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第28話 哲学フィールド脱出?

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 その声を聞いて、盟子は、昨日操との戦いの時に助けてくれた声と学の声が同一のものであることにようやく気づいた。

「やっぱりあなたもクラブマスターだったのね!」
「ちっ! 何をしやがった?」

 今までは廊下に響いていた彼方の声。だが、今は反響もなく闇の中に溶けていく。

『別に私は何もしていません。私はただあなた方に哲学をするためのきっかけを与えたにすぎません。そのきっかけにより、外界のものに対して不信感を抱き、それらを消し去ったのはあなた方自身ですよ』

 どこから聞こえてくるのか全く掴めない学の声。すぐ目の前で喋られているようにも聞こえるし、周囲すべてから聞こえてくる気もする。あるいは、直接頭の中に飛び込んできているのではないかとも思えてくる。

「では、この空間を作り出したのは俺達自身だというのか?」
『一応そういうことですが、……それは少し正しくはありませんね。空間を作り出したのではなく、空間から不確かなものを排除したのです。ですから、あなた方が外界のものが確かに存在している根拠を導き出し、自分自身でそれに納得し、信じることができれば、すぐにでも元の状態に戻れます』
「根拠も何も、存在しているから、存在している。それでいいじゃない!」
『そうですね。あなたが本当にそう思われるのなら、それもいいでしょう。ですが、何も変化がないところを見ると、あなた自身、その説明で納得しきれていないようですね』
「…………」

 図星をつかれて、盟子は言葉もない。

『ですが、よかったですよ。あなた方が思慮深い人達で。おかしいことをおかしいとも思わない愚者が相手では、私の哲学フィールドなどなんの役にも立ちませんからね』

 こんな訳のわからない空間に入ってしまうくらいなら愚者の方がよかった、と心の中で思ってしまう盟子達。

『では、説明はこれくらいにして。続きを始めましょうか』
「続きだと?」
『はい。あなた方は今、これは夢や幻かもしれないから、周りのものは存在しないかもしれないと考えられたわけですが、そうだとしたらあなた方の手や足、頭など、あなた方の身体からだに関してはどうですか? もしもこれが夢だとしたら、その手や足も実は存在していないのではないでしょうか?』

 その言葉を受け、彼方達の手や足が、いや体全体が薄くなり、次第に透き通っていく。

「こ、このままじゃ体が消えてしまうぞ! 誰か何か言い返せないのか?」

 だが彼方のその言葉に応えられるものはいなかった。彼らは皆、黙って必死に頭を巡らせ自分の体の存在を証明する手立てを考えているが、いい考えが浮かぶこともなく、ただ自分の身体が消えていくのを見つめるのみ。
 そして、ついにはその空間には場所を占める物理的な実体は何も存在しなくなってしまった。廊下や下駄箱だけでなく、彼方達の体自身さえも。
 しかし、まだそこには彼方達の心が残っている。ものを考える心だけは消えずに残っている。

「確かに、もしも夢だったら、あたし達の周りにあるものは存在していないし、あたし達の身体さえちゃんとあるのかどうかもわからないわ。でも、そういった物質的でないものはどうかしら? ……そう、たとえば数学よ。1+1=2 これだったら、夢だろうとなんだろうと、確実なことじゃない!」

 それが自分達の存在を証明するものになるかどうかはわからない。だが、今まですべてが否定されてきた中で見つけたその確かなものは、彼らの心の拠り所となり得た。
 直接的には自分達の存在を証明してくれなくとも、それを手掛かりにしていけば、いつかこの哲学フィールドから脱出できる──そんな期待を抱くことができる。

「そうだ、盟子の言う通りだ。その他にも、『三角形は三つの辺からできている。四角形は四つの辺からできている』そういった事実も確実だぞ!」

 現に彼らは盟子のひらめきを元に、また新たな確かなものを見つけることができた。こうやっていけば、このフィールドからの脱出もそう遠いことではないと思えてくる。
 だが、それは学の次の言葉により無残にも打ち砕かれることとなった。

『なかなかいいところに目をつけましたね。ですが、こうは考えられませんか? 実は1+1=3で、四角形の辺の数は五つであるにもかかわらず、計算をしようとするたび、また四角形の辺の数を数えるたびに、あなた方が間違うように全知全能の神が仕向けているかもしれない、と』
「なっ……。そんな強引な」
「そうよ! そんなの詭弁よ!」
『私はただ、そういう可能性もあると言っているだけです。ですから、そうではない可能性も大いにあります。しかし、そうである可能性がわずかでもある限り、我々はそれが確実であると認めるわけにはいきませんよね』

 彼方達はまたすべてを失ってしまった。闇の中で見つけたわずかな光の欠片。それにすがって出口を見つけようとしたその矢先、その光のかけらは手から零れ、消えてなくなった。一度光を得た後にそれを奪われ再び暗闇の中に突き落とされたその心境は、一旦光を得る前以上に孤独だった。
 彼方達は身体だけでなく、自分達の心までもが何か薄らいでいくような感覚に苛まれ出す。心まで消えてしまっては、本当に何もかもがなくなってしまう。そう、自分達の存在そのものが完璧に喪失してしまうのだ。
 だが、不思議と恐怖はなかった。自分達など元々存在していないため、恐怖を感じるその主体自体が存在していないのだから。あるいは、恐怖というもの自体がこの世に存在していないかもしれないのだから。
 だが、その彼方達の存在の危機を救う者がいた。

「ようはデカルトの省察か。ならば、その攻略もデカルトのやり方に従えばいいだけではないか」

 その自信に満ちた声は、これまで沈黙を続けていた波佐見はさみ将棋まさきのものだった。

「何か手があるのか?」
「ああ。『我思う、故に我在り』というやつだ」
「有名な言葉だけど、それでどうするのよ?」
「確かに、神は我々が計算するたびに間違うように仕向けているかもしれない。だが、もしそうだとすると、そこには神により欺かれている『私』が確実に存在することになる。つまり、手も足も持っていないかもしれないが、考える存在としての『私』の存在だけは確実ということだ」

 それはまさに確実な考えだった。
 それは、先程のような光の欠片としてではなく、アイドルがステージで浴びるスポットライトのような強烈な光として、彼方達の心に差し込み、薄れかけていた自分の存在を、確かなものとして蘇らせる。

「歩いている私、ものを食べている私、それらは夢かもしれんし、神に騙されているかもしれん。だが、歩いていると思っている『私』、食べていると思っている『私』は確実に存在している。これこそが『我思う、故に我在り』だ!」
『ほう。哲学に興味を持っておられる方がいるとは思いませんでしたよ』
「伊達に将棋部部長はやっておらん」

「それって関係ないんじゃないのか?」
「そんなことより、さっさとこの哲学フィールドから脱出するぞ」

 波佐見は彼方の的確なツッコミをさらりと受け流す。

「可能なの?」
「デカルトと同じやり方を使えばいいだけだ。心だけの存在となった我々の中には、神の観念──つまり神という存在に対する理解や想いといったものが存在しているが、神の観念は私自身の観念よりも大きい」
「何それ? どういうことよ?」
「ようするに、私の知っている神は、全知全能で無限の知性、無限の認識力を持った絶対的存在であるが、そういう神に対する想いを持っている私自身は有限で、神に比べれば矮小な存在でしかない。しかし、そのような存在である私の中に、自分自身を遥かに超えるほど大きい神に対する観念があるということは不自然である──というよりも、もはや矛盾しているとは思わないか?」
「……確かに」
「う~、何だか難しいです~」

 彼方は理解しているようだが、とろりんはすでにギブアップ気味。

「その矛盾を解決するためには、私以外に、神の観念を私に与えた存在がなければならない。つまりその存在こそが神なのだ。神自身が実際に存在していれば、無限である神の観念を私に与えることも容易なことだからな」

 哲学フィールドの中に神の存在が現れた。とはいえ、漫画やアニメのように老人の姿をした神様や翼の生えた天使の親玉みたいな神が現れたわけではない。姿など見えないが、圧倒的な存在感としてそこにいることが実感できる、そんな神が現れたのだ。

「これで心として存在する我々以外に、神が確実に存在することがわかった。そして、その神は神であるが故に、全知全能で完璧な存在であるから、我々を欺くようなことはしない。もしそのような姑息なことをするのならば、それはもはや神でなく悪魔だからな。つまり、1+1=2のような計算も確実なものだと言うことだ」
「見事だぞ、波佐見!」
「さぁ、ここからが最後の詰めだ! 我々はそんな完全性を持つ神から創造され、認識能力も与えられているのだから、我々の持つその認識能力もまた限りなく完全なものだと言える。そう、少なくとも、我々がはっきりと存在していると確信できるだけの認識を得られるものならば、それは確実に存在しているくらいには。というのも、もしも我々の認識能力が不完全なものだとしたら、それを与えた神もまた不完全な存在だということになってしまうからな。そして、我々は、今の自分をしっかりと覚醒していると認識でき、更に自分達の身体、そして階段や廊下といった外界のものが存在していると、自分の認識能力に懸けて信じることができる。そして、この認識能力は神から与えられたものなのだから、我々がそう感じられる外界のものは確実に存在している!」

 その力強い言葉と共に波佐見の前に光が開けた。あまりの眩しさに波佐見は目を閉じる。
 目。そう、すでに波佐見には閉じることのできる目が戻ってきていた。
 目を開いた時、そこは闇に包まれる前に波佐見がいた場所に戻っていた。廊下、壁、並ぶ下駄箱。それらがこの場所が昇降口であることを示してくれている。

「戻ってこられたんですね~」

 とろりんの言葉を受け、波佐見は自分が本当に帰って来たのだと再認識する。
 ただ、哲学フィールドに入る前と違い、あの時目の前にいた学の姿は見えないが。
 ──いや、姿が見えないのは学だけではなかった。隣にとろりんの姿は見えるが、それだけなのだ。彼女だけで他のメンバー、つまり彼方、盟子、品緒の姿が見えない。
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