17 / 39
本編
15.逃げ道を塞がれてみましょう
しおりを挟む
精霊王の住処は、広々とした庭園に荘厳な社、そしてこじんまりとした二階建ての一軒家で構成されている。
神秘的な雰囲気を漂わせている周囲からすると、この一軒家は少々浮いていた。
この家は精霊王が妻を見初めた後、建てられたものだという。
それまでの精霊王は社の方に暮らしていたが、農民の子であった妻が落ち着く家を、と彼女の育った家を参考に生家よりは少々拡張したものを造ったのだそうだ。
このくだりは、前回挨拶した際に出会いから今までに渡る壮大なのろけ話を聞かされつつ知ったことだ。
今回もその一軒家に案内され、食堂兼居間に通された。
クロエたちを椅子に座らせると、義祖母は「お茶を淹れてくるわね」と台所へと足を向ける。
クロエとリュカが手伝いを申し出たが、お客さんは座っていてと制されてしまった。
言われた通り大人しく待っていると、すぐに食器や小包丁を乗せた盆を持って義祖母が戻ってくる。
「お茶請けがお持たせで悪いけれど」
義祖母はにこにこ笑いながら手土産のチーズケーキを切り分け、茶を淹れてくれる。
クロエは礼を言って、紅茶を一口含む。
そしてほうっと息をついた。
「良い香りですね」
それなりに舌の肥えているクロエも、なかなか出会えない馥郁たる香り。
よほど質の良い茶葉なのだろう。
それに茶葉の良さを損なわず、丁寧に淹れられているのが分かる。
張っていた気も表情も緩んでくる。
ちらりと隣を見ると、リュカも幸せそうな顔をしていた。
目が合い、お互いの感想が同じであることがなんとなく分かった。
そんな些細なことがとてもこそばゆく、はにかむリュカも大変可愛らしい。
「ふん」
精霊王が茶に溶けきらずじゃりじゃりになった砂糖でも噛んでしまったような顔で鼻を鳴らした。
義祖母がくすくすと笑い、精霊王を視線でなだめる。
そっぽを向いてしまった夫に苦笑し、クロエたちの方へと視線を戻した。
「これはマリエルの婿さん……リュカの父親からもらった茶葉なのよ。とっておきのだと言っていたから、お客さん用にしてるの」
「取り入るのが巧い男だ」
精霊王が面白くなさそうにかぶせてくる。
わざわざそういうことを言うところが、心が狭い。
(精霊の性質なのでしょうけど、この辺りがリュカに引き継がれてなくて良かった……引き継がれてないわよ、ね?)
また新たなる疑問と心配が出来てしまったが、クロエはひとまずそれに気付かなかったふりをする。
今回ここに来たのは、リュカの不安を取り除くためであって、クロエの心配を増やすためではないのだ。
ひとしきりケーキに舌鼓を打ち近況を話し合った後、精霊王が「それで」と水を向けてきた。
「用があって来たのだろう。どうした?」
一見無愛想な精霊王だが、リュカに向ける視線は柔らかい。
クロエに向ける視線が鋭いつららならば、リュカに向けるのは真綿くらいの柔らかさだ。
完全にデレデレではないが、見る者が見ればとても可愛がっているのが分かる。
「その、お祖父様にお聞きしたいことがあって……」
「聞こう」
おそるおそる切り出したリュカに、精霊王が即答する。
リュカは背筋を伸ばし、尋ねた。
「どうやったら僕は成体になれますか?」
「一、二年の内に、と思っていたが……芳しくないのだな?」
リュカがこくりとうなずいた。
「どういうこと?」
義祖母が心配そうに眉をひそめた。
精霊王はうむ、と唸る。
「そもそも精霊が成体となるのは、それに見合うだけの元素を身の内に取り込めたという意味を持つ。元素の流れを司る準備が出来た、ということだな。この元素は樹木、草花、鉱物、清流、まとめて言えば自然だな。それらが多い所に元素は漂っている」
ここまでは知っているな、と精霊王が話を区切る。
クロエとリュカは揃ってうなずいた。
精霊王も軽くうなずいて、話を続ける。
「なのでラ・トゥールの屋敷はあの男に言って樹木・草花を多く植えさせ、池も造らせた。その上で我が聖域化し、元素を多く保てるようにしていたのだ。リュカは一番影響を受けるが、マリエルや他の孫たちにも元素はそれなりに必要なのでな」
「新居もお祖父様に聖域化してもらいましたよね?」
「あぁ。だが、やはり作り立てだ。まだ元素が足りぬのだろう。それでリュカに影響が出てきているのではないか」
「そんな! リュカに悪影響が!?」
クロエの顔からさっと血の気が引いた。
東の魔王から逃れる為とはいえ、自分と結婚してラ・トゥールの屋敷を出たのが裏目に出てしまったのだと青ざめる。
「ク、クロエさん! 落ち着いて!」
「そうだ。落ち着け、小娘。影響が出ていると言っても、死んだり病気になったりするわけではない」
二人になだめられ、クロエは深い息を吐いた。
どうにもリュカ関連のことでは、感情の振り幅が大きい。
冷静に、と自分に言い聞かせて、目を伏せた。
「申し訳ありません。取り乱しました。リュカもごめんなさい」
「いいえっ。僕のことを心配してくれたんでしょう? 不謹慎ですけど、嬉しいです!」
椅子を動かしたリュカがぴったりと隣にくっついてきて、えへへと笑う。
腕に感じる温かさに、クロエはほっとした。
義祖父母の家で何をやっていると理性は訴えているが、今は引き剥がす気になれなかった。
孫たちの仲むつまじい様子に、精霊王夫妻は対照的な顔をしている。
微笑ましそうにクロエたちを見ている精霊王の妻は、面白くなさそうな顔をしている夫に尋ねた。
「それで、リュカに影響って、具体的にどういうことなの?」
クロエははっと居住まいを正して精霊王に視線を戻した。
確かにどういうことなのかは、まだ聞いていない。
精霊王は平静な声音で言う。
「つまり、成体になるのが遅れているのだろう」
「やっぱり、ですか……」
隣のリュカが唸り、問いかける。
「そんな感じはしていました。このままだと、どのくらいで成体になれますか?」
「そうだな……こちらへ」
精霊王に招かれて、リュカが立ち上がる。
精霊王も立ち上がり、側に寄ってきた孫の額に手を当てた。
「……これは……」
精霊王が難しい顔で口ごもった。
義祖母とクロエの顔が曇る。
「どう、なんでしょう?」
リュカも不安げな表情になった。
精霊王はリュカの額から手を離し、ぐるりと首を巡らせて言った。
「……なんだ、小娘。まだリュカに手を出していないのか」
この甲斐性なしめ、という目で精霊王がクロエを見てくる。
今ここで何をいうのかと憤然とした気持ちを押し込めて、クロエは冷静に反論する。
「私に少年を手篭めにする趣味はありません」
「ふん。人の年齢としては成人だろう。それにリュカの同意があれば手篭めも何もなかろうに。一つ屋根の下に暮らせば自然と番うものと思っておったが、思った以上の堅物だったのだな」
ふぅ、とため息をついて物理的に見下されると、クロエの鉄壁な笑みもひくつくというものだ。
「……それが、何だとおっしゃるのですか」
低い声で問えば、精霊王はしれっとした顔で答えた。
「我も読み違えていたが、リュカに足らぬのは元素だけではなかった、ということだ」
リュカがいぶかしげな顔をする。
「どういうことですか、お祖父様」
「リュカは精霊の質を多く受け継いでいるようでいて、その実、四分の三は人の血だ。それで仕組みは精霊でも、必要な力が元素だけではなかったのだろう」
マリエルは元素だけで成体になれたのだがな。と精霊王がボヤく。
「何が足りないの?」
妻の問いに、精霊王は言葉を探すように間を置いて言った。
「人の生命力、生気、と言ったら良いか。そういうものだろう。通常の精霊は元素で補っている部分であるが、そこでリュカは人の生気を必要としている」
生気、と聞いて、クロエの表情は固くなる。
「……それは、人の血や肉を食らう必要がある、ということでしょうか?」
頭に浮かんだのは、妖魔の存在だ。
妖魔は他種の妖魔や人を食らうが、野生の獣や家畜は襲わない。
妖魔が妖魔同士の食い争いだけではなく、たびたび人里まで出てきて人を襲い食らうのは、人の持つ生気を欲しているからだと言われている。
もし、リュカが人を食らう必要があるのだとしたら、クロエはリュカを討てるだろうか。
リュカを、討たなくてはならないのだろうか。
騎士としての義務と私情の間で、クロエは揺れた。
背中に嫌な汗が流れる。
「いや。それで摂取出来ぬことはないが、わざわざそのような手段をとる必要はなかろう。妖魔でもあるまいし」
精霊王があっさりとクロエの懸念を否定した。
クロエは安堵の息を吐く。
膝においた手にも、嫌な汗をかいていた。
その手に、リュカが手を重ねて言った。
「僕、クロエさんになら、討たれてもいいですよ」
驚いてリュカの方を向くと、リュカは穏やかな笑みを浮かべていた。
「馬鹿なことを言わないで!」
「まったくだ。それに人の血肉を食らう必要はないと、今言ったばかりだろうが」
クロエと祖父から叱られて、リュカはへにょりと眉を下げた。
「はい……。でも、僕はクロエさんになら殺されても良いと思ったのは本気ですからね」
「余計悪いわ。嫌な覚悟や仮定をしないで」
クロエは両手でリュカの手を握り、厳しい顔で言った。
あらゆる事態を想定するのは騎士としての性であるし、実際にリュカが妖魔と同じになってしまったらと考えたのはクロエだ。
しかし、それを口に出すのと出さないのでは大きな差がある。
それに大した葛藤もなく、さらっと言わないで欲しい。
クロエは沸き上がった気持ちをそのまま口にする。
「私に、あなたを守らせて」
「はい! クロエさん! 大好きです!」
目をうるませたリュカが、勢いよく抱きついてきた。
椅子ごとひっくり返りそうになったが、なんとか耐えきる。
(……鍛えておいて良かった)
精霊王の前でみっともなく転がるのは、是非とも避けたい。
騎士のくせにと笑われたら、笑顔の仮面が剥がれ落ちる自信がある。
ほっとしつつ、クロエは離れなさいという意味を込めて、リュカの名を呼ぶ。
「リュカ」
「お祖父様。先ほどの話の続きですけど」
クロエの呼びかけを無視して、リュカは抱きついた状態のまま精霊王に話しかける。
「クロエさんが僕に手を出してないって話は、クロエさんをからかう目的ではなくて、僕の成体になる方法に関係があるから出されたんですよね?」
リュカはこてん、と首を傾げた。
仕草は可愛らしいが、目は笑っていない。
精霊王は疑われて心外だという顔で答えた。
「当たり前だ。我はそこまで下劣でも下品でもない」
「……え、と……つまり……」
クロエのひきつった頬に、一筋汗が流れる。
察しは悪くないと自負しているが、これは出来れば察したくなかった。
「わ、私に少年性愛の趣味は本ッ当にないのです。それに婚前に交わした契約でも子作り行為はしないと。私は騎士として、人として、誓いをやぶるわけには!」
「生気は体液の摂取や粘膜・皮膚のふれ合いで摂取することが出来る。挿入せねば契約にも接触せぬだろう」
「なっ」
クロエは口をぱくぱくさせて、助けを求めるように義祖母に目線を向けた。
義祖母はほんのりと頬を赤く染めて言った。
「あらあらまぁまぁ。リュカももう人の年齢としては大人ですものね。大人の階段を上っちゃうのねぇ」
義祖母もこちらの味方ではなかった。
クロエは望みをつなぐように、精霊王に視線を戻す。
「ひ、皮膚の接触なら手をつなぐとかでも……」
「それだと接触面積が少な過ぎる。まぁ、成体になるまで少なくとも五年ほどはみた方がよいな」
「少なくとも五年……」
クロエは呆然とつぶやいた。
五年経てば、クロエも三十路である。
リュカと別れるにしろ、別れないにしろ、五年は長い。
「クロエさん」
リュカの手がクロエの首の後ろに回された。
中腰になったリュカが、至近距離から目をのぞき込んでくる。
「クロエさんは、僕のこと、嫌いじゃないですよね?」
「え、えぇ」
その辺りのことは、昨日散々話し合った。
リュカのことは結構好きになってしまっていると、クロエ自身も分かっている。
「クロエさんは、僕に触れられるのは嫌?」
「そ、そうではないけど、こう、一般常識というか倫理として……」
「僕の今の状態は、一般的な状態じゃないじゃないですか。なら解決手段も一般常識が役立たないのも当然ですよね」
「いや、それは屁理屈では……」
「クロエさん」
言い訳ばかりが口を突いて出てくる状態のクロエの名をリュカは呼んだ。
形の良い眉は下がり、潤んだ薄藍の瞳は決壊寸前で、ぷっくりした薄紅の唇は悲しげに歪められていた。
とんっと額を合わせて、鼻先が触れ合うような至近距離で、リュカは切なげに囁く。
「僕を、大人にしてくれませんか?」
壮絶な色気と哀れっぽさを持っての懇願をはねつける言葉を、クロエは何も持たなかった。
神秘的な雰囲気を漂わせている周囲からすると、この一軒家は少々浮いていた。
この家は精霊王が妻を見初めた後、建てられたものだという。
それまでの精霊王は社の方に暮らしていたが、農民の子であった妻が落ち着く家を、と彼女の育った家を参考に生家よりは少々拡張したものを造ったのだそうだ。
このくだりは、前回挨拶した際に出会いから今までに渡る壮大なのろけ話を聞かされつつ知ったことだ。
今回もその一軒家に案内され、食堂兼居間に通された。
クロエたちを椅子に座らせると、義祖母は「お茶を淹れてくるわね」と台所へと足を向ける。
クロエとリュカが手伝いを申し出たが、お客さんは座っていてと制されてしまった。
言われた通り大人しく待っていると、すぐに食器や小包丁を乗せた盆を持って義祖母が戻ってくる。
「お茶請けがお持たせで悪いけれど」
義祖母はにこにこ笑いながら手土産のチーズケーキを切り分け、茶を淹れてくれる。
クロエは礼を言って、紅茶を一口含む。
そしてほうっと息をついた。
「良い香りですね」
それなりに舌の肥えているクロエも、なかなか出会えない馥郁たる香り。
よほど質の良い茶葉なのだろう。
それに茶葉の良さを損なわず、丁寧に淹れられているのが分かる。
張っていた気も表情も緩んでくる。
ちらりと隣を見ると、リュカも幸せそうな顔をしていた。
目が合い、お互いの感想が同じであることがなんとなく分かった。
そんな些細なことがとてもこそばゆく、はにかむリュカも大変可愛らしい。
「ふん」
精霊王が茶に溶けきらずじゃりじゃりになった砂糖でも噛んでしまったような顔で鼻を鳴らした。
義祖母がくすくすと笑い、精霊王を視線でなだめる。
そっぽを向いてしまった夫に苦笑し、クロエたちの方へと視線を戻した。
「これはマリエルの婿さん……リュカの父親からもらった茶葉なのよ。とっておきのだと言っていたから、お客さん用にしてるの」
「取り入るのが巧い男だ」
精霊王が面白くなさそうにかぶせてくる。
わざわざそういうことを言うところが、心が狭い。
(精霊の性質なのでしょうけど、この辺りがリュカに引き継がれてなくて良かった……引き継がれてないわよ、ね?)
また新たなる疑問と心配が出来てしまったが、クロエはひとまずそれに気付かなかったふりをする。
今回ここに来たのは、リュカの不安を取り除くためであって、クロエの心配を増やすためではないのだ。
ひとしきりケーキに舌鼓を打ち近況を話し合った後、精霊王が「それで」と水を向けてきた。
「用があって来たのだろう。どうした?」
一見無愛想な精霊王だが、リュカに向ける視線は柔らかい。
クロエに向ける視線が鋭いつららならば、リュカに向けるのは真綿くらいの柔らかさだ。
完全にデレデレではないが、見る者が見ればとても可愛がっているのが分かる。
「その、お祖父様にお聞きしたいことがあって……」
「聞こう」
おそるおそる切り出したリュカに、精霊王が即答する。
リュカは背筋を伸ばし、尋ねた。
「どうやったら僕は成体になれますか?」
「一、二年の内に、と思っていたが……芳しくないのだな?」
リュカがこくりとうなずいた。
「どういうこと?」
義祖母が心配そうに眉をひそめた。
精霊王はうむ、と唸る。
「そもそも精霊が成体となるのは、それに見合うだけの元素を身の内に取り込めたという意味を持つ。元素の流れを司る準備が出来た、ということだな。この元素は樹木、草花、鉱物、清流、まとめて言えば自然だな。それらが多い所に元素は漂っている」
ここまでは知っているな、と精霊王が話を区切る。
クロエとリュカは揃ってうなずいた。
精霊王も軽くうなずいて、話を続ける。
「なのでラ・トゥールの屋敷はあの男に言って樹木・草花を多く植えさせ、池も造らせた。その上で我が聖域化し、元素を多く保てるようにしていたのだ。リュカは一番影響を受けるが、マリエルや他の孫たちにも元素はそれなりに必要なのでな」
「新居もお祖父様に聖域化してもらいましたよね?」
「あぁ。だが、やはり作り立てだ。まだ元素が足りぬのだろう。それでリュカに影響が出てきているのではないか」
「そんな! リュカに悪影響が!?」
クロエの顔からさっと血の気が引いた。
東の魔王から逃れる為とはいえ、自分と結婚してラ・トゥールの屋敷を出たのが裏目に出てしまったのだと青ざめる。
「ク、クロエさん! 落ち着いて!」
「そうだ。落ち着け、小娘。影響が出ていると言っても、死んだり病気になったりするわけではない」
二人になだめられ、クロエは深い息を吐いた。
どうにもリュカ関連のことでは、感情の振り幅が大きい。
冷静に、と自分に言い聞かせて、目を伏せた。
「申し訳ありません。取り乱しました。リュカもごめんなさい」
「いいえっ。僕のことを心配してくれたんでしょう? 不謹慎ですけど、嬉しいです!」
椅子を動かしたリュカがぴったりと隣にくっついてきて、えへへと笑う。
腕に感じる温かさに、クロエはほっとした。
義祖父母の家で何をやっていると理性は訴えているが、今は引き剥がす気になれなかった。
孫たちの仲むつまじい様子に、精霊王夫妻は対照的な顔をしている。
微笑ましそうにクロエたちを見ている精霊王の妻は、面白くなさそうな顔をしている夫に尋ねた。
「それで、リュカに影響って、具体的にどういうことなの?」
クロエははっと居住まいを正して精霊王に視線を戻した。
確かにどういうことなのかは、まだ聞いていない。
精霊王は平静な声音で言う。
「つまり、成体になるのが遅れているのだろう」
「やっぱり、ですか……」
隣のリュカが唸り、問いかける。
「そんな感じはしていました。このままだと、どのくらいで成体になれますか?」
「そうだな……こちらへ」
精霊王に招かれて、リュカが立ち上がる。
精霊王も立ち上がり、側に寄ってきた孫の額に手を当てた。
「……これは……」
精霊王が難しい顔で口ごもった。
義祖母とクロエの顔が曇る。
「どう、なんでしょう?」
リュカも不安げな表情になった。
精霊王はリュカの額から手を離し、ぐるりと首を巡らせて言った。
「……なんだ、小娘。まだリュカに手を出していないのか」
この甲斐性なしめ、という目で精霊王がクロエを見てくる。
今ここで何をいうのかと憤然とした気持ちを押し込めて、クロエは冷静に反論する。
「私に少年を手篭めにする趣味はありません」
「ふん。人の年齢としては成人だろう。それにリュカの同意があれば手篭めも何もなかろうに。一つ屋根の下に暮らせば自然と番うものと思っておったが、思った以上の堅物だったのだな」
ふぅ、とため息をついて物理的に見下されると、クロエの鉄壁な笑みもひくつくというものだ。
「……それが、何だとおっしゃるのですか」
低い声で問えば、精霊王はしれっとした顔で答えた。
「我も読み違えていたが、リュカに足らぬのは元素だけではなかった、ということだ」
リュカがいぶかしげな顔をする。
「どういうことですか、お祖父様」
「リュカは精霊の質を多く受け継いでいるようでいて、その実、四分の三は人の血だ。それで仕組みは精霊でも、必要な力が元素だけではなかったのだろう」
マリエルは元素だけで成体になれたのだがな。と精霊王がボヤく。
「何が足りないの?」
妻の問いに、精霊王は言葉を探すように間を置いて言った。
「人の生命力、生気、と言ったら良いか。そういうものだろう。通常の精霊は元素で補っている部分であるが、そこでリュカは人の生気を必要としている」
生気、と聞いて、クロエの表情は固くなる。
「……それは、人の血や肉を食らう必要がある、ということでしょうか?」
頭に浮かんだのは、妖魔の存在だ。
妖魔は他種の妖魔や人を食らうが、野生の獣や家畜は襲わない。
妖魔が妖魔同士の食い争いだけではなく、たびたび人里まで出てきて人を襲い食らうのは、人の持つ生気を欲しているからだと言われている。
もし、リュカが人を食らう必要があるのだとしたら、クロエはリュカを討てるだろうか。
リュカを、討たなくてはならないのだろうか。
騎士としての義務と私情の間で、クロエは揺れた。
背中に嫌な汗が流れる。
「いや。それで摂取出来ぬことはないが、わざわざそのような手段をとる必要はなかろう。妖魔でもあるまいし」
精霊王があっさりとクロエの懸念を否定した。
クロエは安堵の息を吐く。
膝においた手にも、嫌な汗をかいていた。
その手に、リュカが手を重ねて言った。
「僕、クロエさんになら、討たれてもいいですよ」
驚いてリュカの方を向くと、リュカは穏やかな笑みを浮かべていた。
「馬鹿なことを言わないで!」
「まったくだ。それに人の血肉を食らう必要はないと、今言ったばかりだろうが」
クロエと祖父から叱られて、リュカはへにょりと眉を下げた。
「はい……。でも、僕はクロエさんになら殺されても良いと思ったのは本気ですからね」
「余計悪いわ。嫌な覚悟や仮定をしないで」
クロエは両手でリュカの手を握り、厳しい顔で言った。
あらゆる事態を想定するのは騎士としての性であるし、実際にリュカが妖魔と同じになってしまったらと考えたのはクロエだ。
しかし、それを口に出すのと出さないのでは大きな差がある。
それに大した葛藤もなく、さらっと言わないで欲しい。
クロエは沸き上がった気持ちをそのまま口にする。
「私に、あなたを守らせて」
「はい! クロエさん! 大好きです!」
目をうるませたリュカが、勢いよく抱きついてきた。
椅子ごとひっくり返りそうになったが、なんとか耐えきる。
(……鍛えておいて良かった)
精霊王の前でみっともなく転がるのは、是非とも避けたい。
騎士のくせにと笑われたら、笑顔の仮面が剥がれ落ちる自信がある。
ほっとしつつ、クロエは離れなさいという意味を込めて、リュカの名を呼ぶ。
「リュカ」
「お祖父様。先ほどの話の続きですけど」
クロエの呼びかけを無視して、リュカは抱きついた状態のまま精霊王に話しかける。
「クロエさんが僕に手を出してないって話は、クロエさんをからかう目的ではなくて、僕の成体になる方法に関係があるから出されたんですよね?」
リュカはこてん、と首を傾げた。
仕草は可愛らしいが、目は笑っていない。
精霊王は疑われて心外だという顔で答えた。
「当たり前だ。我はそこまで下劣でも下品でもない」
「……え、と……つまり……」
クロエのひきつった頬に、一筋汗が流れる。
察しは悪くないと自負しているが、これは出来れば察したくなかった。
「わ、私に少年性愛の趣味は本ッ当にないのです。それに婚前に交わした契約でも子作り行為はしないと。私は騎士として、人として、誓いをやぶるわけには!」
「生気は体液の摂取や粘膜・皮膚のふれ合いで摂取することが出来る。挿入せねば契約にも接触せぬだろう」
「なっ」
クロエは口をぱくぱくさせて、助けを求めるように義祖母に目線を向けた。
義祖母はほんのりと頬を赤く染めて言った。
「あらあらまぁまぁ。リュカももう人の年齢としては大人ですものね。大人の階段を上っちゃうのねぇ」
義祖母もこちらの味方ではなかった。
クロエは望みをつなぐように、精霊王に視線を戻す。
「ひ、皮膚の接触なら手をつなぐとかでも……」
「それだと接触面積が少な過ぎる。まぁ、成体になるまで少なくとも五年ほどはみた方がよいな」
「少なくとも五年……」
クロエは呆然とつぶやいた。
五年経てば、クロエも三十路である。
リュカと別れるにしろ、別れないにしろ、五年は長い。
「クロエさん」
リュカの手がクロエの首の後ろに回された。
中腰になったリュカが、至近距離から目をのぞき込んでくる。
「クロエさんは、僕のこと、嫌いじゃないですよね?」
「え、えぇ」
その辺りのことは、昨日散々話し合った。
リュカのことは結構好きになってしまっていると、クロエ自身も分かっている。
「クロエさんは、僕に触れられるのは嫌?」
「そ、そうではないけど、こう、一般常識というか倫理として……」
「僕の今の状態は、一般的な状態じゃないじゃないですか。なら解決手段も一般常識が役立たないのも当然ですよね」
「いや、それは屁理屈では……」
「クロエさん」
言い訳ばかりが口を突いて出てくる状態のクロエの名をリュカは呼んだ。
形の良い眉は下がり、潤んだ薄藍の瞳は決壊寸前で、ぷっくりした薄紅の唇は悲しげに歪められていた。
とんっと額を合わせて、鼻先が触れ合うような至近距離で、リュカは切なげに囁く。
「僕を、大人にしてくれませんか?」
壮絶な色気と哀れっぽさを持っての懇願をはねつける言葉を、クロエは何も持たなかった。
0
お気に入りに追加
134
あなたにおすすめの小説
〈短編版〉騎士団長との淫らな秘め事~箱入り王女は性的に目覚めてしまった~
二階堂まや
恋愛
王国の第三王女ルイーセは、女きょうだいばかりの環境で育ったせいで男が苦手であった。そんな彼女は王立騎士団長のウェンデと結婚するが、逞しく威風堂々とした風貌の彼ともどう接したら良いか分からず、遠慮のある関係が続いていた。
そんなある日、ルイーセは森に散歩に行き、ウェンデが放尿している姿を偶然目撃してしまう。そしてそれは、彼女にとって性の目覚めのきっかけとなってしまったのだった。
+性的に目覚めたヒロインを器の大きい旦那様(騎士団長)が全面協力して最終的にらぶえっちするというエロに振り切った作品なので、気軽にお楽しみいただければと思います。
【R18】悪女になって婚約破棄を目論みましたが、陛下にはお見通しだったようです
ほづみ
恋愛
侯爵令嬢のエレオノーラは国王アルトウィンの妃候補の一人。アルトウィンにはずっと片想い中だが、アルトウィンはどうやらもう一人の妃候補、コリンナと相思相愛らしい。それなのに、アルトウィンが妃として選んだのはエレオノーラだった。穏やかな性格のコリンナも大好きなエレオノーラは、自分に悪評を立てて婚約破棄してもらおうと行動を起こすが、そんなエレオノーラの思惑はアルトウィンには全部お見通しで……。
タイトル通り、いらぬお節介を焼こうとしたヒロインが年上の婚約者に「メッ」されるお話です。
いつも通りふわふわ設定です。
他サイトにも掲載しております。
元悪女は、本に埋もれて暮らしたい
瀬尾優梨
恋愛
平凡なOLだった私は気が付けば、異世界の公爵令嬢タリカ・ブラックフォードの体に憑依していた。
オレンジ色の豊かな巻き毛に、魅惑的な肢体。声は鈴を振るかのように愛らしい。
――ただし、性格極悪の悪女でした。
その素行の悪さゆえ王太子にも婚約破棄されたタリカの体に入り込んでしまった私は、前世での趣味だった読書を始めることにする。
ただしこの世界では、王侯貴族が恋愛小説やファンタジー小説を読むのははしたないことだ、と言われていた。
そんなのひどい!
私は、胸のときめくような小説が読みたい!
前向きに生きるきっかけを掴むため、そして今の人生を少しでも楽しむため、庶民の娯楽であるファンタジー小説にどっぷり浸かります!
※レジーナブックスより書籍化したため、本編を引き下げ、番外編のみ残しております。
そこの御曹司、ちょっと待ちなさい!
春音優月
恋愛
Q顔とお金のどっちが大事?
A金。
Q愛とお金のどっちをとる?
Aもちろん、お金に決まってる。
Q男(ただしセレブに限る)の前では媚びっ媚び、優しい女を演じるけど......?
「セレブに非ずは、男に非ず」
「自転車に乗ったイケメンよりも、
高級車に乗った残念セレブと結婚したい」
A実は私、お金大好き毒舌腹黒女です。
純粋ヒロイン?俺様イケメン?
真実の愛?ノーサンキュ-♡
外道で邪道!拝金主義の腹黒女と、
残念なお人好し御曹司がお送りする、
ハイテンションラブコメディ。
2019.12.21〜2020.02.29
絵:リングパールさま
黒豹の騎士団長様に美味しく食べられました
Adria
恋愛
子供の時に傷を負った獣人であるリグニスを助けてから、彼は事あるごとにクリスティアーナに会いにきた。だが、人の姿の時は会ってくれない。
そのことに不満を感じ、ついにクリスティアーナは別れを切り出した。すると、豹のままの彼に押し倒されて――
イラスト:日室千種様(@ChiguHimu)
大嫌いなアイツが媚薬を盛られたらしいので、不本意ながらカラダを張って救けてあげます
スケキヨ
恋愛
媚薬を盛られたミアを救けてくれたのは学生時代からのライバルで公爵家の次男坊・リアムだった。ほっとしたのも束の間、なんと今度はリアムのほうが異国の王女に媚薬を盛られて絶体絶命!?
「弟を救けてやってくれないか?」――リアムの兄の策略で、発情したリアムと同じ部屋に閉じ込められてしまったミア。気が付くと、頬を上気させ目元を潤ませたリアムの顔がすぐそばにあって……!!
『媚薬を盛られた私をいろんな意味で救けてくれたのは、大嫌いなアイツでした』という作品の続編になります。前作は読んでいなくてもそんなに支障ありませんので、気楽にご覧ください。
・R18描写のある話には※を付けています。
・別サイトにも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる