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第4章 ファレンの花

32話

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 ゴーシェはゆったりとした足取りでベッドに近づく。チョーカーを警戒してか、1メートルほど離れたところで立ち止まった。
 ヴェルは慎重に言葉を選んだ。
「あんた……、自分の主が何してんのか分かってて加担したのか?」
「ええ。もちろん。オメガを抱けばアルファになれると吹き込み続けたのは私ですから」
 ヴェルは思わず「何?」と視線を鋭くした。しかしゴーシェはヴェルに睨まれてもどこ吹く風とばかりに、軽く肩を竦める。
「坊っちゃまもいつのまにかすっかりその気になってしまいましてね。王都で悠々自適に暮らしていればいいものを。カイ殿下への嫉妬と対抗心が抑えきれず、ラジナまで来てしまって……」
「それもあんたがそそのかした?」
 言葉を途切らせると、ゴーシェはわずかに目を瞠る。
「驚きましたなぁ。ヴェル殿は少し利口なようで」
「何でこんな事させたんだよ」
「はて。何で、という理由は特には。ただ、そうですな……昔から坊っちゃまはご両親からずっと不要な子だと言われて育っておりましたから。何か希望のある話をしてさしあげたかったのですよ。これは本当です」
「それが、アルファの真似事か?」
「ええ。カイ殿下の真似など無理でしょう? なのでせめて、殿下のオメガを奪ってしまえば、少しは坊っちゃまも気が晴れるかと。ま、遊び道具を与えるのも執事の役目ということです」
 遊び道具を与える、という言葉に、ヴェルは一つの可能性に思い至った。
「……まさか、オメガ狩りもあんたが仕組んだのか」
 すると、淡々と喋っていたゴーシェの目が三日月のように細められた。
 形だけの笑顔を浮かべたままゴーシェは口を開く。
「当然、私一人の力ではありませんよ。王都では第一王子一派の方々と親しくさせていただいておりしたから、色々と手回しをいただきまして」
 カイを疎む王都の貴族一派。そことユジムは手を組んだということか。
 貴族一派はカイの名誉を貶めるため。
 そしてユジムは、「カイのオメガ」を自分のものにするため。
 ヴェルは苛立たしげに吐き捨てた。
「よってたかってカイへの嫌がらせか。オメガ狩りもてっきりダオンってやつが指示したのかと思ったけど」
「奴はただの傀儡かいらいですよ。偽の命令書を王都から奴に届けただけ。面白いくらい思い通りに動いてくれましたね。……唯一予想外だったのは、カイ殿下がオメガを手籠にしなかったことですかな」
 ゴーシェはヴェルのチョーカーを苦々しげに見下ろした。
「てっきりカイ殿下は早々にあなたをつがいにすると思っておりました。あの時、ちょうどヴェル殿はヒートでしたよね?」
「そんな所まで調べてたのか……。気持ち悪いな」
 ゴーシェは小さく嘆息した。
「カイ殿下のオメガを奪って自分のものにすれば、坊っちゃまの気分も少しは晴れたことでしょうに。……よほどその抑制具の性能が良かったのか。はたまたカイ殿下の性欲に何らかの障害があったのか」
「は? 堅物なだけだろ。あいつの性格を見誤ったな」
 ざまあみろ、とばかりに鼻で笑ってやれば、ゴーシェはふふ、と笑みを漏らした。
「まったく、カイ殿下もだが、あなたもなかなか腹立たしい方ですな」
 そしてゴーシェは、ベルトに差していた刃渡りの長いナイフをおもむろに抜いた。
「さて。ヴェル殿には色々知られてしまいましたから。ここで死んでいただきましょう」
 ランプに反射するナイフの光に、ヴェルは息を呑む。
 ゴーシェの目は全く揺らいでおらず、ここで人一人を殺す事など造作もないのだろう。
 一歩、ゴーシェはベッドへ近付く。
 片手は枷が嵌められて動かせず、チョーカーの二発目を使える魔力もない。
「待て。俺を殺したとして、リウはどうなる? ちゃんと解放されるんだろうな?」
「おや。こんな状況でも他人の心配ですか」
 ベッドに近付いたゴーシェは、用心深くナイフをヴェルへ向けながら、片手だけでユジムの襟首を掴む。
「ああ、坊っちゃま……おいたわしい……。すぐに手当をいたしますのでお待ちくださいね……」
 完全に意識を失っていることを確認し、ゆっくりとベッドから引きずり下ろした。
「ヴェル殿大丈夫ですよ。すぐにリウ殿も後を追わせてさしあげますから」
「……っ、部外者の俺はともかく、リウは王子殿下の正式な付き人だ。行方不明にでもなったらお前たちも疑われるぞ」
「疑われたとて、証拠は出ませんよ。あなた方の遺体も、このナイフも、すぐに消しますから。大丈夫、慣れております」
 そう言って、ゴーシェはナイフの柄をを手の中でくるりと回して逆手さかてに持つ。
「ヴェル殿。あなたも苦しまずに一息で殺してさしあげますよ」
 慣れている、というのは冗談ではなさそうだ。せめてリウだけでも助けたかったが、万事休すか、とヴェルは唇を噛んだ。

 その時突然、扉がドガァンッという破裂音と共に勢いよく蹴破られた。
 石造りの部屋に扉の木片が舞い上がったかと思うや否や、俊敏な肉食獣のような速さで一つの影が室内に踏み込んできた。
 ゴーシェは振り向きざまに袖口に隠していた小型ナイフを投擲とうてきするが、それが届くより速く、影がゴーシェの腕を取ろうとする。
 しかしゴーシェは身体を捻り、素早くナイフで相手の頸動脈を狙って切り付ける。
 間一髪、反射神経だけで上体を逸らしたため、頬が一筋、鋭利な刃に裂かれた。ランプに照らされたその横顔は間違いなくーー
「カイ!?」
 ヴェルに名を呼ばれ「無事か」と短く問いながら、カイは油断なくゴーシェをめ付ける。
 その腰には何もげておらず、ヴェルはぎょっとして叫ぶ。
「いや、何で丸腰!?」
「慌てていた」
「慌てすぎだろ!」

 ゴーシェはユジムとヴェルを背にしたまま、にたりと口の端を持ち上げて笑った。
「これはこれは、カイ王子殿下。よくここがお分かりになりましたね」
「部下が優秀なのでな」
「ははあ。模範解答ですな。坊っちゃまの意識がない状態でようございました。また嫉妬で狂ってしまわれるところでした」
 カイは眉根を寄せた。
「嫉妬? ユジムとの面識はなかったはずだが?」
「面識はなくとも、あなた様の影響力は凄まじいのですよ。……坊っちゃまは、ご両親にゴミだ、クズだ、と罵られる時、必ずあなたの名前を引き合いに出されておりましたからな」
 顔を顰めたカイに構わず、ゴーシェは懐かしむように言う。
「この老いぼれにできることと言えば、遊び道具を用意して、少しでも傷付いた心をお慰めするくらいでしてなぁ」
 しかし、とゴーシェは顔を曇らせた。
「それもここまでですか。どうです? 殿下。我々を見逃しませぬか?」
「……その口ぶりだと、ヴェル以外にも被害者がいたように聞こえるが」
「ははは。ご想像にお任せしましょう」
 カイはゴーシェから視線を外さないまま、ゆっくりと重心を落とした。
「お前たちのしたことは犯罪として裁かれるべきだな」
 しかしゴーシェは余裕のある笑みを浮かべる。
「さて……、そろそろ効いてくる頃合いでしょうか」
「何? ……ッ!?」
 と、カイの身体が突然ぐらりと揺れた。ゴーシェは意外そうな顔で手元のナイフを眺める。
「普通ならば昏倒こんとうしてもおかしくない毒のはずですが。殿下の丈夫さは規格外ですなぁ……」
 毒、という言葉に、ヴェルの背にひやりとしたものが伝う。カイの頬につけられた傷は浅いが、それでも身体から力を奪うには充分なのだろう。
 カイはぐらつきそうな脚に懸命に力を込めようとするが、すぐに片膝を床につける。
「カイ!」
 ヴェルが名を叫ぶも、ゴーシェはゆっくりとナイフを振り上げていく。
 なんとかしなければ、とヴェルは必死に視線を巡らせた。と、ベッドの端に手枷の鍵があるのを見つけた。先ほどユジムが引きずられた時に落ちたのだろう。
 ヴェルはあらんかぎりの力で手を伸ばし、指先で鍵を引き寄せた。
 手枷の鍵穴に差し、ガチャンと錠を開くと、その音に気付いたのか、ゴーシェが振り向いた。
 ゴーシェがこちらに向かってナイフを振るより前に、ヴェルは自由になった両手で、ユジムの身体を引き上げ、咄嗟に盾にする。
「なっ……!」
 途端にゴーシェの刃がわかりやすく鈍り、ピタリと動きが止まった。
 その隙を見逃さず、カイは毒で痺れる身体に力をこめて足を踏み出し、ゴーシェの腕を背後から思いきり捻りあげる。
 ゴーシェは「うぐっ」と呻くが、ナイフを離そうとはしない。カイはゴーシェの腕を捻ったまま、苦々しく言った。
「すまんが、折らせてもらうぞ」
 言い終えるなり、カイは慣れた作業のように、力を込めた。鈍い音がして、ゴーシェの顔が一瞬しかめられ、額に脂汗が滲んだ。
 ガラン、と高い音と共にナイフが石の床に落ちる。
 カイは、もう片方の肩も素早く外した。ゴーシェの腕が重力に従ってぶらん、と腕が垂れ下がる。それでもなお、カイを蹴り上げようとしたゴーシェの襟首を掴み、カイは重い拳をみぞおちに叩き込んだ。
「がふっ……!」
 たまらずゴーシェは床に両膝をついた。
「ッ、は、はは……。私はただ、坊っちゃまをお慰めしたかっただけなのですがねぇ……」
 ぽつりと言い、項垂れると、そのままゴーシェは気を失った。

 しかしカイの気力もそこまでだったらしい。毒の回った身体からがくりと力が抜け、床に倒れ込む。
 ヴェルはユジムを放ってカイへ駆け寄った。
「おい! しっかりしろ!」
「……っ、ノアとはぐれたのはまずかったな」
「ノア!? ノアもここに来てるのか?」
「来る前にはぐれた……」
「だから慌てすぎだろ……! 何で単身で敵に突っ込むんだよ!」
 カイの目がだんだんと焦点を合わせなくなっていく。今動かすのはまずい。毒が余計回るだろう。
「……お前、に、……」
「俺?」
「何かあったら、と……思うと、……」
 その言葉に、一瞬ヴェルは言葉を失う。
 カイにそんな風に思って貰えるような人間ではない。そんな資格などない。
 自分は、少しでもカイと過ごせる時間を増やそうと、嘘をついた姑息な奴なのだ。
 
(それだって、もし早くに打ち明けていれば、俺は館から追放されて、あんたがこんな目に遭うことも……)

 狼狽うろたえ、顔を青ざめさせるヴェルに、カイは浅い息を繰り返しながら僅かに笑いかけた。
「ここで死ぬかもしれんから、最後に言っておく……、っ、俺のせいで、お前を巻き込んで悪かった……」
「なっ……! ち、違っ……!」
 むしろ自分のせいなのだ、とヴェルが言い掛けるが、カイが先に続ける。
「こんな事を言われても迷惑とは思うが……、ヴェル。どうやら俺はお前のことが好きだったらしい」
 不意打ちのような言葉に、ヴェルの口から「は?」と、空気が抜けるような声が零れ落ちた。
「い、いやいや、……待て。あんたが? 俺を?」
 信じられない、と目を見開くヴェルの頬に、カイは震える手をそっと添えた。
「死ぬ間際になって……、こんなにも惜しくなるとはな……、っ、愚かなことだ」
 カイの瞳に嘘はない。ただ、愛しいものを真っ直ぐ見つめるような、穏やかな目だった。その瞳に縫い留められるようにヴェルは視線を外すことができない。
 自分も同じ気持ちだと、伝えて良いのだろうか。目の前の男は、自分のせいで——
 だが、今ここで正体を明かしてしまったら、彼は絶望の中で死んでいくのだ。であれば、最期まで嘘をつきとおすことが、今の自分にできる最大限の責任の取り方だろう。
 ヴェルは軽く目を細め、ゆるくかぶりを振った。そして、頬に充てられた手の上から、その厚い掌をそっと握る。
「俺も、あんたが好きだった。ずっと……、あんたと話してると安心するし、あんたからはいつも良い匂いがした……、もしかしたら運命のつがいだったのかな、俺たち」
 好きだった、と聞かされ、カイの目が僅かに瞠られる。しかしすぐに、顔を綻ばせた。
「そうか、……それは、嬉しいな」
 穏やかな表情とは逆に、カイの顔色が急速に悪くなっていく。カイの力が抜けていくのを感じながら、ヴェルは静かにチョーカーの留め具を外した。
 かつて恩師に『好きな人の前で外しなさい』と言われたそれは、なんともあっさり首から外れた。
 カイの瞼が徐々に落ちていき、ヴェルの腕の中で身体が弛緩していく。ヴェルは思わず顔を泣き出しそうにくしゃりと歪めながら、カイを抱き締めた。
「——……噛んでもらうなら、あんたが良かったよ」
 真実の気持ちを伝えながら、ヴェルはそっと、カイの唇に自分のものを重ねた。重ねた唇からは、か細い呼吸が感じられるが、これもやがて消えてしまうのだと思わせる。
 ヴェルの目の端に涙が滲んだその時、ふと、一つの揶揄を思い出した。
『魔力を吸い取る力だけは人一倍だな。化け物め——』

「……そうだ、もしかしたら」
 ヴェルはカイを見下ろした。血管を傷つけたことで毒が回ったということは、毒素は必ず体内を循環する魔力に溶け合っているはずだ。毒を魔力ごと吸い上げることが可能かもしれない。
(吸い上げた魔力を一時的にチョーカーへ移しておけば、俺の身体に残留することもない)
 魔導士ではない一般人から魔力を吸い取るなど、したことはない。ましてや、今は魔導具もなく、更には、今の自分は魔力がゼロの状態だ。うまくいく保証はどこにもない。
 だが、他に方法はない。
 ヴェルはカイの口元に手を当てた。
「……頼むぞ」
 軽く目を閉じ、魔力の経路図を胸の内に描いていく。魔導士とは、魔力の経路を描き、読み解き、導く者。
 かつて何千回、何万回と、魔力を吸い込み、それを他者に分け与えてきた。魔導具なしでも、この動作だけはできてしまう。そのせいで『化け物』と一体何度気味悪がられたことか。
(俺の腕が鈍ってなければな……、見つけた)
 カイの中の微弱な魔力の流れを見つけ、ヴェルはゆっくりと、磁石で引き寄せるようにしてカイの魔力を自分の掌へと吸い込んでいく。
 毒が混じっているせいか、吸い込むだけでも刺すような痛みを感じる。だが、ヴェルは吸い込む手を止めなかった。
「……いッ、!」
 震えながら、ヴェルはもう片方の手でチョーカーを引き寄せ、魔力の装填部分へと手をかざす。吸い取ったばかりの魔力をどんどんチョーカーへと移していった。
「あと少し……!」
 魔力がヴェルに取られていくにつれ、カイの顔色が幾分、先ほどよりマシになっていく。ヴェルは最後まで吸い取り切ると、掌をカイの口元から外した。
 チョーカーにも全て移し替えられたらしい。少し手はピリつくが、ヴェルの中にも残っていない。
「よ、良かった……! カイ、おい!」
 強く名を呼べば、カイは僅かに睫毛を震わせ、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
「——……ヴェル?」
「大丈夫か? 毒は吸い込んだ。安心してくれ」
「そう、か……」
 カイはまだしびれが残っているのか、どこか口を開きにくそうにしながら、小さく笑った。
「そ、そういえば……」
「何だ!?」
「お前に、名を呼ばれたのは今日が初めてだったな……」
 他にも色々あるだろう、と言いたかったが、ヴェルの腕の中で、カイはまたくたりと身体を弛緩させた。今度は気を失っただけらしい。
 ヴェルがほっと安堵の息を吐くのと、ノアの声が館の中に響いたのは同時だった。
「たのもーっ! えー、こちらは兵士三十人を連れてきている! 無駄な抵抗はよせ!」
 ちらりと、「三十人でよかったっけ? 二十人じゃなかった?」などと言っているのが聞こえたが、すぐにシグの声が続いた。
「三十人で間違いない」
 ノアとシグのばたばたとした声が廊下に響くのが聞こえて、ヴェルはどっと疲労を感じて深いため息を吐いた。

 あの二人ならば、きっとすぐにこの部屋にも気づくだろう。
 カイを二人に預けて、リウも無事助けることができたなら、その時は潔く正体を明かして、みんなの前から消えよう。
(きっとそれが、一番いい方法だ)
 ヴェルは腕の中の重みと温もりを感じるように、もう一度ぎゅう、と抱き締めた。
(ありがとう、カイ。好きって言ってくれて……。俺も嬉しかった)
 とく、とく、とカイの心臓が脈打っているのがわかる。気を失ったままのカイの額に、ヴェルは小さく口付ける。
(ごめんな)

 石造りの廊下に、ノアとシグ、そして兵士複数の足音が響き、近付いてくるのがわかる。
 ヴェルは、腕の中の温もりから、そっと手を離した。
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