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第一章

05.亡き老魔術師の贈り物 前編

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 結局、フェリクスがムエットへ戻って来たのは、八日後のことだった。
「思ったより荷が重く、遅くなりました」
荷馬車を貸し家の庭に入れてすぐに挨拶に来たというフェリクスは、少しくたびれた様子だ。
工房の玄関で彼を迎えたジゼルは、フード越しに心配そうな目を向ける。
「大丈夫? 道中ちゃんと休んだ?」
「はい」
「本当は?」
突っ込んで聞くと、胡散臭いほど爽やかな笑みを返された。
「フェリクス」
低い声で名を呼ぶ。
ジゼルには王子様然とした笑みは効かないのだと、学習してもらわねば困る。
しばしの根比べの後、観念したフェリクスがへにょりと眉を下げた。
「行きは、本当に休みました。……帰りは荷が心配で荷台で仮眠を」
「なるほどね」
ジゼルは腕を組み、そう返した。
同行者が居るならともかく、一人で荷を運ぶならばそれも致し方ない。
他国に比べれば治安が良い方であるが、盗人が皆無ということはないのだ。
「理解はした。今はいいの? 庭に入れただけなんでしょう?」
「この距離であれば、起きていれば異変に気付けます」
なんということもなさそうに、フェリクスが言う。
工房の玄関から貸し家の庭までは、大声ならともかく普通の物音が聞こえる距離ではない。
(……やっぱり二十四で二等騎士になるような奴は普通じゃないわ)
これ以上そのことに言及すると目の前の弟子が人間に思えなくなってくるので、ジゼルは話を変えることにした。
「荷台から下ろすの、手伝いに行こうか?」
お節介かもしれないと思いながら、疲れている様子のフェリクスに尋ねる。
フェリクスは頬を緩めて答えた。
「ありがとうございます。荷下ろしはともかく、見て頂きたいものがありますので、ご足労願えますか?」
「見てもらいたいもの?」
首を傾げながらも、フェリクスについて裏の家へ向かう。
貸し家の庭には、荷馬車とそれから外されて物干し柱に繋がれた馬が居た。
馬は水と飼い葉を与えられて、のんびり食べている。
なかなか立派な馬と荷車だが、まさか買ったわけではあるまいと思い尋ねる。
「ご実家のを借りたの?」
「いえ、ムエットに支店を持つ知り合いの商人に借りました。荷を下ろしたら支店に返しに行きます。本が多くて、馬も頑張ってくれましたから、労ってもらえるように色をつけて返さないといけませんね」
フェリクスの視線につられて荷馬車の幌の中を覗くと、布に包まれ紐でくくられた山がいくつもあった。
他の荷はほんの僅かだ。
「これ、全部本?」
「えぇ。魔術のおじじ……バラデュール翁の形見分けでもらったものです」
「バラデュール翁の蔵書!? すごい! フェリクス、良いものを頂いたね!」
興奮したジゼルは、フェリクスの肘をばしばし叩く。
その食いつき具合に、フェリクスが首を傾げた。
「それほどのものでしょうか?」
「それほどのものだよ。見てみないとはっきりとは言えないけど、魔術師の蔵書は財産そのものだもの。もちろん、魔術だって日々研究が進んでるから最新の学説を知るのは大事だけど、それまでの研究の積み重ねも大切だし」
「そうなのですね。私には読めない文字で書かれているので、どのような内容かは分からないのですが」
「魔術の本は暗号で書かれているようなものだからね。これから覚えれば良いよ。共通の文字を覚えれば、だいたいは読めるから。ただ、学会で発表するまでは独自の文字で書くこともあってね。本人だけか、研究を手伝う直弟子くらいしか読めないの」
「研究を盗まれないように、ですか?」
「そう。優れた研究には協会から報奨金が出るんだ。それ目当てで他人の研究を横取りする輩も中にはいる。恥知らずがね」
ジゼルが吐き捨てると、フェリクスも顔をしかめた。
「嘆かわしいことですね」
「……幻滅した?」
魔術師に多大な憧れという名の幻想を抱いているらしいフェリクスに問いかける。
フェリクスは首を横に振った。
「魔術師も人間だというだけでしょう。世の中には善人も悪人も居る。私が悪人にならなければ良い話です」
ジゼルはフェリクスの答えに面食らう。
「達観してるね」
「騎士団で揉まれましたので。人が集まればいろいろあります」
フェリクスが苦笑する。
「そうだね」
と、うなずきながら、やはり人間力で負けている気がするジゼルである。


荷下ろしも結局、フェリクスがさくさくと終わらせてしまった。
分厚い筋肉は見かけ倒しではないようだ。
あの重たい本の固まりをひょいひょい主寝室の隣の部屋に運び入れて、ジゼルが手伝う隙などない。
ここに来た意味が分からず、ぼんやりとフェリクスの服の上からでも分かる腕の筋肉の盛り上がりを眺めるだけでは手持ち無沙汰だ。
「……私、なんで呼ばれたんだっけ?」
飽きてきたジゼルは、工房から人参を持ってきて馬に差し出した。
バリボリ人参を食べる馬はジゼルの問いかけに『さぁ?』と目を瞬く。
「お前、賢い子だね」
太い四肢にがっしりとした体躯の荷馬は、性格も良かった。
人参を食べ終わった後は、大人しく撫でさせてくれる。
ジゼルが馬とたわむれていると、荷を部屋に入れ終えたフェリクスが庭に戻ってきた。
「お師匠様、お待たせしてしまって申し訳ありません。お見せしたかったのは、これです」
差し出された本を、反射的に受け取る。
「……『おいしい紅茶の入れ方』?」
「あ、そう読むのですね。私には表紙の字も読めなかったのですが、子供の頃にバラデュール翁から頂いたものです。魔術を習うなら役立つだろうと渡されたのですが、おじじ様の茶目っ気だったのでしょうかね」
ほのぼのとした雰囲気で昔を思い出しているフェリクス。
ジゼルは「へー。バラデュール翁から」と相槌を打ちながら、表紙をめくる。
「………………」
その本を読み進めていくうちに、ジゼルの顔色が変わった。
「…………ちょ、ちょっと待って、いや、えっ、うそっ……待って!」
「お師匠様?」
ジゼルの尋常ではない様子に、フェリクスがいぶかしげな表情を浮かべる。
ジゼルは本を閉じると、辺りをはばかって声量を落とした。
「フェリクス。あなた、とんでもないものをもらったね」
「とんでもないもの、ですか?」
戸惑うフェリクスに、ジゼルは慌てて言葉を足す。
「あ、もちろん、悪い意味じゃないの。すごいものって意味で……いや、すごいわ。これはすごいよ」
ジゼルは興奮して、語彙が消滅していた。
「と、ともかく。落ち着いて、これについて話したいんだけど……」
本をがっちり抱えて、ジゼルはフェリクスを仰ぎ見る。
「分かりました。私としてもお話をお聞きしたいのですが……」
ぶるるるる。
馬がいななき、つぶらな瞳でこちらを見ていた。
「あぁ、うん。馬と馬車を返して来ないといけないね。分かった。返し終わったら工房へおいで」
「はい。すぐに戻りますので、本はそのままお師匠様が持っていてください。では行って参ります」
馬を荷馬車につなぎ直して、フェリクスが庭を出て行った。
ジゼルも工房へ戻って、一階の食堂へ向かう。
土間の台所と一部つながっている食堂は、応接室とは違い私的な空間だ。
魔女らしい道具はすべて仕事部屋に置いてあるので、四人掛けのテーブルが据えられ壁にはジゼルが刺した刺繍が飾ってあるような、至って普通の食堂である。
布巾でテーブルを丁寧に拭き直し、『おいしい紅茶の入れ方』を置く。
椅子に腰掛けたジゼルは、頬杖をついてしみじみつぶやいた。
「いやぁ、フェリックスってば、本当にバラデュール翁に可愛がられていたのね。なんていうか、こんなに愛された子を弟子にするって、責任重大だわ……」
ぎしり。
背もたれに寄りかかり、目を閉じた。
会ったこともない老魔術師の優しい眼差しを幻視する。
本当ならば、バラデュール翁が直々に弟子にしたかったのだろう。
従弟にはばかって、このような形でしかその想いを残せなかった。
その想いを繋ぐのが自分で良いのか、という迷いがある。
(やっぱり、もっと指導経験豊富な魔術師に引き継ぐべきじゃ……)
ジゼルの師匠からは、ジゼルが弟子を得たことへの言祝ぎと、一度紹介してという返事をもらっている。
師匠ならば、たくさんの弟子を育てた実績がある。
兄弟子の一人は、宮廷魔術師にまでなっている。
ムエットに囲いたいラサーニュの思惑とは外れることになるが、その方がフェリクスのためではないか。
「……いや、私が重荷を投げ出したいだけ、か」
バラデュール翁の贈り物は、ただの口実だ。
ジゼル自身の不安を転嫁しているだけだ。
「この歳にもなって、本当に嫌になるわ。逃げたってどうしょうもないのになぁ」
フェリクスほど素直に話を聞く弟子も珍しい。
自分や兄弟弟子の態度を思い出しても、師匠の手を焼かせた記憶がある。
あれほど教えやすそうな成人男性を指導することを投げ出して、人格形成も終わってない子供の指導が出来るものか。
今更尻込みするくらいなら、ジゼルもフェリクスも得をすることを考えた方が、よほど有益だ。
ちりんちりん。
玄関の呼び鈴が鳴った。
思ったより早いが、フェリクスが荷馬車を返して戻ってきたのだろう。
「さて、どう話をしようか」
ジゼルはあごに手を当てながら、玄関へ向かった。
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