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第一章

F01.前日譚 王都にて

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 色とりどりの花びらが宙を舞い、空には二重三重に虹がかかり、緑鮮やかなこずえに止まる鳥が祝福をさえずる。
庭の隅に建てられた小屋の周りには、楽園のような美しい光景が広がっていた。
せがんで見せてもらった魔術に、幼子は目を輝かせる。
「お誕生日おめでとう、フェリクス」
優しく笑う老爺が、フェリクスには読めない字で書かれた本を差し出した。
それを受け取ったフェリクスが首を傾げて見上げると、老爺は笑みを深くして彼の頭を撫でる。
「今はまだ読めないだろう。それは魔術師にしか読めない本だからね。でもいつか、フェリクスが魔術師になろうとしたのなら、それは君の役に立つはずだ」
フェリクスは本を抱えて、こくりとうなずく。
騎士になるよう祖父に定められているが、夢を諦めるつもりはない。
ぷっくりと愛らしい唇を引き結び、幼い顔に似合わぬ熱い炎をその瞳に宿していた。
「どんなに遠回りをしたって、僕は絶対に魔術師になります」
強い決意に、老爺が目を細める。
「強くおなり、フェリクス。強く、優しく。剣技も無駄にはならない。鍛錬を怠らなければ、道は自ずと開かれる」
その言葉を支えに、フェリクスは生きてきた。
子供のうちに弟子入りしなければ魔術師になれないと知ってなお、諦めずにただひたすら祖父の出した条件を達成するために。
やがて時は流れ、その時はやってきた。


王都騎士団の会議室の一つで、二人の男が向かい合っていた。
二等騎士の免状を受け取ると同時に差し出した退団届に、奥に座る隊長が眉を寄せる。
「本当に騎士団を辞めるのか? バラデュール」
「申し訳ございません。マイヤール隊長」
フェリクスは深く、頭を下げる。
「ここまでお引き立て頂いたご恩を仇で返すことになりますが、私の気持ちは入団時から変わりません。二等騎士の試験に合格しましたので、騎士を辞めます。お世話になりました」
頭を上げないフェリクスに、マイヤールは大きなため息を吐いた。
「お前の人物評価には、確かに入団時からそう言っていたとは書いてあったがね……」
フェリクスは一年前、マイヤールが指揮する部隊に配属された。
マイヤールの采配は確かで、性格も悪くない。
とても頼りになる上司だった。
二等騎士に合格したばかりで辞めては、上司としてのマイヤールの評価に悪影響であるとは理解していたが、退団を撤回するつもりはない。
「頭を上げろ、バラデュール。……辞めた後はどうする?」
「魔術師に弟子入りします」
即答したフェリクスに、マイヤールが「そうか」とつぶやき、何やら思案顔になった。
その間が不安を呼ぶが、少なくともすぐに『無理だ。諦めろ』と言われなかったことにフェリクスはほっとしていた。
「…………………………………………ブランセルに、縁故のある魔術師へ紹介状を書いてくれるよう、頼んでやっても良い」
苦虫を噛み潰したような顔で、絞り出すようにマイヤールが言う。
マイヤールの同期で別部隊の隊長を務めるブランセルは、魔術と剣術の二刀流で著名だ。
魔術師への伝もあるだろう。
だが、王都騎士団内でマイヤールとブランセルが犬猿の仲であることを知らぬ者はモグリである。
それを押して頼んでくれるというのだから、やはり面倒見が良い人だと思う。
「ありがとうございます。重ねてご迷惑をおかけ致しますが、よろしくお願い致します」
フェリクスは、なんとしてでも魔術師になりたかった。
どんな伝でも、縋らずにはいられない。
「分かった。ブランセルに頼んでみよう。……退団手続きも進める。戻って来たくなったら言え。また扱きつかってやろう」
「ありがとうございます」
くつくつと笑うマイヤールに、フェリクスはもう一度頭を深く下げた。


結果から言うと、ブランセルは紹介状を書いてくれたが、その相手の魔術師は紹介状を読んでくれたものの、フェリクスを弟子にしてくれることはなかった。
「諦めなさい。魔術師は遅くても十歳になるまでに修行を始めるものです。君は魔術師にはなれない」
素質を見ることもなく、追い返された。
その後他の魔術師のところへ回った時は文字通りの門前払いだったから、会って断ってくるだけ、紹介状の効果はあったのだろう。
王都の魔術師協会本部へも出向いたが、結果は同じだった。
皆、口を揃えて『魔術師にはなれない。諦めろ』と言う。
退団して一月あまり。
さすがのフェリクスも鬱屈していた。
騎士団の寮を出てから仮住まいしている下町の宿で、足を伸ばすとはみ出る寝台に陰鬱な顔で寝転がる。
フェリクスとて、そう簡単に行くとは思っていなかった。
ただ、魔力の有無も視ずに断られるとも思っていなかった。
まったく魔力も素質も欠片もないというのなら、まだ諦めはつく。
しかし、一欠片でも希望があるのならば、進まずにはいられなかった。
「誰か、形式だけでも弟子にしてくれる魔術師はいないものか……」
魔術は独学では学べない。
魔術師協会が厳しく管理しているし、魔術に関する書物は一般人が分かるようには書かれていない。
必ず、魔術師の弟子になる必要があるのだ。
ただ、魔術師といっても、ピンからキリまで居る。
金で転ぶ者も、中には居るだろう。
不本意ではあるが、最終手段としてはそれも考えなくてはなるまい。
「最低限、魔術文字を教えてもらえれば良いのだが」
段々と思い詰めてきたおり、従兄のレオナール・ゴドフロワから手紙をもらった。
レオナールの母はフェリクスの父の姉であり、フェリクスの母とも仲が良い。
おそらく、その線から話が漏れたのだろう。
レオナールが居る湊都市ムエットへ来ないかという誘いだった。
手紙には、フェリクスが本当に王都騎士団を辞めたことに驚いたこと、素質だけでも視てくれそうな魔女に心当たりがあること、魔術の才能がなければ、ムエット地方騎士団で働かないかと書かれていた。
マイヤールは駄目だったら戻って来いと言ってくれたが、さすがのフェリクスも出戻りは精神的にきつい。
レオナールの申し出は、魅力的に思えた。
「ムエット、か」
麗しの南洋都市。フェリクスも演習で一度行ったことがあるが、宿舎で出た夕飯の魚が美味かったことくらいしか覚えていない。
「いや。動機としてはそれで十分、か」
王都では引き受けてくれそうな魔術師は、もう当たり尽くしてしまった。
どうせ地方に足を向けるのならば、他に益がある方が良い。
そうと決まれば、とフェリクスはレオナールに返事を書いた。
最後まで書き終えてペンを置いたフェリクスの瞳に、一瞬暗い陰が過ぎる。
「ムエットでも見つからなければ……。いや、別のめぼしい都市を回った後だな。諦めるのは、最後の最後にしよう」

そして、フェリクス・ジャン・バラデュールは、湊都市ムエットで運命の魔女と出会う。
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