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Ⅰ
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闇の中でコンクリートを叩く音がする。二度、三度。鋭角的な澄んだ音だ。
「よーし、ここは大丈夫だ」
J〇北海道の施設部工事課に所属する佐藤明(仮名 35)はトンネルの天井に「R×年十二月二十七日ウキ〇・一×〇・六C」とチョークで書き込みを入れた。ウキとはコンクリートの剥離状態を示し、Cとは軽微な変状を示す。二年に一度実施される全般検査では見落とされていた箇所だ。
彼はトラックの上に組まれた足場に乗ったまま、トンネル内部の目視検査を続けてゆく。危険と判断される個所を見つけると打音検査を実施する。手にした長柄のハンマーでコンクリートを叩いて音の響き具合を確認するのだ。コンクリートが「剥離」や「浮きの」の状態にあると濁った鈍い音がする。とは言っても正常と異常の差などごく僅かだ。聞き分けるには熟練作業員の耳が必要だ。彼はこの仕事に携わって十余年になるが、未だに退職した先輩たちの技量に達したとは考えていなかった。例えば新大阪ー博多間の場合、トンネル内壁の表面積は計五六〇万平方メートル。東京ドーム一二〇個分の面積歩いて数ミリの亀裂を見つけ出す作業だ。長年培った勘と経験だけが頼りの専門職といっていい。だが技術を受け渡す側はリストラで職を追われ、技術を受け継ぐ側の技量低下を憂慮する声だけが残った。ハイテク化された車両や運行システムに比べ、点検法は五十年以上前から変わっていない。コンクリートはメンテナンスフリーと考えられていたからだ。確かにマニュアル通り造られたコンクリート構造物は耐久性に優れている。JR内房線の山生橋梁やJR只見線の大谷川橋梁など戦前に造られたにもかかわらず、未だに無傷で使用に耐えうる状態を保っている。概ね一九六〇年代以前に造られてコンクリート構造物は健全な材料を用いて入念に施工されている。だがそれ以降に造られたコンクリート構造物はセメント水増しや鉄筋の接合不良により、物理的耐用年数に達する前に大掛かりなメンテナンスを必要とするようになった。手抜き工事や突貫工事のツケが今に回ってきたというわけだ。だがこの現象を単なる偶然と考える者も少なくない。
「半永久的に供用できる頑丈なコンクリート構造物を造ろうなんて考えるのは馬鹿げたことだ。機能的耐用年数に達したら、簡単に壊れるような構造物を造るべきだ」
こんな声が業者や学者の間にあることも事実だ。規制緩和は安価に施工しようとする業者にとって追い風となる。莫大な利潤は社会の安全を犠牲にして生み出される。
彼はふと建設省の技官だった父親のことを思い出した。同僚からコンクリートの神様と尊敬されていた。コンクリートのスランプ(柔らかさ)を測定器に頼らずとも目視で判断できた。まだ公官庁の出先機関の監督員と請負者が総出でコンクリートの打ち込み作業に立ち会っていた頃の話だ。今では少人数の作業員にのみ、この重要な作業が任されている。彼らにとって最優先事項は作業が滞りなく進むことであり、コンクリートの品質についてはまったくの無関心といっていい。
まあ、他人のことは言えないが……。
彼は肩を窄めて周囲を見渡した。ヘルメットに付いたランプの光がトンネル内を浮き彫りにする。天井の一部に放射状の亀裂が生じていた。一見して打音検査の必要と思われる個所だ。目視検査ではA(構造物の機能にかかわる変状または欠陥で、運転保安や旅客などの安全並びに正常運転の確保を脅かし、またはその恐れのあるもの)。だが残された時間は少なかった。
「おーい、あと一時間だ。早くしろ」
現場監督の声がトンネル内に木霊した。保守点検は夜中の六時間以内に終わらせなければならない。だが作業はまだ行程の半分も終えていない。点検すべき箇所が余りにも多すぎるのだ。
「今夜中にこのトンネルの点検作業を終えるんだ。みんな、急いでくれ」
現場監督が作業を急がす。効率こそが利潤を生み出す最重要項目なのだ。
まあ、いいか……。
亀裂が生じているだけで、剥離や浮きは確認だきなかった。直感が危険度Aと囁いたものの、マニュアルに従えば打音検査の必要性は認められない箇所だ。
「異常なし」
彼が現場監督にそう報告した瞬間、トンネル内を照らし出す照明すべてが闇に吞まれた。ヘッドランプも作業用のライトも一瞬にして消え去った。同僚の騒ぐ声すら聞こえない。ひんやりとした空気の対流だけが感じられる。彼は何が起こったのかもわからずに、闇の中に立ち尽くした。
「……おい」
闇の中に向かって囁きかけてみる。数秒が経過しても何の反応もない。まるで自分一人だけがトンネル内に取り残されてしまったかのようだ。
「おい」
闇は人を極度に憶病にする。周囲にいた同僚が一瞬にして消えてしまうなどありえない。これは夢だ。足場から転落して気でも失ったに違いない。彼は心に浮かんだ妄想を必死に押さえ付けた。
「なにを慌てているの?」
不意に傍らで声がした。少女だ。薄いシルクのような服を身にまとい、足場に腰かけている。
見てはならないものを見た。脳裏に臨死体験という言葉が明滅した。もし少女が天使だとしたら自分は死んだことになる。彼は目を覚まそうと何度も頭を振ったり目を擦ったりした。だが目の前の幻影は一向に消え去ろうとはしなかった。
「よーし、ここは大丈夫だ」
J〇北海道の施設部工事課に所属する佐藤明(仮名 35)はトンネルの天井に「R×年十二月二十七日ウキ〇・一×〇・六C」とチョークで書き込みを入れた。ウキとはコンクリートの剥離状態を示し、Cとは軽微な変状を示す。二年に一度実施される全般検査では見落とされていた箇所だ。
彼はトラックの上に組まれた足場に乗ったまま、トンネル内部の目視検査を続けてゆく。危険と判断される個所を見つけると打音検査を実施する。手にした長柄のハンマーでコンクリートを叩いて音の響き具合を確認するのだ。コンクリートが「剥離」や「浮きの」の状態にあると濁った鈍い音がする。とは言っても正常と異常の差などごく僅かだ。聞き分けるには熟練作業員の耳が必要だ。彼はこの仕事に携わって十余年になるが、未だに退職した先輩たちの技量に達したとは考えていなかった。例えば新大阪ー博多間の場合、トンネル内壁の表面積は計五六〇万平方メートル。東京ドーム一二〇個分の面積歩いて数ミリの亀裂を見つけ出す作業だ。長年培った勘と経験だけが頼りの専門職といっていい。だが技術を受け渡す側はリストラで職を追われ、技術を受け継ぐ側の技量低下を憂慮する声だけが残った。ハイテク化された車両や運行システムに比べ、点検法は五十年以上前から変わっていない。コンクリートはメンテナンスフリーと考えられていたからだ。確かにマニュアル通り造られたコンクリート構造物は耐久性に優れている。JR内房線の山生橋梁やJR只見線の大谷川橋梁など戦前に造られたにもかかわらず、未だに無傷で使用に耐えうる状態を保っている。概ね一九六〇年代以前に造られてコンクリート構造物は健全な材料を用いて入念に施工されている。だがそれ以降に造られたコンクリート構造物はセメント水増しや鉄筋の接合不良により、物理的耐用年数に達する前に大掛かりなメンテナンスを必要とするようになった。手抜き工事や突貫工事のツケが今に回ってきたというわけだ。だがこの現象を単なる偶然と考える者も少なくない。
「半永久的に供用できる頑丈なコンクリート構造物を造ろうなんて考えるのは馬鹿げたことだ。機能的耐用年数に達したら、簡単に壊れるような構造物を造るべきだ」
こんな声が業者や学者の間にあることも事実だ。規制緩和は安価に施工しようとする業者にとって追い風となる。莫大な利潤は社会の安全を犠牲にして生み出される。
彼はふと建設省の技官だった父親のことを思い出した。同僚からコンクリートの神様と尊敬されていた。コンクリートのスランプ(柔らかさ)を測定器に頼らずとも目視で判断できた。まだ公官庁の出先機関の監督員と請負者が総出でコンクリートの打ち込み作業に立ち会っていた頃の話だ。今では少人数の作業員にのみ、この重要な作業が任されている。彼らにとって最優先事項は作業が滞りなく進むことであり、コンクリートの品質についてはまったくの無関心といっていい。
まあ、他人のことは言えないが……。
彼は肩を窄めて周囲を見渡した。ヘルメットに付いたランプの光がトンネル内を浮き彫りにする。天井の一部に放射状の亀裂が生じていた。一見して打音検査の必要と思われる個所だ。目視検査ではA(構造物の機能にかかわる変状または欠陥で、運転保安や旅客などの安全並びに正常運転の確保を脅かし、またはその恐れのあるもの)。だが残された時間は少なかった。
「おーい、あと一時間だ。早くしろ」
現場監督の声がトンネル内に木霊した。保守点検は夜中の六時間以内に終わらせなければならない。だが作業はまだ行程の半分も終えていない。点検すべき箇所が余りにも多すぎるのだ。
「今夜中にこのトンネルの点検作業を終えるんだ。みんな、急いでくれ」
現場監督が作業を急がす。効率こそが利潤を生み出す最重要項目なのだ。
まあ、いいか……。
亀裂が生じているだけで、剥離や浮きは確認だきなかった。直感が危険度Aと囁いたものの、マニュアルに従えば打音検査の必要性は認められない箇所だ。
「異常なし」
彼が現場監督にそう報告した瞬間、トンネル内を照らし出す照明すべてが闇に吞まれた。ヘッドランプも作業用のライトも一瞬にして消え去った。同僚の騒ぐ声すら聞こえない。ひんやりとした空気の対流だけが感じられる。彼は何が起こったのかもわからずに、闇の中に立ち尽くした。
「……おい」
闇の中に向かって囁きかけてみる。数秒が経過しても何の反応もない。まるで自分一人だけがトンネル内に取り残されてしまったかのようだ。
「おい」
闇は人を極度に憶病にする。周囲にいた同僚が一瞬にして消えてしまうなどありえない。これは夢だ。足場から転落して気でも失ったに違いない。彼は心に浮かんだ妄想を必死に押さえ付けた。
「なにを慌てているの?」
不意に傍らで声がした。少女だ。薄いシルクのような服を身にまとい、足場に腰かけている。
見てはならないものを見た。脳裏に臨死体験という言葉が明滅した。もし少女が天使だとしたら自分は死んだことになる。彼は目を覚まそうと何度も頭を振ったり目を擦ったりした。だが目の前の幻影は一向に消え去ろうとはしなかった。
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