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第一章

07.亡き老魔術師の贈り物 後編

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 光が消えた魔術陣を見つめるフェリクスの目が潤んでいる。
「お師匠様は……どうして合い言葉が分かったのですか。私には、まったく見当も付かなかったのに……」
そう言って、フェリクスが悔しげに口を引き結んだ。
伝言は間違いなくフェリクス宛だったのだから、そう気にすることもないだろうと思うが、こういうことは理屈ではないのだろう。
ジゼルは刺激しないように、さらりと答えた。
「魔術師をやっていると、勘が働くようになるからね。フェリクスとの会話から拾っただけだよ。ちなみに、合い言葉は『魔術のおじじ様』だった」
「あ……」
フェリクスの双眸そうぼうから、止めどなく涙があふれ出した。
「くっ、……ずず、すみまぜんっ」
食堂に、フェリクスの嗚咽おえつが響く。
ジゼルはハンカチを差し出し、優しい微笑みを浮かべた。
「バラデュール翁は、フェリクスのことをとても可愛がってくださっていたのね」
「ありがとう、ございます。うぅ、はい……。おじじ様は、お優しい方で、うっ、本当に、よくしてもらって……ぐすっ。……情けない、とこ、ろを、うぅ、お見せして……」
ハンカチで目頭を押さえながら、フェリクスがかすれた声を出す。
うつむくフェリクスに、ジゼルは首を横に振った。
「あなたの最初のお師匠様が、あなたを想って言葉を遺してくださったのだもの。感情が高ぶるのも無理はないよ」
「最初のお師匠様?」
フェリクスはきょとんと、涙をたたえる瞳をジゼルに向けた。
ジゼルは大きくうなずく。
「掟には反したけれど、魔力の練り方を教えてくださったのはバラデュール翁でしょう? なら、フェリクスの最初の師匠はバラデュール翁で間違いないと思うよ」
「!! はい」
フェリクスが、くしゃりと整った顔を歪めて泣き笑う。
ジゼルは立ち上がり、フェリクスの肩をぽんと叩いた。
「お茶を淹れるよ。ノートは一旦、棚の上にどけるね」
「あ、ノートは私が」
「うん。よろしく」
台所へ向かい、水を入れた薬缶やかんを魔導式の焜炉こんろにかけた。
湯が沸く間に棚の紅茶の缶に手を伸ばしかけ、思い直して保存庫から密閉した瓶を持ってくる。
ポットに瓶の中身である乾燥させた葉を小さなスプーンで二杯入れ、お湯を注いで蒸らす。
「気分を変えるには甘いもの、っと。何かあったっけ?」
台所を見回すが、生憎、茶請けになりそうなものは切らしていた。
どうしようかと考えていると、目の端に小瓶が映る。
「そうだ。これを入れよう」
とっておきの華やかな花の絵付けの白い磁器に、茶漉しで越しながらポットの中身を注ぐ。
小瓶の中身を少しだけ溶かし混ぜれば完成だ。
「お待たせ」
盆に乗せて食堂に戻ると、テーブルの上は綺麗に片づけられていた。
フェリクスの目はまだ赤いが、涙は止まったようである。
恥ずかしそうに身を縮こませているフェリクスの前に、ティーカップを置く。
香水薄荷コウスイハッカの香草茶だよ」
「ありがとうございます」
ジゼルも席に座り、香草茶を一口飲んだ。
爽やかな柑橘類に似た香りと、優しい甘みが口の中に広がる。
「かすかに甘いですね。飲みやすいです。香草茶はもっと癖があって飲みにくいものとばかり……」
同じく香草茶に口をつけたフェリクスが、少し驚いた顔をする。
ジゼルはふふと笑った。
「もともと香水薄荷には甘みがあるんだけど、今回はさらに蜂蜜をちょっと入れたからね」
「あぁ、それで」
フェリクスは得心がいったふうにつぶやき、尋ねてくる。
「魔術師は、香草茶も扱うのですか?」
「街の魔術師は香草茶も扱うことが多いかな。病気になる前に予防するのも大事だから。その辺りも順に教えていくよ」
「はい。お願い致します。……ちなみに香水薄荷にはどのような効果があるのでしょうか?」
フェリクスの顔は、すっかり探求熱心な弟子のものになっていた。
「主な効能は、疲労回復、安眠効果、食欲増進、気分をくつろがせる、だね」
「あぁ……お気遣い、ありがとうございます」
フェリクスが深く頭を下げる。
ジゼルはからからと笑った。
「弟子の面倒をみるのは、師匠にとって当たり前のことだよ。それに多少の下心もあるし」
「下心、ですか?」
フェリクスが、わずかに身構えた。
ジゼルはそれに気づかないふりをして、話を続ける。
「バラデュール翁の蔵書や研究ノート、魔術を教える月謝を免除するから私にも読ませてもらえないかな? いや、月謝を免除した上で貸し出し料も払うから」
ジゼルはお願いと手を合わせる。
フェリクスが目を丸くして、片手を振った。
「いえいえ。今の私には宝の持ち腐れですから、お師匠様に読んでもらった方がおじじ様も喜ぶでしょう。月謝はお支払いしますし、お師匠様からお金はとれません」
「いや、駄目だよ、フェリクス。その辺りをなあなあにしちゃ、つけ込まれるよ」
「お師匠様は、そのようなお方ではないでしょう」
フェリクスの言葉に、ジゼルは眉をつり上げる。
「買いかぶりが過ぎる。私はそんな善人じゃあない。まだ合計したら出会って丸一日くらいなんだから、いくら師匠だからって簡単に信じちゃ駄目だよ」
ジゼルが説教するが、フェリクスはにこやかに笑って応じた。
「はい。ですが、我が従兄レオナールも、魔術師協会のラサーニュさんも、お師匠様が信頼に足る人物だから私を託したのでしょう?」
「それは……買いかぶりだもの」
ジゼルは気まずげに目をそらす。
「そうでしょうか? 私も短い中ですが、お師匠様の誠実なお人柄に触れて納得しましたよ。レオナールが何故、あなたの元へ私を連れてきたのか。私は紹介されたのがお師匠様で、本当に良かったと思います」
(うっ)
美丈夫の本気の微笑みは、破壊力が高い。
ジゼルのように地味に生きてきた人間には、効果が抜群過ぎる。
(はぁ、はぁ、落ち着け。こいつにそういう意図はないぞ)
雰囲気作りのローブであるが、こういう時には深いフードが役に立つ。
普段はジゼルからはフード越しでも見えるようになっている設定を、完全遮断に切り変えた。
これできらきらしいフェリクスの顔面を直視せずに済む。
「話を元に戻そう」
咳払いをして、ジゼルは棚から白紙の束とペンを持ってくる。
「意見の間をとって、月謝はもらうよ。そして、貸し出し料も払う」
さらさらと、一枚の白紙に相場の月謝料を書き込む。
中流階級の五人家族が一月の食費にかける程度の額である。
安くはないが、教材費等々込みの追加徴収なしなので、良心的な方だ。
あの手この手で追加徴収するがめつい魔術師も、中には居る。
期限はフェリクスが魔術師協会の魔術師資格を取得するまで。
この資格を取得すれば、一人前の魔術師として認められるのだ。
ジゼルの名を師として記し、その下に『弟子』と記す。
「はい。確認して良ければ署名して」
フェリクスの前に、契約書とペンを置く。
フェリクスは契約書をじっくり見つめてから、自分の名前を記入した。
「よろしくお願い致します」
「うん。よろしく。じゃあ、次にバラデュール翁の蔵書の貸し出し料についての取り決めね」
「いえ、それは本当に」
固辞こじするフェリクスに、ジゼルは強い口調で言った。
「馬鹿を言わないでちょうだい。私を弟子にたかる強欲師匠と噂させたいの?」
「そういうつもりはありませんが……」
「そういうつもりがないのなら、素直に受け取りなさい」
ジゼルはさらさらと白紙に貸し出し対象と月当たりの貸し出し料、破損紛失した場合の補償と、フェリクス側からいつでも契約を打ち切れる旨を記載した。
ぱらぱらと見たバラデュール翁の研究ノートだけでも、強気の条件を出せるだけの価値がある。
その他の蔵書を会わせれば、魔術師にとってどれだけの資産となるか。
もし、フェリクスがジゼルの他に貸し出す場合の見本となる可能性があることを考えると、内容に気が抜けない。
「こっちは後で魔術師協会で書面を確認してもらうけど、だいたいこんな感じでどうかな」
「いえ、こんなに頂けません」
「これは価値を正しく評価した結果なの。安過ぎればそれは知識に対する冒涜になる。というか、内容次第ではもっととっても良いのよ。……私に払える限界は、正直このくらいだけど」
記した金額は、月謝の倍額だ。
ジゼルは自営業者としては安定した経営が出来ているが、そこまで羽振りが良いわけでもない。
にらみ合うこと数瞬、ジゼルが引かないと早々に判断したフェリクスが諦めきった息を吐いた。
「分かりました。有り難く受け取らせて頂きます」
「えぇ。そうしてちょうだい。あと、あなたの家、防犯対策に魔術を施しても良い?」
この手の価値がある物の話は、すぐに漏れる。
盗人の餌食にならないよう、対策が必要だ。
「はい。願ってもないことです。見学させて頂けますか?」
「うん。解説付きで見せてあげるよ。あ、間違ってもまだ試したりしないように。私の許可なく魔術の行使は禁止だからね」
「心得ました」
ジゼルが念を押すと、フェリクスは素直にうなずく。
が、どうもわくわくそわそわしている。
まるで祭りの朝の子供のようだ。
よほど魔術が見られるのが楽しみらしい。
(防犯の魔術って、あんまり派手じゃないから、がっかりするかな? まぁ、現実を知るのも修行のうちだからね)
「じゃあ、フェリクスは先にノートを持って帰って待っててくれる? 私は準備をしてから行くから」
「はい! ではお先に失礼します」
ジゼルであれば数回往復する量のノートを手早く紐でまとめ、ひょいと持ち上げると、フェリクスが食堂を出て行く。
それを微笑ましく見送って、ジゼルも立ち上がる。
バラデュール翁の蔵書はフェリクスの資産であるが、ジゼルにも恩恵があるものだ。
ジゼルが出来る限りの術を施してやろう。
魔術薬を作る作業も嫌いではないが、繊細な魔術を紡ぐのもジゼルは好きだった。
「さぁて、媒介になる魔石、奮発しちゃおうかなぁ」
ティーカップを片づけたジゼルは、うきうきとした足取りで作業部屋へと向かった。
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