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本編

19.警戒しましょう

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 夕暮れの騎士団詰め所は、雑然とした雰囲気に包まれていた。
朝番と夕番の隊員が入り交じり、引継だなんだと皆忙しく立ち回っている。
クロエも例外ではなく、夕番の隊への引継書を持ち、きびきびとした足取りで廊下を進んでいた。
隊部屋は皆だいたい同じ並びにあるのだが、一旦別棟にある研究室に顔を出していたので、そこから戻る途中なのだ。
もう少し余裕を持って戻りたかったのだが、予想外に用事が長引いてしまった。
引継書を持って出たのは正解だった。
クロエの隊部屋より引継先の隊部屋の方が、研究室に近い。
この時間帯しか研究室に行けなかったのはクロエ側の都合とはいえ、引継時間に遅れるわけにはいかない。
今日は特段大きな事件はなかったが、持ち場の地域で空き巣にあったという通報が何件も寄せられている。
捜査はもちろんのこと、今後居直り強盗に発展する可能性もあるので、住民への注意喚起と見回り強化が必要だ。
引き継ぐ内容と今後の段取りの考えをまとめながら歩いていたクロエは、前方からやって来る人物の姿を見つけ、露骨に眉をしかめた。
社会人にあるまじき態度だが、相手も嫌そうな顔をしているのでお互い様だろう。
「まぁ、マイヤール。今月はあなたの隊は夕番だったかしら」
「あぁ、君の所は朝番だったな。ブランセル」
廊下の端で二人は足を止め、ともすれば嘲笑ととられそうな表情を浮かべた。
あるいは、獰猛な野生動物の威嚇のようだ。
二人が犬猿の仲というのは騎士学校時代から周知のことで、他の団員たちは二人の近くを大きく避けながら、『またやっている』程度の認識で通り過ぎていく。
稀にぎょっとした顔をしているのは、まだ入団して年の浅い新人たちだろう。
そういう者たちも他の先輩に『気にするな』と言われて、足早に去って行く。
クロエとマイヤールは、そんな周囲には目もくれず、いつものごとく嫌み合戦を繰り広げていた。
「夕番だと昼間にあの子と会える時間が増えて良いわね。あぁ、ごめんなさい。あの子はあの子で忙しいから、そうそう会えないのだったわね。助手として学院に残れることになったと聞いたわ。もちろん、本人の口から、ね」
うふふふふ、とクロエはわざとらしく笑う。
マイヤールはこめかみを引きつらせて、クロエを見下ろした。
「あの子は優秀だからね。もちろん、僕だってあの子から直接話を聞いているよ。君より、前に、ね。当然だろう? 僕の方が君よりあの子に頼られている」
「あら、まぁ。そこまで必死になるなんて、かえって怪しくてよ?」
クロエの安い挑発に、マイヤールは乗らなかった。
一呼吸おいて、にやりと笑う。
こういう食えないところが、本当に嫌いだ。
顔をしかめるクロエを鼻で笑ってマイヤールが言う。
「僕たちのことより、自分たちのことを心配した方が良いな。特に夜道には、よくよく気を付けた方が良い」
「……耳の早いこと。えぇ、ご忠告ありがとう。そうさせてもらうわ」
クロエは内心舌打ちしながら、にっこりと笑った。
クロエに脅迫状が届いたのは昨日のことだが、早速マイヤールの耳に届いていたらしい。
自分から言いふらしてはいないし、脅迫状を開いた時にいた部下たちには口止めしていたが、人の口に戸は立てられない。
上層部には念のため報告をしていたから、その筋かも知れない。
この男はこれで様々な方面に太い人脈を持っているのだ。
マイヤールがふと、窓の外に目を向けた。
クロエもつられて外を見る。
交代の時間の為に閑散とした訓練場が、赤く染まっていた。
陽が落ちきるのに、あと幾許いくばくもない。
マイヤールは視線をクロエに戻し、軽薄に笑った。
「特に今日は新月だからね。闇討ちには、もってこいの夜だろう」
「ではさっさと引継を終えて、早めに帰ることにするわ。あなたとの無駄なおしゃべりは切り上げてね」
クロエはうんざりだというように肩をすくめた。
マイヤールが露骨に顔をしかめる。
「声をかけてきたのは君の方だろう、ブランセル」
「挨拶は人として当たり前のことでしょう、マイヤール」
一瞬のにらみ合いの後、二人は同時にふいっと目をそらした。
そのまま別れの挨拶もなく、二人は同時に反対方向へ歩き始める。
「お前らは相変わらずだな。仲が悪い割にお互いの機微を読むのが上手い。お互いの事情もよく知ってるみたいだしな。いや、本当は仲が良いってオチか?」
後ろからかけられた声は、聞き覚えのあるものだった。
クロエは歩みを緩めずに、ちらりとそちらをみる。
早歩きのクロエの横に並んだのは、カレールだった。
この同期は、クロエとマイヤールのやりとりを一部始終見ていたらしい。
にやにやとした不快な表情を浮かべている。
クロエは露骨に嫌そうな顔をした。
カレールとは仲が悪いわけではないが、マイヤールとのことを揶揄されるのは勘弁して欲しい。
クロエは吐き捨てるように言った。
「あれの弱点を探る為にいろいろ調べているから知っているだけよ。あちらも同じでしょう。仲が良いってオチ? 気持ち悪いことを言わないでちょうだい」
「喧嘩するほど仲が良いって言うもんな」
「違うと言っているでしょう。いい加減にしないと怒るわよ」
クロエが横目でにらむと、カレールはひょいっと肩をすくめた。
引き際は心得ているらしい。
(まったく。同期なのだからマイヤールとの確執は昔から知っているくせに。からかわないで欲しいものだわ)
くだらないやりとりをしているうちに、引継先の隊部屋前まで来ていた。
足を止めたクロエは、懐中時計を取り出し時間を確認する。
どうやら間に合ったようだ。
ほっと息を吐いたクロエに、カレールが恭しい動作で部屋の扉を開いた。
「どうぞ、ブランセル隊長」
ふざけた言動にカチンと来たが、相手の部屋の前で、しかも扉も開いているのに怒鳴りつけるわけにはいかない。
クロエは若干ひきつった笑みを浮かべて礼を言った。
「どうもありがとう。カレール副隊長」
「いえいえ。どういたしまして」
クロエが部屋に入ると、四十間近の男性が苦笑を浮かべて立ち上がった。
引継先の隊長だ。
「うちの副隊長がすまないね」
「いえ。大丈夫です。バルテミー隊長」
何が大丈夫かは分からないが、そう答えるほかない。
勤務時間の最後でどっと疲れたような気がするが、この引継が終われば帰れるのだ。
クロエは気持ちを切り替えて、引継書をバルテミーへ差し出した。


いかに王都といえど、陽が落ちた後の住宅街は暗い。
魔導灯が普及し出している昨今ではあるが、街灯の数はほんのわずかだった。
おまけに今日は新月。
月のない夜は、家々のカーテンの隙間から漏れる弱い光だけが頼りだ。
そんな日に手持ちの明かりもなく一人歩きする物好きは普通いない。
それなのに灯りもなく小走りで行く陰が一つあった。
クロエだ。
やろうと思えばクロエも灯りくらい魔術で出せるのだが、ある程度夜目の利くクロエは闇に紛れる方を選んだ。
自分の周りだけ明るいと明るさに目が馴染んで灯りの範囲外が見えず、何より的になりやすい。
(あの脅迫状がただの脅しで、こんなに警戒するのも杞憂で済めば良いけれど……)
引継に思わぬ時間がかかってしまったのは、予想外だった。
バルテミーは年若くして隊長職になったクロエのことを目にかけてくれており、有益な情報や指摘をくれるのは良いが、一旦その気になると話が長い。
特に今日は隊長としての心構えをしつこいくらいに説かれた。
これはクロエも悪かったのだが、引継書に誤字があったのだ。
クロエの失態である。それは認める。
ただ、所詮、誤字だ。
確かに事件の根幹にかかわる部分でも、捜査に影響のある部分でもなかった、というのは結果論と言えば結果論だ。
しかし、引継時間が終わっても、部隊指揮をカレールに任せてまで話が続くほどのこととも思えなかった。
カレールには目線で謝られたが、普段からこの説教の餌食になっているカレールには八つ当たりしにくい。
うんざりした内心を隠しつつ、反省した体で説教が終わるのを待つしかなかった。
自業自得とはいえ、よりにもよって新月の日の帰りに長時間の説教はないだろうと思いながら。
「リュカにも心配させてしまっているでしょうしね……」
クロエはぽつりとつぶやいた。
魔信なる通信魔導具が存在することはするのだがは、かなり大型の送受信機の為、王城や騎士団の詰め所、役所などの公共の施設にしか設置されていない。
最新の魔導具が惜しげもなく設置されているクロエの自宅にも、さすがに魔信の送受信機はなかった。
クロエは遣い魔を使う型の魔術師でもないので、帰宅が遅れるという連絡一つ送れていないのだ。
(これで私が精霊を見れたら、言付けをお願い出来るのだけど……無いものねだりだわ)
クロエに出来ることは、出来るだけ早く帰宅することだけだ。
足音をさせることなく、クロエは危なげない足取りで闇夜を駆けていく。
とりあえず、周囲の道に怪しい気配はない。
それでも慎重に、しかし素早く移動していたクロエは、頭上から何かが風が切る音がするのを聞き止めて、とっさに真横に跳び避けた。
その次の瞬間、クロエが進もうとしていた地点に、人の頭より大きい壷が落ち、派手な音を立てて砕け散った。
そのままの進路を行っていれば、クロエの頭の方が割れていただろう。
壷が飛んできたであろう上方を見回す。
辺りは住宅街で、多くの家は二階建て。
おそらくどこかの家の屋根から投げられたのではないかと思うが、見える範囲に怪しい陰はなかった。
耳をすましても、虫や風の音しか聞こえない。
魔術の気配もない。
クロエは忌々しげに舌打ちする。
現場を押さえられなかったのは痛い。
今から辺りを見回ったとしても、証拠がなければ捕まえられない。
「この壷が証拠になればいいけど、無理でしょうね」
割れているし暗いので確証はないが、容易く足のつく壷など投げないだろう。
しかし、このまま証拠品を捨て置くつもりもない。
相手が脅迫状の送り主であるか、それとも無差別に通行人を狙った愉快犯であるかは、現時点では分からないのだ。
壷の割れる音を聞きつけて手持ち灯を持って出てきた近くの住民男性に、近くの派出所へ行って当番の騎士を呼んできてもらえるように頼むと、二つ返事で走って行ってくれた。
クロエは現場の保全をしないといけなかったので、有り難い。
まだ、どこかの屋根の上に犯人が隠れているかも知れない。
クロエは油断なく周囲をうかがう。
野次馬の声や気配が邪魔だが、去れと言って去るものではないだろう。
しかし、これでますます帰りが遅くなることは請け合いだ。
(当番騎士が来たら一旦ここを任せて、一度家に帰れればいいのだけど……)
クロエは今日はとことん厄日だと、重いため息を吐いた。
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