経営陣は「運休して総点検を早めるプラス面と、多くの利用客に迷惑にかけるマイナス面を比べれば、マイナスの方が大きいと判断せざるを得ない」と安全より利潤を優先させた。「より安全に」より「より速く、より安く」なのだ。そして自分は鉄道会社の従業員なのだ。
「できない、できないんだ」
あの亀裂を叩くことは会社の方針に反することなのだ。リストラで会社を去った同僚の顔が思い浮ぶ。家族を守るためには会社に忠実であらねばならない。だが……、仕事の手を抜くことが会社のためになるなんて。会社の利益と社会の利益は必ずしも一致しないのだ。
こりゃ三途の川まで一直線か……。夢なら早く覚めてくれ。
「安心して。あなたはまだ死んではいないのだから……」
心を見透かされた? 彼は戸惑いを隠せないまま問い返した。
「どうしてこんな場所にいる? ここは関係者以外立ち入り禁止だぞ」
少女はトンネルの天井の一角を指さした。するとそこにスポットライトのような光が射した。彼が故意に見逃そうとした、あのコンクリートの亀裂がくっきりと浮かび上がった。
「あの亀裂が気になって……。かなり広範囲に広がっているわ。もし崩落したら大惨事に繋がるかも」
亀裂は縦二・五メートル、横三メートルくらいか。もしコンクリート劣化の主要因である中性化現象やアルカリ骨材反応だとしたら、浸食はどの程度進んでいるのか。
「深さは四五センチよ。重量にして約二トンといったところかしら」
彼は苦笑を隠せなかった。
「君は凄いな。目視検査だけで、そこまで見抜けるなんて」
どんな熟練作業員でも亀裂の深さまで見抜くことは不可能だ。少女はいい加減なことを言っているのだ。
少女がクスリと笑った。
「わたしの言葉が信じられないのなら打音検査をしてみるといいわ。本当か嘘かすぐにわかるから」
もし少女の言うことが事実なら、巨大なコンクリート塊がするはずだ。彼は手にした検査データに目を落とした。確かに以前から亀裂は確認されている。だが亀裂の大きさに変化はなく、崩落の心配はないものと記入されていた。
「検査の必要はないな。あれは以前の検査で調べたから……」
「コンクリートは劣化するものよ。半永久的なものではないわ」
「なんだってそうだろ? 形あるものは必ず壊れる」
「でも高度経済成長期以後に造られたコンクリート構造物は物理的耐用年数、いえ、経済的耐用年数すらも満たしてはいない」
物理的耐用年数とは構造物の性能低下による寿命のことであり、経済的耐用年数とは構造物の減価償却の寿命のことだ。彼も現場に携わる者として、少女の言うことは熟知していた。ただ見て見ぬ振りをしているだけだ。
「このトンネルはそれ以前の古いものだ。造りはしっかりしているよ」
少女は不意に笑い出した。その悲鳴にも似た甲高い音がトンネル内に不気味に木霊した。
「皮肉なものね。古い方が安全だなんて……。骨材に塩化物イオンを多量に含んだ海砂を使用したり、コンクリートの流動性を高めるために多量の水を加えたり。これが高度経済成長によって産み落とされたコンクリート構造物の実態よ。繁栄の陰で人々が失ったものを具象化しているとは思わない?」
思わず頷いてしまった。無力な自分に愛想が尽きたとでもいうように……。
「仕方ないよ。国内で良質の骨材を入手するのは難しいし、じゃぶコンの方がポンプ圧送や型枠に流し込むとき扱いやすい」
「そのために鉄骨は腐食してコンクリートは脆くなる。多くの人命が危険に晒されるけど、もし事故が起こったら、誰が責任を取るのかしら?」
巨大事業の運営に死傷者は付きものだ。だが責任など誰にも取れないのだ。だから責任の所在は体よく分散されている。もし引責辞職する者が一人いたら、陰で何人の者が胸を撫で下ろすことか……。
「人間のやることに100パーセント安全ということはない。でも100パーセントに近づける努力はしているつもりだ」
誰かが同じことを言っていた。そうだ、これは死んだ親父の言葉だ。
家の近くで橋脚工事があった。電柱の陰から覗くと鋭い眼差しで工事を監督す親父の姿が目に映った。
「だめだ、だめだ! それじゃスランプが大きいじゃないか!」
そう言って親父は作業員を叱咤した。仕事には一切手抜きを許さなかった。他人の監督した仕事ですら疑問があれば口を挟んだ。完成したての橋脚を削って鉄筋を配置を自分の眼で確かめたという。工期が遅れて陰で泣いた業者も少なからずいたはずだ。これは親父の同僚から聞いた話だ。コンクリートの神様は家庭では寡黙な男だった。だから一言一言が脳裏に焼き付いているのだろう。幼い頃の心象風景は時々夢に現れて、仕事に励む息子を叱咤する。
「手を抜くな。いい仕事をしろよ」
二十代の頃はひと月に一回は見ていたように思う。それが結婚して仕事が忙しくなるに連れて、徐々に減っていったのだ。もう見なくなって久しくなる。最後に見たのは確か三年前か、それとも四年前か……。
自分も息子に誇れる仕事がしたい。息子は小学四年生だ。血は争えないというべきか、建築に興味を持っている。学校の作文には世界一高いビルを建てると書いていた。その夢を摘み取ってはならない。
「ならばあなたはあの亀裂を叩くべきよ」
あれは叩き落とすべき剥離なのだ。だが彼は逡巡した。
少女の言うことは事実だ。最近になってトンネル内の崩落事故が相次いだ。鉄道屋のトンネルは丈夫だという思い込みは脆くも崩れ去った。専門家の間からも「列車を運休してでも緊急総点検すべきだ」という声が上がっている。だが鉄道会社の経営陣は「運休して総点検を早めるプラス面と、多くの利用客に迷惑にかけるマイナス面を比べれば、マイナスの方が大きいと判断せざるを得ない」と安全より利潤を優先させた。「より安全に」より「より速く、より安く」なのだ。そして自分は鉄道会社の従業員なのだ。
「できない、できないんだ」
あの亀裂を叩くことは会社の方針に反することなのだ。リストラで会社を去った同僚の顔が思い浮ぶ。家族を守るためには会社に忠実であらねばならない。だが……、仕事の手を抜くことが会社のためになるなんて。会社の利益と社会の利益は必ずしも一致しないのだ。
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
黎明
風まかせ三十郎
現代文学
暮れなずむ街に彼女は舞い降りた。滅びゆく街の片隅で、彼女は死にゆく野良猫を拾い上げた。一人と一匹が高架橋から眺める風景。狂騒と諧謔と破滅と逆説とが泡沫のごとく浮かび上がり、やがては忍び寄る夕闇の中へ飲み込まれてゆく。暗黒天女、それは死の御使い。あるいは未来への希望。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
眠れない夜の雲をくぐって
ほしのことば
恋愛
♡完結まで毎日投稿♡
女子高生のアカネと29歳社会人のウミは、とある喫茶店のバイトと常連客。
一目惚れをしてウミに思いを寄せるアカネはある日、ウミと高校生活を共にするという不思議な夢をみる。
最初はただの幸せな夢だと思っていたアカネだが、段々とそれが現実とリンクしているのではないだろうかと疑うようになる。
アカネが高校を卒業するタイミングで2人は、やっと夢で繋がっていたことを確かめ合う。夢で繋がっていた時間は、現実では初めて話す2人の距離をすぐに縮めてくれた。
現実で繋がってから2人が紡いで行く時間と思い。お互いの幸せを願い合う2人が選ぶ、切ない『ハッピーエンド』とは。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる