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第4章 ファレンの花
31話
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「カイ!」
長い髪を揺らし、珍しく血相を変えて夜の執務室に駆け込んできたのはノアだった。ノアの様子に尋常ならざるものを感じたカイはすぐに立ち上がった。
「どうかしたのか?」
「ヴェルとリウを最後に見たのは?」
「昨晩だが……。二人に何かあったのか」
ノアは懐から円形の魔導具を取り出した。魔力探知のためのものだ。
「実はわけあってヴェルの魔力を監視していたんだが、三十分ほど前に突然消えた」
「消えた? どういうことだ」
「探知妨害用の障壁に入れられでもしない限り、こんな急に消えることはない。嫌な予感がして館に行ったら、ヴェルもリウもいなかった……。キッチンには作りかけの夕飯が放置されていたよ」
カイの顔色が変わった。戦場でも大して顔色が変わったことのないカイにしては稀なことだ。普段のノアならば、からかいの一つでも言うところだが、今はそれどころではない。
カイは低い声で「攫われたということか」と問う。ノアは苦々しい顔で頷いた。
「カイ。心当たりは?」
「ありすぎてわからん」
「ま、そりゃそうか。とはいえ、中央貴族の連中がこっちまで来るはずがない。一番可能性として高いのはダオンかな」
「いや。あのダオンがわざわざ俺の館まで出向いて仕掛けるとは考えにくい」
「……と、なると。怪しいのは、突然現れたユジム=ラヴァド伯爵か。彼は何者? 随分、お父上とは雰囲気が違うけど」
カイは一直線に部屋を横切り、廊下へ出る。ノアも慌ててそれを追った。
「直接会話をしたのは先日が初めてだったからな。俺も詳しい人となりは分からんが……。先代ラヴァド伯からは、息子について良い話を聞いてはいなかった」
「そうなのかい?」
「ああ。先代が苛烈な人物だったからかもしれんが、出来が悪く役に立たない息子だと何度も言っていた。だから戦場にも立たせられないのだと」
その言葉に、ノアは「役に立たない息子、ねえ……」と、眉を顰めた。カイは吐き捨てるように言った。
「子に対する言葉ではない」
「まったくだよ。アルファってやつはこれだから……、あ、カイはいい子だよ」
「ついでのように言うな。とにかく、ユジム=ラヴァドの逗留している館へ行くぞ」
「どこなのか分かってるの?」
「この城砦は隠し通路が多すぎてな。シグに探らせていた。おおよその見当はついている」
カイは苦い気持ちを抱えたまま階段を降りて行く。
自分のせいでヴェルをまた危険なことに巻き込んでしまった。その自責の念に急かされるようにして脚を動かす。
(落ち着け)
自分を嗜めるように言い聞かせる。
戦場でどれだけの窮地に立たされても、王宮でどれだけの危機に見舞われても、何度か深呼吸をすれば頭の芯は冷えていった。
だが、今はどれだけ呼吸をしても、うまく肺に入っていかない。
もしヴェルやリウに何かあれば、自分は理性を保っていられるか分からないとすら思う。
カイは「くそ」と小さく悪態をついた。その後ろから「待って! 速いよ!」というノアの悲鳴が響いた。
◇
がんがんと突き抜けるような頭痛と共に、ヴェルは重い瞼を震わせ、持ち上げた。
「っう……」
ここはどこだ。と、瞬きをしながら眼球を懸命に動かす。どうやらベッドに寝転ばされているようだ。古いランプがサイドテーブルに置かれ、室内を薄暗く照らしている。
壁も床も、むき出しの石造りであり、ひんやりと肌寒い。まるで牢獄のような部屋である。
身じろぎをしようとするや否や、じゃらり、と重い金属音がした。
「え……?」
音がした方を見ると、両手首に手枷が嵌められていることに気付く。一瞬呆けたように、手枷と、それに繋がる鎖を見たヴェルだが、次の瞬間、ぞわりと悪寒が走った。
寝かされたベッドも、嵌められた手枷も。かつてのあの白い部屋を否応なしに思い出させる。
「……っ、」
流し込まれる痛み。掛けられる嘲笑。逃げられないのだという絶望——
思い出すな、と下唇を噛んだその時。
「起きたかな」
どこかのんびりとした声がした。ヴェルが視線を無理やりそちらへ向けると、部屋の入口に、一人の青年が佇んでいた。
「あんた……」
「言っただろう。また改めてお茶の時間でも、と」
コツ、と靴音を響かせてベッドに近寄ってきたのはユジムだった。先日と同じく、どこか人の良さそうな表情だが、その目だけは全く笑っていない。
それどころか、むわりと鼻をつくような酒の臭いがした。相当酔っ払っているのだろう。
ヴェルは睨むようにして言った。
「随分と悪趣味なお茶の飲み方だな」
「ほお。なかなか肝が据わってるじゃないか。いいね」
ユジムは手を伸ばすと、ヴェルの顎を指先で上げる。
「そういう口を利きたければ好きなだけ利くといい。ただし、もう一人のオメガの命は僕が握ってるということを忘れないでくれ」
もう一人のオメガ、と言われ、ヴェルは顔を顰めた。見たところ、リウはこの部屋にいない。どこか別の場所に監禁されているのか。
「……何が目的だ」
ヴェルの問いに、ユジムはおどけたように「この状況で分からない?」と、笑ってみせた。そしてぎしり、とベッドに膝を立てて乗り上げてくる。
「今から僕に抱かれるんだよ。君は僕のものになるんだ」
「……は?」
ユジムはどこかうっとりとしたように、ヴェルの目の端を指先で撫でてきた。酒のせいか、やたら高い体温が不快で、触られたところからぞわりと鳥肌が立つ。
咄嗟にヴェルは顔を背けるが、無理やり頬を掴んで引き戻された。ユジムはまじまじと目を覗き込んで、笑みを深くする。
「ああ。本当に美しい翡翠色の瞳だ……。こんな珍しい色を持ったオメガならきっと……」
「……っ、ま、待てよ。抱くってなに、あんた俺のこと好きなの? まさかな?」
好きなの、と冗談のように問われて、ユジムは一瞬きょとんとしたが、すぐに屈託ない笑みを浮かべた。
「もちろん大好きだよ! だって君は僕をアルファにしてくれるんだから!」
堂々と言われた言葉に、ヴェルは唖然とした様子で目を瞬かせた。
アルファにしてくれる? 意味がわからない。何がどうしてそうなる?
「あんたベータじゃないのか? ベータがアルファになるなんてことは……」
「うるさいッ!」
突然、ユジムの顔が憤怒の形相に豹変した。ヴェルの前髪を掴んで顔を上げさせるユジムの目は、狂気すらたたえており、唾を飛ばしながら怒鳴る。
「いいか! オメガごときが口ごたえをするな! 僕はずっとアルファになるために生きてきたんだ! アルファにならなきゃママはずっと泣いたままだし、パパはずっと僕を認めてくれないんだ! ママはいつも僕に言うんだ! お前がアルファだったらお前がアルファだったらお前がアルファだったらって! だから!」
ユジムの手がヴェルのチョーカーに触れる。ヴェルの背にぞっとした悪寒が走った。
「っ、触んな!」
「僕がオメガを抱いてうなじを噛めば、僕もアルファになれるんだ! パパもようやく僕を見てくれる!」
憤怒から一転して、今度はユジムの顔に恍惚とした笑みが浮かぶ。ヴェルは手枷が取れないかと腕を揺らそうとするが、無情に鎖ががしゃがしゃと鳴るだけだ。
「パパ、って……! 父親は死んだって言ってただろ!」
「パパはいつも言うんだ。カイ殿下は立派だ、カイ殿下こそ本物の将だって。カイ殿下と比べてお前はゴミだって! カイ殿下、カイ殿下って!」
まるで会話が通じていない。ユジムは興奮気味に続けた。
「くそ! あいつ、王族だからってチヤホヤされて! オメガを三人も囲って、侍らせて、僕を馬鹿にしてるんだ! こっちに見せつけて、優越感に浸ってるんだ!」
ユジムの言葉にヴェルは「はぁ!?」と素っ頓狂な声を上げた。
「侍らせ……!? んなわけあるか! 俺もリウもノアもそういうんじゃない!」
ひどい誤解である。まさかカイがあの館にハーレムでも築いているとでも思っているのか。
昼夜問わず、この城砦に生きる人々のために働いているというのに。寝食を削ってでも責務を果たそうとしているというのに。
(あいつがどれだけ大変か知らないくせに)
ふつふつとした怒りがヴェルの中に湧いてくる。
しかしユジムには全くヴェルの言葉が聞こえていないようだ。ヴェルのチョーカーに手を掛けたまま、口角を上げる。
「は、はは、でもこれで僕もアルファだ! ママもパパもよろこぶぞ! やった、やったぁ!」
アルファの真似事をしたところでベータがアルファになれるはずもない。それほどまでに、ユジムの心は両親の言葉で蝕まれていたということか。
いっそ痛ましささえ感じるが、ヴェルとてその憐憫だけで抱かれてなどやるつもりもない。
しかしこの状況で反撃の方法など限られている。
(一つだけ方法が……)
ヴェルは、チョーカーの製作者である恩師の言葉を胸の内に思い出す。
(——……これは、『正当防衛』だ)
とにかくこの手枷をどうにかしなければ。
「おい、ユジム!」
名を呼ぶと、ようやくユジムは視線をヴェルへ向けた。ヴェルは必至に言い募る。
「分かった。俺も協力する。お前、アルファになりたいんだもんな?」
「協力……?」
ヴェルは口角を上げてみせた。
「抱かせてやるって言ってんだよ」
胡乱げなユジムの目にようやく光が宿る。「素直じゃないか!」と喜ぶ表情はまるで幼児のようだ。ヴェルは続けた。
「ただ、このチョーカーは特殊なんだ。俺にしか取れない。でも今は手枷が邪魔でな。少しの間だけでいいから解いてくれないか?」
「え。でも、でもぉ……」
「これを取らないとうなじが噛めないぞ?」
誘うように言えば、ユジムは目をきょどきょどと泳がせ、そしてポケットから小さな鍵を取り出した。
「じゃ、じゃあ片手だけ……、片手だけね」
その鍵が手枷の鍵穴に差し込まれ、ガチャン、と噛み合う音がした。
手首にまとわりついていた鉄の塊が離れた瞬間、ヴェルは目にも止まらぬ速さで思いっきりユジムの顔面を掴んだ。そして、この十年間一度も使わずにいたチョーカーの機能を起動させた。
体内に満たされた魔力をチョーカーの装填部分に集約させ、一気に爆発させる。
魔力の奔流がチョーカーからヴェルの身体を通り抜け、目の前のユジムに向かっていった。
「寝てろ!」
バチンッと弾けるような音がして、ユジムの身体に強い電流が駆け巡った。ユジムは「んぎゃぁっ」と叫ぶなり身体を痙攣させ白目を剥いたが、すぐに意識を失ったように倒れこんだ。
使うのは初めてだが、どうやら成功したようだ。
ヴェルは、は、は、と肩で息をしながら、思わず自分のてのひらを見つめた。
「……っ」
恩師の魔導具に守られたことに、改めて感謝の念を抱く。
だが、昔ほどの魔力がない状態で起動させてしまった。チョーカーを抑制具として起動させておくだけの基礎魔力を使い果たしたことになる。
今、どこぞのフェロモンにでも当てられたら大変な事になる。早く脱出をしなければ、とヴェルは目の前で伸びているユジムの手を探った。鍵を持っているはずだが、どうにも片手だけではうまく見つけることができない。
「くそ、リウも助けないといけないのに……!」
舌打ちをした、その時。
ガチャン、と扉の開く音がして、ヴェルは浅く息を呑む。
ギィ。と静かな音と共に入ってきたのは、白髪の執事、ゴーシェだった。
「ああ、困りますねえ、ヴェル殿……そのような危ないものを首にお持ちだったとは……」
長い髪を揺らし、珍しく血相を変えて夜の執務室に駆け込んできたのはノアだった。ノアの様子に尋常ならざるものを感じたカイはすぐに立ち上がった。
「どうかしたのか?」
「ヴェルとリウを最後に見たのは?」
「昨晩だが……。二人に何かあったのか」
ノアは懐から円形の魔導具を取り出した。魔力探知のためのものだ。
「実はわけあってヴェルの魔力を監視していたんだが、三十分ほど前に突然消えた」
「消えた? どういうことだ」
「探知妨害用の障壁に入れられでもしない限り、こんな急に消えることはない。嫌な予感がして館に行ったら、ヴェルもリウもいなかった……。キッチンには作りかけの夕飯が放置されていたよ」
カイの顔色が変わった。戦場でも大して顔色が変わったことのないカイにしては稀なことだ。普段のノアならば、からかいの一つでも言うところだが、今はそれどころではない。
カイは低い声で「攫われたということか」と問う。ノアは苦々しい顔で頷いた。
「カイ。心当たりは?」
「ありすぎてわからん」
「ま、そりゃそうか。とはいえ、中央貴族の連中がこっちまで来るはずがない。一番可能性として高いのはダオンかな」
「いや。あのダオンがわざわざ俺の館まで出向いて仕掛けるとは考えにくい」
「……と、なると。怪しいのは、突然現れたユジム=ラヴァド伯爵か。彼は何者? 随分、お父上とは雰囲気が違うけど」
カイは一直線に部屋を横切り、廊下へ出る。ノアも慌ててそれを追った。
「直接会話をしたのは先日が初めてだったからな。俺も詳しい人となりは分からんが……。先代ラヴァド伯からは、息子について良い話を聞いてはいなかった」
「そうなのかい?」
「ああ。先代が苛烈な人物だったからかもしれんが、出来が悪く役に立たない息子だと何度も言っていた。だから戦場にも立たせられないのだと」
その言葉に、ノアは「役に立たない息子、ねえ……」と、眉を顰めた。カイは吐き捨てるように言った。
「子に対する言葉ではない」
「まったくだよ。アルファってやつはこれだから……、あ、カイはいい子だよ」
「ついでのように言うな。とにかく、ユジム=ラヴァドの逗留している館へ行くぞ」
「どこなのか分かってるの?」
「この城砦は隠し通路が多すぎてな。シグに探らせていた。おおよその見当はついている」
カイは苦い気持ちを抱えたまま階段を降りて行く。
自分のせいでヴェルをまた危険なことに巻き込んでしまった。その自責の念に急かされるようにして脚を動かす。
(落ち着け)
自分を嗜めるように言い聞かせる。
戦場でどれだけの窮地に立たされても、王宮でどれだけの危機に見舞われても、何度か深呼吸をすれば頭の芯は冷えていった。
だが、今はどれだけ呼吸をしても、うまく肺に入っていかない。
もしヴェルやリウに何かあれば、自分は理性を保っていられるか分からないとすら思う。
カイは「くそ」と小さく悪態をついた。その後ろから「待って! 速いよ!」というノアの悲鳴が響いた。
◇
がんがんと突き抜けるような頭痛と共に、ヴェルは重い瞼を震わせ、持ち上げた。
「っう……」
ここはどこだ。と、瞬きをしながら眼球を懸命に動かす。どうやらベッドに寝転ばされているようだ。古いランプがサイドテーブルに置かれ、室内を薄暗く照らしている。
壁も床も、むき出しの石造りであり、ひんやりと肌寒い。まるで牢獄のような部屋である。
身じろぎをしようとするや否や、じゃらり、と重い金属音がした。
「え……?」
音がした方を見ると、両手首に手枷が嵌められていることに気付く。一瞬呆けたように、手枷と、それに繋がる鎖を見たヴェルだが、次の瞬間、ぞわりと悪寒が走った。
寝かされたベッドも、嵌められた手枷も。かつてのあの白い部屋を否応なしに思い出させる。
「……っ、」
流し込まれる痛み。掛けられる嘲笑。逃げられないのだという絶望——
思い出すな、と下唇を噛んだその時。
「起きたかな」
どこかのんびりとした声がした。ヴェルが視線を無理やりそちらへ向けると、部屋の入口に、一人の青年が佇んでいた。
「あんた……」
「言っただろう。また改めてお茶の時間でも、と」
コツ、と靴音を響かせてベッドに近寄ってきたのはユジムだった。先日と同じく、どこか人の良さそうな表情だが、その目だけは全く笑っていない。
それどころか、むわりと鼻をつくような酒の臭いがした。相当酔っ払っているのだろう。
ヴェルは睨むようにして言った。
「随分と悪趣味なお茶の飲み方だな」
「ほお。なかなか肝が据わってるじゃないか。いいね」
ユジムは手を伸ばすと、ヴェルの顎を指先で上げる。
「そういう口を利きたければ好きなだけ利くといい。ただし、もう一人のオメガの命は僕が握ってるということを忘れないでくれ」
もう一人のオメガ、と言われ、ヴェルは顔を顰めた。見たところ、リウはこの部屋にいない。どこか別の場所に監禁されているのか。
「……何が目的だ」
ヴェルの問いに、ユジムはおどけたように「この状況で分からない?」と、笑ってみせた。そしてぎしり、とベッドに膝を立てて乗り上げてくる。
「今から僕に抱かれるんだよ。君は僕のものになるんだ」
「……は?」
ユジムはどこかうっとりとしたように、ヴェルの目の端を指先で撫でてきた。酒のせいか、やたら高い体温が不快で、触られたところからぞわりと鳥肌が立つ。
咄嗟にヴェルは顔を背けるが、無理やり頬を掴んで引き戻された。ユジムはまじまじと目を覗き込んで、笑みを深くする。
「ああ。本当に美しい翡翠色の瞳だ……。こんな珍しい色を持ったオメガならきっと……」
「……っ、ま、待てよ。抱くってなに、あんた俺のこと好きなの? まさかな?」
好きなの、と冗談のように問われて、ユジムは一瞬きょとんとしたが、すぐに屈託ない笑みを浮かべた。
「もちろん大好きだよ! だって君は僕をアルファにしてくれるんだから!」
堂々と言われた言葉に、ヴェルは唖然とした様子で目を瞬かせた。
アルファにしてくれる? 意味がわからない。何がどうしてそうなる?
「あんたベータじゃないのか? ベータがアルファになるなんてことは……」
「うるさいッ!」
突然、ユジムの顔が憤怒の形相に豹変した。ヴェルの前髪を掴んで顔を上げさせるユジムの目は、狂気すらたたえており、唾を飛ばしながら怒鳴る。
「いいか! オメガごときが口ごたえをするな! 僕はずっとアルファになるために生きてきたんだ! アルファにならなきゃママはずっと泣いたままだし、パパはずっと僕を認めてくれないんだ! ママはいつも僕に言うんだ! お前がアルファだったらお前がアルファだったらお前がアルファだったらって! だから!」
ユジムの手がヴェルのチョーカーに触れる。ヴェルの背にぞっとした悪寒が走った。
「っ、触んな!」
「僕がオメガを抱いてうなじを噛めば、僕もアルファになれるんだ! パパもようやく僕を見てくれる!」
憤怒から一転して、今度はユジムの顔に恍惚とした笑みが浮かぶ。ヴェルは手枷が取れないかと腕を揺らそうとするが、無情に鎖ががしゃがしゃと鳴るだけだ。
「パパ、って……! 父親は死んだって言ってただろ!」
「パパはいつも言うんだ。カイ殿下は立派だ、カイ殿下こそ本物の将だって。カイ殿下と比べてお前はゴミだって! カイ殿下、カイ殿下って!」
まるで会話が通じていない。ユジムは興奮気味に続けた。
「くそ! あいつ、王族だからってチヤホヤされて! オメガを三人も囲って、侍らせて、僕を馬鹿にしてるんだ! こっちに見せつけて、優越感に浸ってるんだ!」
ユジムの言葉にヴェルは「はぁ!?」と素っ頓狂な声を上げた。
「侍らせ……!? んなわけあるか! 俺もリウもノアもそういうんじゃない!」
ひどい誤解である。まさかカイがあの館にハーレムでも築いているとでも思っているのか。
昼夜問わず、この城砦に生きる人々のために働いているというのに。寝食を削ってでも責務を果たそうとしているというのに。
(あいつがどれだけ大変か知らないくせに)
ふつふつとした怒りがヴェルの中に湧いてくる。
しかしユジムには全くヴェルの言葉が聞こえていないようだ。ヴェルのチョーカーに手を掛けたまま、口角を上げる。
「は、はは、でもこれで僕もアルファだ! ママもパパもよろこぶぞ! やった、やったぁ!」
アルファの真似事をしたところでベータがアルファになれるはずもない。それほどまでに、ユジムの心は両親の言葉で蝕まれていたということか。
いっそ痛ましささえ感じるが、ヴェルとてその憐憫だけで抱かれてなどやるつもりもない。
しかしこの状況で反撃の方法など限られている。
(一つだけ方法が……)
ヴェルは、チョーカーの製作者である恩師の言葉を胸の内に思い出す。
(——……これは、『正当防衛』だ)
とにかくこの手枷をどうにかしなければ。
「おい、ユジム!」
名を呼ぶと、ようやくユジムは視線をヴェルへ向けた。ヴェルは必至に言い募る。
「分かった。俺も協力する。お前、アルファになりたいんだもんな?」
「協力……?」
ヴェルは口角を上げてみせた。
「抱かせてやるって言ってんだよ」
胡乱げなユジムの目にようやく光が宿る。「素直じゃないか!」と喜ぶ表情はまるで幼児のようだ。ヴェルは続けた。
「ただ、このチョーカーは特殊なんだ。俺にしか取れない。でも今は手枷が邪魔でな。少しの間だけでいいから解いてくれないか?」
「え。でも、でもぉ……」
「これを取らないとうなじが噛めないぞ?」
誘うように言えば、ユジムは目をきょどきょどと泳がせ、そしてポケットから小さな鍵を取り出した。
「じゃ、じゃあ片手だけ……、片手だけね」
その鍵が手枷の鍵穴に差し込まれ、ガチャン、と噛み合う音がした。
手首にまとわりついていた鉄の塊が離れた瞬間、ヴェルは目にも止まらぬ速さで思いっきりユジムの顔面を掴んだ。そして、この十年間一度も使わずにいたチョーカーの機能を起動させた。
体内に満たされた魔力をチョーカーの装填部分に集約させ、一気に爆発させる。
魔力の奔流がチョーカーからヴェルの身体を通り抜け、目の前のユジムに向かっていった。
「寝てろ!」
バチンッと弾けるような音がして、ユジムの身体に強い電流が駆け巡った。ユジムは「んぎゃぁっ」と叫ぶなり身体を痙攣させ白目を剥いたが、すぐに意識を失ったように倒れこんだ。
使うのは初めてだが、どうやら成功したようだ。
ヴェルは、は、は、と肩で息をしながら、思わず自分のてのひらを見つめた。
「……っ」
恩師の魔導具に守られたことに、改めて感謝の念を抱く。
だが、昔ほどの魔力がない状態で起動させてしまった。チョーカーを抑制具として起動させておくだけの基礎魔力を使い果たしたことになる。
今、どこぞのフェロモンにでも当てられたら大変な事になる。早く脱出をしなければ、とヴェルは目の前で伸びているユジムの手を探った。鍵を持っているはずだが、どうにも片手だけではうまく見つけることができない。
「くそ、リウも助けないといけないのに……!」
舌打ちをした、その時。
ガチャン、と扉の開く音がして、ヴェルは浅く息を呑む。
ギィ。と静かな音と共に入ってきたのは、白髪の執事、ゴーシェだった。
「ああ、困りますねえ、ヴェル殿……そのような危ないものを首にお持ちだったとは……」
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