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第1章 オメガ狩り

1話

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「お前を抱くつもりはない」

 淡々と繰り出された言葉に、ヴェルは声を「はぁ?」と、裏返らせてしまった。
 あっけに取られながらも、なんとか目の前の男を見上げる。
 見れば見るほど美丈夫だ。
 均整の取れた引き締まった身体は、服の上からでも筋肉の厚みと重さを感じさせた。赤みがかった瞳は鋭く、そこに佇んでいるだけで寝室の空気を緊張させる。

 ヴェルだって、オメガとはいえ立派な成人男性であり、魔導士として戦場にも行ったのだ。細身ではあるがそこそこの筋力はあるし、決して小柄ではない。

 しかしいかんせん、目の前の男とは比較にならない。
 身長の違いは約十センほどといったところだが、醸し出すオーラのせいで、まるで巨大な熊か虎とでも対峙しているかのようだ。
 男の髪は濃い褐色だ。それを後ろに撫でつけただけで、大した手入れもしていないのが分かる。それでも粗暴な印象を受けないのは、端正な顔立ちのせいだろう。脂肪の少ないシャープな輪郭は、通った鼻筋や高い頬骨と相まって、まるで彫刻のようだ。思わずまじまじと見つめていると、その彫刻のごとき顔が、ふい、とヴェルから逸らされた。

 あまりにも整った顔だったので見入ってしまったが、見入っている場合ではない、とヴェルは慌てて言葉を続ける。
「い、いや、でも、それだと話が違……」
「違わない。この部屋は自由に使え。じゃあな」
 ぴしゃりと遮られ固まるヴェルの、まっすぐな黒髪と翡翠の瞳が、ベッドサイドのランプにうすぼんやりと照らされる。
 どういうことだ?
 湯浴みをして、ベッドで身を硬くして待っていたというのに。
 二十四歳にしてとうとうこの身が誰かのものになってしまうのかと、自嘲にも似た諦めを持って、こうして待っていたというのに。
 言い表せないほどの凌辱行為をされてもおかしくはない、と、顔を青褪めさせながら覚悟を決めていたというのに。
 まさかの事態である。

 唖然としたままのヴェルを置いて、男は長い脚でさっと広い室内を横切り、重厚な扉に手をかける。「ああ、それと」男は思い出したように振り向いた。
「敷地内は好きに移動して構わないが、城にだけは近づくな。いいな」
 男は扉を開けると、宵闇に溶けるようにして廊下へと出て行ってしまった。バタン、と、廊下と部屋が隔絶される音がするなり、ヴェルは「……はぁ?」と、脱力したようにもう一度呟く。
 城、と男は言った。ヴェルは窓へ視線をやる。夜空に浮かぶ明るい月が、窓の向こうの巨大な建造物をくっきりと照らしていた。
 ここ、ラジナ城砦の、本丸たる城。
 シュリス王国、西方国境警備軍せいほうこっきょうけいびぐんの本拠地だ。
 今、ヴェルがいる二階建ての館も、この城砦の広大な敷地内にある。夜間であっても城砦内は魔導具まどうぐによる篝火は消えず、見回りの兵士たちが規則正しく巡回をしている。
 三年前の国境戦争で活躍した有名な城砦であり、その堅牢な守りは一度も敵に崩されなかったという。「シュリスの守り神」という別名すらもっている。

「……そんな所に俺が来るなんて」
 ヴェルは思わずぽつりと零す。
 ふと、館の前庭から、城の方へ向かう黒い影が見えて目線でそれを追った。あの、無駄に身体がでかくて、広い歩幅の男など、この、精鋭集まる城砦でもそうそういない。つい今しがたまで、この部屋にいた男である。
「歩くの早っ」
 そんな軽口を叩いてしまう。
 男——カイ=シュリスレア。この城砦の指揮官にして、西方国境警備軍の軍隊長。
 二十六歳という若さでありながら、多くの戦場を駆け巡り、ついた二つ名は『常勝無敗の黒き獅子』である。彼が戦場で羽織る黒い外套は毛足が長く、まるで獅子のたてがみのようだと評された。
 武芸に秀で、カリスマ性もあり、兵士たちからの人望を集め続けた、正真正銘の英雄だ。

「ついでに、シュリス王国の第三王子様。と……」
 ため息混じりに口の中で呟くと、百メートル近く離れた場所を歩いていたカイの背が突然振り向いた。ヴェルは弾かれたように窓際から離れ、身を隠す。暗闇で表情までは分からないが、しばしカイは館の方を見ていたらしい。すぐに踵を返し、淀みない歩調で城へと向かって行った。

 ヴェルはほっと胸を撫で下ろしながらも眉根を寄せた。
 こちらの声が聞こえたわけではないだろう。おそらく、この距離でも視線を向けられたことに勘付いたのだ。
「こわぁ。野生動物じゃん……」
 ヴェルはベッドまで戻ると、ぼすん、と軽く弾みをつけてマットレスに横たわった。見慣れぬ天井の文様を見上げていると、急に瞼が重くなってきた。当然だろう。昨日からロクに眠っていないのだ。
「昨日……、そっかぁ、村から離れて、まだ一日しか経ってないんだ」
 うつらうつらとしながら、ヴェルは村に想いを馳せる。
 見せしめとして焼かれてしまった、村の家々。空に舞い上がった煤がぼろぼろと黒い雪のように落ちてきて、誰の頬もかすれたような黒が点々とついていた。
 怯えた村人たちの顔も、しがみついてくる子どもの涙も。村人たちを取り囲む、冷たい鉄鎧の集団も。馬上から見下ろしてくる、『黒き獅子』の姿も。何もかもがはっきりと思い出せてしまう。
「……みんな今頃何してるかな」
 ヴェルは無意識に、自分の首に嵌めたチョーカーをさする。オメガの印でもあるそれに触れてしまうのは、もはや癖だろう。

 ヴェルの住んでいた村は襲われた。そしてヴェルは、襲った張本人であるカイ=シュリスの居城に連れて来られた。かの、黒き獅子のつがいとしてーー
「そのはずなのに……」
 ヴェルはうとうとと目を閉じる。
 抱くつもりはない、とあのアルファははっきりと告げた。
 なぜだ。『オメガ狩り』は、一人のアルファに多数のオメガを宛がうための蛮行。
 あのアルファに自分が抱かれなければ、つがいになれない。意味がないではないか。自分を連れ去ったのは、つがい目的ではないのか。
 疑問が後から後からわいてくる。
「つがい目的じゃない、としたら……」

 まさか魔導士として雇うつもりでもないだろう。何せ今の自分の魔力は三年前の戦争のせいですっからかんだ。精密な魔力探知にすら引っかからない。
 『役立たずの出来損ない魔導士』という不名誉な肩書きが、ふと思い出された。
(俺が元魔導士、ってことは誰も分からないはずだ。つまり、ただのオメガとして連れてこられたはずで……。なのにつがいになる気がない? どういうことだよ?)

 わけがわからない、と内心で呟きながら、体力の限界を迎えたヴェルの意識は、夢の中へと沈んで行った。
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