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第149話 撤退と足止め

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 実際の戦場を経験してきたレリアナであったが、いまだカオスほどの将と直接剣を交えたことはなかった。
 だが、相手がどれほどの強者であっても、聖王に敗北は許されない。聖王が討たれるようなことがあれば、聖騎士達の士気は崩壊し、この戦いは大敗を喫するだろう。

「……でも、やるしかない」

 レリアナは冷たい風の中、手綱を握る左手と、剣を握る右手に自然と力を込めた。
 しかし、その覚悟を阻むように、一人の者が彼女の前に馬を進める。

「レリアナ様、ここは撤退してください」

 ティセの冷静な声が響いた。

「すでに我が軍は陣形を崩され、赤の導士を相手に、ここから挽回するのは至難の業。その上、レリアナ様が討たれるようなことがあれば、再戦の望みすら断たれてしまいます。しかし、今撤退すれば、被害は最小限に抑えられます」

 ティセの言うことはもっともだった。そして、それを理解するだけの知性と冷静さがレリアナにはある。

「……わかった。だったら殿しんがりは――」

 レリアナは「殿は自分が務める」と言いかけて、言葉を飲んだ。責任感の強い彼女としては、せめて兵の撤退の目処がつくところまでは自分が残って敵を抑えたいところだった。だが、聖騎士達相手にそれは通用しない。彼らは聖王が戦場にいる限り共に戦い続ける。そんな彼らを撤退させるためには、まず誰よりも先に聖王自身が逃げねばならない。聖騎士とは、聖王とは、そういうものだった。

「カオスと彼の兵達は、私とフィーで抑えます。レリアナ様はグレイと共に撤退してください」
「……わかった」

 その一言には、王としての苦しみが滲んでいた。自らの命を守るためではなく、一人でも多くの兵を生き残らせるため、彼女は自らが最初に退くという選択をした。

「グレイ、いくぞ」
「はっ!」

 レリアナはグレイを伴い、馬を走らせた。
 冷たい風が彼女の肌を刺すが、それに負けじと彼女は叫ぶ。

「全軍、撤退!」

 兵達に呼びかけながら、彼女は撤退ルートを探る。
 幸い、敵の包囲はまだ完成していなかった。レリアナは敵兵の少ない方向へと馬を向けた。
 戦場の混乱の中で、彼女はふと胸を撫で下ろした。

(ティセが諭してくれてよかった。撤退の判断が遅れれば、包囲され撤退は困難だったかもしれない)

 しかし、レリアナは気づいていなかった。その逃げ道があまりにもわかりやすく自分の目の前にできていたことに。
 レリアナのそばに軍師がいれば、あるいは彼女がもっと経験を積んでいれば、その静かな誘いが何を意味するのか気づいたことかもしれない。しかし、今の彼女には、色々なものがあまりにも足りなさ過ぎた。



 レリアナが部隊を離れた後、前線を支えるのはティセとフィーユの役目となった。
 先代聖王時代の「三本の矢」は、主に遊撃を担い、聖王のそばで戦う必要はなかった。先代は圧倒的な武力で敵を一掃し、彼をそばで支える必要などなかったからだ。しかし、レリアナが聖王となってからは事情が変わった。特に、彼女が前線に立つようになってからは、ティセ達三本の矢も聖王と共に戦場を駆け抜け、兵士達と共に敵陣を切り裂いていた。その連携のおかげで、指揮権はスムーズにティセへと受け継がれた。

「我々が殿を務めるぞ! 聖王様のために敵を抑えよ!」

 ティセは周りの兵達を鼓舞しながら、隣のフィーユに魔法攻撃の指示をする。
 こういう場においてフィーユの魔法は有用だった。
 敵の只中に打ち込めば混乱を呼び、勢いを留めることができる。また、彼女の無尽蔵とも言える魔力は、撤退時には敵への最大の足止めとなる。

「フィーはよくやってくれる。……なら、私は私の仕事をするまで」

 ティセはそう呟きながら、こちらに迫るカオスに目を据え、馬を向けた。

「レリアナ様のもとへと行かせません!」

 ティセは腰から、刃が大きく反った曲刀を抜き、カオスの前に立ち塞がった。
 体術に優れるティセだが、剣を不得手としているわけではない。馬上においては、直刀よりも曲刀の方が扱いやすく、斬るという動作にも長けている。
 その状況に応じて様々な武器を使いこなせる器用さもまたティセの武器だった。

「……ほかの相手とは一味違うようだな」

 剣を交えずともティセの力量を感じ取ったのか、カオスは一定間合いを保ち、馬を止めた。
 カオスが自分を無視してレリアナを追わなかったことに、ティセはひとまず安堵する。カオスをこの場に留める、それだけでティセとしては、役目の半分は果たしたようなものだった。

「カオス、赤の王国に仕えていたあなたが、まさか緑の公国につくとは思いませんでした」
「俺のことを知っているのか? あんたみたいな美人に知ってもらえているとは光栄だな。そっちの名前も教えてもらえるか?」

 ティセは内心で舌打ちした。このような軽い男に、まともに返答をする気にはなれない。だが、時間を稼ぐためには付き合うしかない。

「……ティセだ」
「ティセか。うむ、良い名だな。ルージュが緑の公国ではなく、白の聖王国を選んでいれば、あんたとも仲良くなれていたってわけか。……さっき見かけたレリアナ嬢もなかなかの美女だったし、失敗したかなぁ」
「…………」

 緊迫した戦場で、こんな間抜けな会話をすることになるとは、ティセは思ってもいなかった。こちらを油断させる作戦かとも思ったが、カオスが真剣に悔しがっているところを見ると、そうとは思えなくなってくる。

「……戯言はいい。とにかく、あなたをレリアナ様のところへ行かせるわけにはいかない。ここで、私の相手をしてもらう」
「レリアナ嬢のところへ? 確かにレリアナ嬢のお尻を追いかけたい気持ちはあるが、残念ながら彼女のお相手は俺の役目じゃない」
「……なんだと?」

 ティセの心が急に波立つ。カオスの言葉が虚勢でないことは明らかであり、彼の余裕からは焦りの影さす見えない。

(俺の役目じゃないだって? ……ほかにその役目を担っている者がいるということか? まさか、レリアナ様の撤退まで赤の導士の筋書き通りだとでも言うつもりか?)

 その瞬間、ティセはある男の存在を思い出した。この戦場で、その姿をまだ一度も見かけていない男――赤の導士ルージュ、カオスと並ぶもう一人の強者、ある意味、最悪の相手のことを。

(もしあの男がレリアナ様を狙っているとしたら――!!)

 ティセの背筋に冷たい悪寒が走った。

(グレイだけではまずい!)

 ティセは馬を反転させ、慌ててレリアナを追いかけようとした。
 だが、その前にいつの間にか距離を詰めていたカオスが馬上のまま斬りかかってくる。

「ティセ、あんたにはここで俺の相手をしてもらう!」
「くっ!」

 ティセは反射的に曲刀でその一撃を受け流し、距離を取る。
 鋭い一撃に、彼女はすぐに理解した――カオスを無視してレリアナを追うことはできない、と。

(私がカオスを足止めするはずが、逆に私の方が足止めされるなんて……)

 ティセは苛立ちながら唇を噛みしめた。
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