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第一章
09.趣味とはどんなものかしら
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フェリクスはジゼルの魔力の補助によって、剣なしでも魔力を練ることが出来るようになった。
しかし、ジゼルの魔力を抜くと、まだ練り方がぎこちない。
フェリクスはもっと続けたそうだが、もう一度ジゼルの魔力を注入して、本日の修行は終わりだ。
ジゼルがフェリクスに指導するのは、基本的に午前中だけである。
一人分の月謝だけで食べていくことは出来ないし、今までに引き受けた仕事もある。
一般的な弟子は、魔術以外の読み書きや算術、歴史、礼儀作法などを学ぶために残りの時間を当てるものだ。
しかし、フェリクスはそれらの教育は十分に受けている。
大人相手に自由時間についてあれこれ言うつもりはないので、好きに過ごせば良いと思うのだが、フェリクスは違うらしい。
「宿題を出してください」
期待した顔で、フェリクスが言った。
庭のベンチに座ったジゼルは、唇に指を当てて宙を見る。
「宿題、ねぇ」
ジゼルの修行時代など、いかに楽をするかしか考えていなかったのに、熱心なことである。
「今日は自分の魔力を知って、ぎこちないまでも自力で練るところまでいけたでしょう? 順調過ぎるくらいなんだよね。普通はこれだけで十日かかる子も居るから。きちんと休憩するのも修行のうちだよ」
「はい」
そう答えるフェリクスの声には、ありありと不満の色が混じっていた。
ジゼルは苦笑する。
「暇ならムエット散策でもしてみたら? 王都よりは小さいけど、見所がそこそこある街だよ。港とか二つあるし。市も王都とは品揃え違うから、見るだけでも楽しいよ。余暇を楽しむと思って行っておいでよ」
「はぁ。余暇を楽しむ、というのは、あまり経験がなく……」
『貧乏暇なし』は、王都騎士団に所属していたフェリクスには当てはまらない言葉だろう。
給料も良いし、いざという時に使い物にならないと困るので、平時はきちんと休暇が定められているはずだ。
「今までは空いた時間に何してたの? 趣味とかないの?」
「二等騎士試験対策ですね。趣味は特にはありません」
ジゼルは思わず口をつぐんだ。
最短で祖父の出した条件を達成するために犠牲にしてきたものが、フェリクスには多過ぎる。
「それならなおのこと、趣味とか持ってみたら良いんじゃないかな。魔術は精神に左右されるところあるから、気分転換出来る趣味があると修行もはかどるよ」
「そう言われましても……。お師匠様は何かご趣味をお持ちですか?」
「私?」
フェリクスの問いに、ジゼルは自分の顎を指さした。
「そうだね。歌劇を観に行くのとか、刺繍とかかな」
刺繍は内職も兼ねているので、純粋な趣味かというと少し怪しい。
しかし、歌劇を観に行くよりは手軽に出来るので、ちょっとした空き時間にするには格好の気分転換になる。
フェリクスは刺繍はともかく前者の方には馴染みがないようで、少し首を傾げていた。
「歌劇、というと、あの役者が歌って演じる劇のあれですか?」
「そうそれ。ムエットには有名な歌劇団が三つあってね。一つは貴族や豪商相手に公演してるけど、あと二つは交互に庶民向けの公演をやってるよ」
通年で公演している劇場を有する都市は、それほど多くない。
王都とムエットを含め、片手の指ほどだろう。
他は祭りの時など、旅の劇団がやってきて公演するくらいだ。
ムエットは裕福な平民が比較的多く、年に一度や二度は家族で観に行くという一家もあるし、毎公演熱心に通う愛好家も少なくない。
「ムエットは栄えていると思いましたが、娯楽も庶民が楽しめるものがあるのですね」
フェリクスが感心したようにつぶやいた。
「ふふふ。そりゃあね。『ムエットに足りないものは、土地に温泉、王家だけ』ってね」
ジゼルが口にしたのは、ムエットの民に親しまれている戯れ歌だ。
ムエットは三方を山、一方を海に囲まれている。
それ故、今以上に街を広げるには山を切り開くか、海を埋め立てるかだ。
無理に山を切り開けば山崩れの危険があり、入り江の特性のおかげで港の安全が保てているので、海の埋め立ても難しい。
限界まで拡張されたムエットは一都市の広さとしては十分であるが、王都がある平野の広大さに比べれば狭いと言わざるを得なかった。
火山が近くにないので、温泉もない。
最後は言わずもがな。
しかし、それ以外はなんでもあると謳っているのである。
「ムエットには貿易港があるから、物も人も集まるんだよ」
「それは分かります。今日のところは、お師匠様のご提案の通り街を見て回りましょう。居住地の地理は頭に入れておきたいですし」
あくまで実利でフェリクスは考えているようだ。
(でもまぁ、趣味なんて、無理に押しつけるものじゃないしねぇ)
これからは時間も出来るので、自力で何かしら見つけるしかないだろう。
それと、多少はフェリクスの要求に応える用意はある。
「明日からは座学を始めるから、宿題も出すよ」
ジゼルの言葉に、フェリクスは満面の笑みを浮かべた。
「えーと、咳止めが三十、湿布が五十、傷軟膏が三十……」
昼食後、ジゼルの姿は工房の仕事部屋にあった。
換気口のみで窓がないその部屋は、薬草の束が吊されていたり、瓶が棚にずらりと並んでいたり、いくつもの貴重な魔導具が並んでいたり、フェリクスが見れば狂喜乱舞しそうな『魔術師らしい』部屋だ。
注文書を確認しながら、行李に作った薬を詰めていく。
今日は懇意にしている薬問屋に納品に行くのである。
「よいしょっと」
薬がぎっしり詰まった行李をひょいと背負う。
この行李自体に魔術をかけてあるので、実際の重量よりもだいぶ軽い。
仕事部屋からは直接庭に出られる扉がある。
玄関の戸締まりは事前に済んでいるので、そこから庭に出て建物横の細い隙間を通って表に出た。
深くフードをかぶったローブに行李の背負った姿は、とても怪しい。
しかし、近所の住民にはお馴染みの光景だ。
「あら魔女さん、お仕事?」
「えぇ。問屋さんに薬を納めに行くところです」
「重そうな荷物ねぇ。気をつけて」
「ありがとうございます。行ってきます」
気軽に声をかけてくるご近所さんににこやかに応えて、問屋街へと向かう。
問屋街へは、ジゼルの足でも四半時もかからない。
「ごめんください」
馴染みの薬問屋の扉をくぐると、新入りらしい十四、五歳ほどの少年店員がぎょっとした顔をした。
ジゼルのような魔女らしい魔女を見るのは初めてなのだろう。
ジゼルは苦笑して言った。
「こんにちは。魔女エランが納品に来たと伝えてくださる?」
「い、いらっしゃいませ。少々お待ちください」
ぺこりと頭を下げて、少年が奥に入っていく。
すぐに少年は一人の女性を連れて戻ってきた。
ジゼルと同年代の女性は、笑顔で奥を指し示した。
「魔女エラン、いらっしゃい。奥の商談室へどうぞ」
「こんにちは。お邪魔します」
広いテーブルに二脚の椅子、趣味の良い調度品が揃えられた商談室に入ると、ジゼルは背から下ろした行李をテーブルに置いた。
そして、おもむろにフードを脱ぐ。
この部屋には、ジゼルと先ほどの女性しかいないので、もうフードをかぶっている必要はないのだ。
「さぁ、ジゼル。座ってちょうだい」
「えぇ、エルミーヌ」
店頭でのやりとりとは違って、気安い会話を交わす。
彼女エルミーヌは、この薬問屋の跡取り娘であり、ジゼルの友人だった。
ちなみにジゼルと同い年で既婚二児の母である。
行李から薬を出して並べ、エルミーヌに確認してもらう。
「はい。確かに。注文通りね。この後、用がなければお茶を飲んでいってよ」
受け取りの署名をした書類を手渡して、エルミーヌが誘ってきた。
ジゼルも否やはない。
「そうさせてもらおうかな」
エルミーヌが他の店員を呼んで納品した薬を持って行かせ、ついでとばかりに茶も頼む。
茶を飲みながら他愛もない世間話に花を咲かせた後、エルミーヌがにやにやと笑って切り込んできた。
「そういえば、すごい美男子の弟子をとったんだって?」
美味しい茶菓子に舌鼓を打っていたジゼルは、一気に苦い顔になった。
「なに? もうエルミーヌの耳に届くほどの噂になってるの?」
「魔術師協会へ届けを出しに行ったんでしょう? うちは他の魔術師とも取引あるからね」
そういえば、初日に多くの目撃者を出していたと、今更ながら思い出した。
「なるほど。その線か」
「そう。……ダニエルと別れたって聞いたけど、元気そうで良かったわ。その新弟子のおかげかしら?」
言葉とは裏腹に、エルミーヌの視線には気遣う色が見えている。
ジゼルは肩をすくめた。
「弟子は弟子だからね。手を出してはいないよ。……まぁ、弟子へ教える準備で失恋を引きずる暇がなかったのは良かったけど」
ジゼルが二年付き合ったダニエルと別れたのは、フェリクスがゴドフロワに連れてこられる前日のことだった。
「ダニエルのことは、私も父も、責任を感じてるのよ」
エルミーヌが目を伏せた。
ジゼルは首を横に振る。
「そりゃあ、ダニエルはこの問屋の元店員だけどさ、もう半年以上前に独立してるじゃない。エルミーヌも大旦那さんも責任を感じる必要はないでしょ」
「……別れた原因って、ダニエルの借金でしょう? 店の経営についても仕込んだつもりだったけど、まさか半年で傾けるとは思わなかったわ」
「まぁね。お金を貸して欲しいって言われて、断ったのが発端ではあるけどさ。店の経営うんぬんというか、『旦那さん旦那さん』と持ち上げられて寄ってきた悪い仲間に誘われて、賭事にハマちゃったみたいなんだよね」
「賭事には手を出すなって、うちできつく言い聞かせてたのに!」
エルミーヌが険しい顔をする。
「乗せられたダニエルが馬鹿なだけだって。もうあんなやつに未練はないよ。別れ際に捨て台詞を散々吐かれたからね」
そりゃあもう、吝だの守銭奴だの、いつも婆くさい臭いがして閉口しただの地味不細工だの、好き放題に罵られたのだ。
あんなヤツと付き合っていただなんて、人生の汚点である。
「そうなの!? そんなヤツだと見抜けなくて、本当にごめんなさい」
エルミーヌが頭を下げた。
慌てたのはジゼルである。
「いや。見抜けなかったのは私も同じだって。頭を上げてよ」
「本当にごめんね。今度のラ・ブリュショルリの新作公演おごるから、ぱぁっと憂さ晴らししましょ」
「え、いや、それは悪いって。ちゃんと自分で払うよ」
「いいのいいの。それにおごるのは初回だけよ。良い公演だったらもう一度観に行くのに付き合ってね。家族は同じ公演を何度も観る気持ちが分からないって言うのよ」
エルミーヌの気遣いに、ジゼルは微笑む。
「ありがとう。もちろん付き合うよ。舞台は生物だもの。新人俳優の演技が公演中にもどんどん良くなって行くのとか、見物だよね」
「そう! そうなのよ! さすがジゼル。分かってるわ!」
「今度の新作は、思わせぶりな予告をしてるみたいなんだけど、見た?」
「あれね。張り紙を見たわ。面白い演出をするみたいで楽しみよね」
「そうそうそれでさ」
どっぷりとハマっている趣味の話となれば、不愉快な男の話題などどこかへ吹き飛んでしまう。
歌劇愛好家の二人の会話は、いい加減に商談室を空けて欲しいと番頭が踏み込んで来るまで、白熱して続いたのだった。
しかし、ジゼルの魔力を抜くと、まだ練り方がぎこちない。
フェリクスはもっと続けたそうだが、もう一度ジゼルの魔力を注入して、本日の修行は終わりだ。
ジゼルがフェリクスに指導するのは、基本的に午前中だけである。
一人分の月謝だけで食べていくことは出来ないし、今までに引き受けた仕事もある。
一般的な弟子は、魔術以外の読み書きや算術、歴史、礼儀作法などを学ぶために残りの時間を当てるものだ。
しかし、フェリクスはそれらの教育は十分に受けている。
大人相手に自由時間についてあれこれ言うつもりはないので、好きに過ごせば良いと思うのだが、フェリクスは違うらしい。
「宿題を出してください」
期待した顔で、フェリクスが言った。
庭のベンチに座ったジゼルは、唇に指を当てて宙を見る。
「宿題、ねぇ」
ジゼルの修行時代など、いかに楽をするかしか考えていなかったのに、熱心なことである。
「今日は自分の魔力を知って、ぎこちないまでも自力で練るところまでいけたでしょう? 順調過ぎるくらいなんだよね。普通はこれだけで十日かかる子も居るから。きちんと休憩するのも修行のうちだよ」
「はい」
そう答えるフェリクスの声には、ありありと不満の色が混じっていた。
ジゼルは苦笑する。
「暇ならムエット散策でもしてみたら? 王都よりは小さいけど、見所がそこそこある街だよ。港とか二つあるし。市も王都とは品揃え違うから、見るだけでも楽しいよ。余暇を楽しむと思って行っておいでよ」
「はぁ。余暇を楽しむ、というのは、あまり経験がなく……」
『貧乏暇なし』は、王都騎士団に所属していたフェリクスには当てはまらない言葉だろう。
給料も良いし、いざという時に使い物にならないと困るので、平時はきちんと休暇が定められているはずだ。
「今までは空いた時間に何してたの? 趣味とかないの?」
「二等騎士試験対策ですね。趣味は特にはありません」
ジゼルは思わず口をつぐんだ。
最短で祖父の出した条件を達成するために犠牲にしてきたものが、フェリクスには多過ぎる。
「それならなおのこと、趣味とか持ってみたら良いんじゃないかな。魔術は精神に左右されるところあるから、気分転換出来る趣味があると修行もはかどるよ」
「そう言われましても……。お師匠様は何かご趣味をお持ちですか?」
「私?」
フェリクスの問いに、ジゼルは自分の顎を指さした。
「そうだね。歌劇を観に行くのとか、刺繍とかかな」
刺繍は内職も兼ねているので、純粋な趣味かというと少し怪しい。
しかし、歌劇を観に行くよりは手軽に出来るので、ちょっとした空き時間にするには格好の気分転換になる。
フェリクスは刺繍はともかく前者の方には馴染みがないようで、少し首を傾げていた。
「歌劇、というと、あの役者が歌って演じる劇のあれですか?」
「そうそれ。ムエットには有名な歌劇団が三つあってね。一つは貴族や豪商相手に公演してるけど、あと二つは交互に庶民向けの公演をやってるよ」
通年で公演している劇場を有する都市は、それほど多くない。
王都とムエットを含め、片手の指ほどだろう。
他は祭りの時など、旅の劇団がやってきて公演するくらいだ。
ムエットは裕福な平民が比較的多く、年に一度や二度は家族で観に行くという一家もあるし、毎公演熱心に通う愛好家も少なくない。
「ムエットは栄えていると思いましたが、娯楽も庶民が楽しめるものがあるのですね」
フェリクスが感心したようにつぶやいた。
「ふふふ。そりゃあね。『ムエットに足りないものは、土地に温泉、王家だけ』ってね」
ジゼルが口にしたのは、ムエットの民に親しまれている戯れ歌だ。
ムエットは三方を山、一方を海に囲まれている。
それ故、今以上に街を広げるには山を切り開くか、海を埋め立てるかだ。
無理に山を切り開けば山崩れの危険があり、入り江の特性のおかげで港の安全が保てているので、海の埋め立ても難しい。
限界まで拡張されたムエットは一都市の広さとしては十分であるが、王都がある平野の広大さに比べれば狭いと言わざるを得なかった。
火山が近くにないので、温泉もない。
最後は言わずもがな。
しかし、それ以外はなんでもあると謳っているのである。
「ムエットには貿易港があるから、物も人も集まるんだよ」
「それは分かります。今日のところは、お師匠様のご提案の通り街を見て回りましょう。居住地の地理は頭に入れておきたいですし」
あくまで実利でフェリクスは考えているようだ。
(でもまぁ、趣味なんて、無理に押しつけるものじゃないしねぇ)
これからは時間も出来るので、自力で何かしら見つけるしかないだろう。
それと、多少はフェリクスの要求に応える用意はある。
「明日からは座学を始めるから、宿題も出すよ」
ジゼルの言葉に、フェリクスは満面の笑みを浮かべた。
「えーと、咳止めが三十、湿布が五十、傷軟膏が三十……」
昼食後、ジゼルの姿は工房の仕事部屋にあった。
換気口のみで窓がないその部屋は、薬草の束が吊されていたり、瓶が棚にずらりと並んでいたり、いくつもの貴重な魔導具が並んでいたり、フェリクスが見れば狂喜乱舞しそうな『魔術師らしい』部屋だ。
注文書を確認しながら、行李に作った薬を詰めていく。
今日は懇意にしている薬問屋に納品に行くのである。
「よいしょっと」
薬がぎっしり詰まった行李をひょいと背負う。
この行李自体に魔術をかけてあるので、実際の重量よりもだいぶ軽い。
仕事部屋からは直接庭に出られる扉がある。
玄関の戸締まりは事前に済んでいるので、そこから庭に出て建物横の細い隙間を通って表に出た。
深くフードをかぶったローブに行李の背負った姿は、とても怪しい。
しかし、近所の住民にはお馴染みの光景だ。
「あら魔女さん、お仕事?」
「えぇ。問屋さんに薬を納めに行くところです」
「重そうな荷物ねぇ。気をつけて」
「ありがとうございます。行ってきます」
気軽に声をかけてくるご近所さんににこやかに応えて、問屋街へと向かう。
問屋街へは、ジゼルの足でも四半時もかからない。
「ごめんください」
馴染みの薬問屋の扉をくぐると、新入りらしい十四、五歳ほどの少年店員がぎょっとした顔をした。
ジゼルのような魔女らしい魔女を見るのは初めてなのだろう。
ジゼルは苦笑して言った。
「こんにちは。魔女エランが納品に来たと伝えてくださる?」
「い、いらっしゃいませ。少々お待ちください」
ぺこりと頭を下げて、少年が奥に入っていく。
すぐに少年は一人の女性を連れて戻ってきた。
ジゼルと同年代の女性は、笑顔で奥を指し示した。
「魔女エラン、いらっしゃい。奥の商談室へどうぞ」
「こんにちは。お邪魔します」
広いテーブルに二脚の椅子、趣味の良い調度品が揃えられた商談室に入ると、ジゼルは背から下ろした行李をテーブルに置いた。
そして、おもむろにフードを脱ぐ。
この部屋には、ジゼルと先ほどの女性しかいないので、もうフードをかぶっている必要はないのだ。
「さぁ、ジゼル。座ってちょうだい」
「えぇ、エルミーヌ」
店頭でのやりとりとは違って、気安い会話を交わす。
彼女エルミーヌは、この薬問屋の跡取り娘であり、ジゼルの友人だった。
ちなみにジゼルと同い年で既婚二児の母である。
行李から薬を出して並べ、エルミーヌに確認してもらう。
「はい。確かに。注文通りね。この後、用がなければお茶を飲んでいってよ」
受け取りの署名をした書類を手渡して、エルミーヌが誘ってきた。
ジゼルも否やはない。
「そうさせてもらおうかな」
エルミーヌが他の店員を呼んで納品した薬を持って行かせ、ついでとばかりに茶も頼む。
茶を飲みながら他愛もない世間話に花を咲かせた後、エルミーヌがにやにやと笑って切り込んできた。
「そういえば、すごい美男子の弟子をとったんだって?」
美味しい茶菓子に舌鼓を打っていたジゼルは、一気に苦い顔になった。
「なに? もうエルミーヌの耳に届くほどの噂になってるの?」
「魔術師協会へ届けを出しに行ったんでしょう? うちは他の魔術師とも取引あるからね」
そういえば、初日に多くの目撃者を出していたと、今更ながら思い出した。
「なるほど。その線か」
「そう。……ダニエルと別れたって聞いたけど、元気そうで良かったわ。その新弟子のおかげかしら?」
言葉とは裏腹に、エルミーヌの視線には気遣う色が見えている。
ジゼルは肩をすくめた。
「弟子は弟子だからね。手を出してはいないよ。……まぁ、弟子へ教える準備で失恋を引きずる暇がなかったのは良かったけど」
ジゼルが二年付き合ったダニエルと別れたのは、フェリクスがゴドフロワに連れてこられる前日のことだった。
「ダニエルのことは、私も父も、責任を感じてるのよ」
エルミーヌが目を伏せた。
ジゼルは首を横に振る。
「そりゃあ、ダニエルはこの問屋の元店員だけどさ、もう半年以上前に独立してるじゃない。エルミーヌも大旦那さんも責任を感じる必要はないでしょ」
「……別れた原因って、ダニエルの借金でしょう? 店の経営についても仕込んだつもりだったけど、まさか半年で傾けるとは思わなかったわ」
「まぁね。お金を貸して欲しいって言われて、断ったのが発端ではあるけどさ。店の経営うんぬんというか、『旦那さん旦那さん』と持ち上げられて寄ってきた悪い仲間に誘われて、賭事にハマちゃったみたいなんだよね」
「賭事には手を出すなって、うちできつく言い聞かせてたのに!」
エルミーヌが険しい顔をする。
「乗せられたダニエルが馬鹿なだけだって。もうあんなやつに未練はないよ。別れ際に捨て台詞を散々吐かれたからね」
そりゃあもう、吝だの守銭奴だの、いつも婆くさい臭いがして閉口しただの地味不細工だの、好き放題に罵られたのだ。
あんなヤツと付き合っていただなんて、人生の汚点である。
「そうなの!? そんなヤツだと見抜けなくて、本当にごめんなさい」
エルミーヌが頭を下げた。
慌てたのはジゼルである。
「いや。見抜けなかったのは私も同じだって。頭を上げてよ」
「本当にごめんね。今度のラ・ブリュショルリの新作公演おごるから、ぱぁっと憂さ晴らししましょ」
「え、いや、それは悪いって。ちゃんと自分で払うよ」
「いいのいいの。それにおごるのは初回だけよ。良い公演だったらもう一度観に行くのに付き合ってね。家族は同じ公演を何度も観る気持ちが分からないって言うのよ」
エルミーヌの気遣いに、ジゼルは微笑む。
「ありがとう。もちろん付き合うよ。舞台は生物だもの。新人俳優の演技が公演中にもどんどん良くなって行くのとか、見物だよね」
「そう! そうなのよ! さすがジゼル。分かってるわ!」
「今度の新作は、思わせぶりな予告をしてるみたいなんだけど、見た?」
「あれね。張り紙を見たわ。面白い演出をするみたいで楽しみよね」
「そうそうそれでさ」
どっぷりとハマっている趣味の話となれば、不愉快な男の話題などどこかへ吹き飛んでしまう。
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