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第一章

10.雨の日の読書

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 ある雨の日の午後、ジゼルは一冊の本を持って仕事部屋に入った。
さっと手を振ると、真っ暗だった仕事部屋がぱっと明るく照らされる。
工房の仕事部屋には、窓がない。
天井に取り付けた魔導具の光源が頼りだが、これがなかなか、付けると部屋全体が明るくなる優れものだ。
時々、動力源の魔石に魔力を補給してやらねばならぬものの、ランプの灯りとは比べものにならない光量を放つこの魔導具はとても便利である。
ただし高価な魔導具なので、この工房内でも仕事部屋にしか設置していない。
雨の日や夜に読み物をしようと思えば、この仕事部屋以外でする気にはなれないジゼルだった。
ジゼルが持ってきた本は、フェリクスから借りたバラデュール翁の著作『フォンテール王国周辺の妖魔』である。
この国の周囲の妖魔について、大略的に網羅した本だ。
バラデュール翁の研究論文を読む前提として、妖魔についてもっと知っておく必要があると思って借りてきたのだ。
「妖魔って、恐ろしい化け物だって認識くらいしかないからなぁ」
作業机前の椅子に腰掛けたジゼルは、ぼやきながら表紙をめくる。
この本は一般向けに書かれたもののようで、普通のフォンテール語で書かれているし、ぱらぱらと見る限り図入りで内容も分かりやすい。
バラデュール翁の著作以外も読んでいく必要はあるが、おさらいとしてはこの本からで良いだろう。
ジゼルは序文に戻り、腰を据えて読み始めた。

この世には、妖魔と呼ばれる怪物が存在している。
様々な獣がいびつに変異したような、人よりふた周りは大きい身の丈の化け物である。
ほとんどの妖魔は人里離れた山奥や、大海などに生息している。
否、人類が妖魔を避けて繁栄している、と言った方が正しいだろう。
妖魔が跋扈ばっこする地を開拓し全世界の覇者となる夢を人は古代から抱き、そして無惨に夢破れてきた歴史がある。
ただ、そうして距離をとっている妖魔だが、稀に大繁殖して巣から溢れる現象が発生する。
溢れた妖魔を放っておけば、村や街を襲い人や家畜を喰らう。
下手をすれば城壁のある都市ですら全滅する災害であり、それを未然に防ぐために定期的に遠征して妖魔の間引きをするのが王都騎士団の仕事だ。
また大繁殖しなくても、縄張り争いで負けたか何かで生息域から離れる妖魔もちらほら居た。
妖魔一体でも、訓練していない人間には脅威である。
力自慢の農夫が四、五人で寄ってたかってでも、勝てない公算の方が大きい。
何せ、訓練した三等騎士でさえ、妖魔一体に三人がかりで対応するのが定石である。
『はぐれ』の妖魔に対応するために、地方騎士団は結成された。
治安維持はあくまで後から出来た役割で、騎士の成り立ちは妖魔討伐にあるのだ。
そうして討伐した妖魔の牙や爪、皮などが多少魔術素材として市場に回されるが、肉は毒があり食用には適さない。
これが肉に毒がなくもう少し狩るのが容易(たやす)ければ、民間の狩人も妖魔を狙うだろうが、実際は割に合わないため定期的に妖魔を狩るのは騎士団だけだ。
この世の子供たちは、妖魔の恐ろしさを刷り込まれながら育つ。
王都には妖魔の剥製が展示されている博物館があって、生まれ育ちは王都のジゼルも子供の頃に親に連れて行ってもらった。
妖魔に馴染みがない民にも妖魔の脅威を忘れさせないため、という高尚な目的で設置されているものだが、恐ろしい異形いぎょうの妖魔に子供たちが泣き叫ぶ恐怖の館だ。
人類の妖魔被害の歴史も同時に展示されているので、あれを見て素材目当てに単独で妖魔を狩ろうと思う阿呆はまず居ない。
「二等騎士様ともなると、あんなおっかない化け物をばったばったと倒すらしいから、どっちが化け物なんだって話だけど」
ジゼルの弟子であるフェリクスもそんな化け物の一人だ、というのはひとまず置いておく。
そんな恐ろしい妖魔が、この世には確認されているだけで数百種類おり、その生息総数は人類の数を超えると予想されていることを覚えておけば良い。
(えぇと、一通りは目を通したけど、ムエット周辺に出没する妖魔のところを重点的に読み返しておこうかな)
ムエット周辺の山には妖魔は生息していないが、稀に遠くの山脈から山伝いに『はぐれ』がやってくるようだ。
こちらはムエット地方騎士団が対応していて、人的被害はほとんどない。
ムエットで被害が大きいのは、海洋性の妖魔だ。
海の妖魔の縄張り自体は、ムエットからは離れているし、航路もその縄張りを避けてつながっていた。
それでも、年に二度、三度は妖魔に船ごと沈められたという話を聞く。
この本にも、本が記された七年前からその過去十年間の年間被害数が記されていて、その数に眉をひそめる。
情報がやや古いが、今もそう大きく変わりはしないだろう。
後で魔術師協会か役所で最新情報を調べてこようと真新しいノートに走り書いた。
それにしても、海の妖魔は人的被害が大きい。
海の妖魔は陸の妖魔に比べても大型で、さらに船の上では逃げ場がない。
船が沈めば乗員も乗客も荷も、すべてが海の藻屑となるのだ。
ムエット地方騎士団も船を持っていて近海の見回りをしているが、すぐに駆けつけるのは難しいのが実状だ。
「だからもっと妖魔を効果的に避ける術があれば良いって、バラデュール翁も考えたのね」
翁が記した論文の題をざっと確認するに、船を襲う妖魔が嫌がる物を研究していたようである。
ジゼルも湊都市ムエットに根を下ろす魔術師。
その研究の重要性は分かっている。
(フェリクスが一人前になって研究を引き継ぐまで、私が研究を進めてもいいかなぁ)
ジゼルは本を机に置いて、椅子の背もたれに寄りかかる。
街の魔術師としての自分に不満はない。
それでももう少し、自分に出来ることを増やしたいという欲がある。
出来ることなら、人の役に立つような……。
ジゼルの眉間にしわがよる。
その思いに、輝かしい功績を上げている兄弟弟子たちへの対抗心がないとは言わない。
己の力量も分かっている。
魔術師としては可もなく不可もなく、平々凡々だ。
それでも、ジゼルにだってもう少しくらいは何か出来ると思いたい。
「ただ、まずはフェリクスに筋を通さないとね」
バラデュール翁が研究を託したのはフェリクスだ。
彼が一人前になるまでに間があるとはいえ、横取りして良いものではない。
期限は彼が一人前になるまで。
その後はジゼルが研究した部分もフェリクスに引き継ぐ。
その条件で掛け合ってみようと思う。


ジゼルは壁掛け時計に目を向けた。
そろそろ、フェリクスが買い物かごを下げてやってくる頃合いだ。
魚市場にフェリクスが出掛けた翌日から、ジゼルとフェリクスは夕食を作るところから共にしていた。
最初は買い物も二人で行っていたが、今はフェリクスが買い物担当だ。
弟子は使い走りうんぬんというより、単独で行かせた方がおまけしてもらえる率が高いのである。
(食生活がより豊かになって、フェリクス様様よね。一緒に料理するのも食事するのも、思ったより楽しいし)
料理はまったくの初心者だったフェリクスだが、妙な矜持きょうじもなく教えやすくて飲み込みも早い。
食事中の会話だってそつなく話題を提供してくれるし、皿洗いも率先してやろうとする。
「本当に気が回る弟子だわぁ。誰かさんとは大違い」
ジゼルの元恋人は、食べるだけで皿洗いも手伝わない男だった。
食費だって、全部ジゼル持ちだったのだ。
「それで美味しい美味しいって食べてくれればまだしも、『しょせん素人料理だが、食べられないこともないな。俺は良い店でもっと旨いものも食えるけど、お前が作ったヤツを食べてやるよ』とか偉そうにぬかすようになるしさ」
別れる直前の傲慢さを思い出し、ジゼルは忌々しげに吐き捨てる。
「いや、あんなクズとフェリクスを比べたら可哀想だわ。宝石とシラミくらい違うわ」
あんなクズでも出会った頃は違ったとか、ジゼルの対応が悪かったからああなってしまったのかとか、益体やくたいもないことは考えるだけ無駄だ。
ぴーんぽーん。
思考を切り替えようとしたところで、丁度良く仕事部屋に据えた水晶が来客を知らせた。
水晶を見ると、玄関前に立つフェリクスの姿が映っている。
「おっと、いけないいけない」
ジゼルは急いで玄関に向かう。
「ご苦労様、フェリクス」
扉を開けて、買い物かごを下げたフェリクスを労う。
フェリクスはにっこり笑って、かごを掲げた。
「いえいえ。今日は卵を二つ、おまけでもらいました」
「卵! いいね。明日、お菓子でも作ろうか」
「お菓子作りですか。それは楽しみですね。作れるものが増えるのは嬉しいです」
「ふふ。そうね」
自然に自分も一緒に作ると考えているフェリクスに、ジゼルは笑みを深める。
「お師匠様?」
「なんでもないよ。さぁ、入って入って」
価値観が合う小さな幸せを噛みしめて、ジゼルはフェリクスを中に促した。
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