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第27話 愛と死と

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「……ジョー様」

 エレノアは青ざめた顔で、立ったまま血を流す丈の姿に目を向ける。

 ──だが、丈の瞳は以前と変わらず生気に溢れていた。

 その丈の腕が素早く動き、短剣を持つエレノアの腕を掴む。

「ジョー様!?」

 丈の胸に広がる赤い染みは尋常な大きさではない。そんな傷を負った人間が、ひどく強い力で自分の腕を掴んでいる。その信じられない事態に、エレノアは何も考えられず呆然とする。
 だが、丈から発散されるアルコールの匂いが鼻につくにつれ、冷静さを取り戻し、彼女にも事態が飲み込めてきた。

(この匂いは……)

 そして、自分の手にもついている液体が、粘着性のあるどろりとしたものではなく、水っぼものであることにようやく気づいた。

(これは血じゃない!)

 床に散らばった酒のボトルの破片をも見るにつけ、ジョーの身体に広がったものが、血ではなくワインだということをエレノアはようやく認識する。

「エレノア様、どうか冷静になってください!」

「離して! 一緒に死んで!!」

 筋力は男の丈の方が遙か上。
 だが、人を殺そうとするほどに必死になった人間の生み出す力は並ではなかった。元々の力の差があろうとも、そう簡単にどうにかできるものではない。
 しかも、相手に突き刺せばいいだけのエレノアに比べて、丈は彼女の手の動きを止めつつ、そこにきつく握られている短剣を引き剥がさねばならなかった。その難易度は、力の差を埋めてあまりある。

 互いに揉み合う二人。
 相手が女王でなければ、膝蹴りを入れてでも、あるいは頭突きを食らわしてでも叩き伏して、その手から刃物を取り上げただろう。
 だが、エレノアの高貴さが、丈にそれを躊躇させた。

 そのうち、こぼれて床の上にたまっていた酒に、エレノアが足を取られた。
 ふいに態勢を崩したエレノアにつられるように丈もバランスを崩し、エレノアを下にして二人はもつれるように床に倒れ込む。
 その際に、丈の手に嫌な手応えが伝わる。
 倒れた丈は、それにハッとし、すぐに体を起こした。

「……ジョー様」

 いまだ倒れたままのエレノアから発せられた消えてしまいそうなほどに弱々しい声。そのエレノアを見る丈の瞳は一点に手中していた。──彼女の腹部に深々と突き刺さっている短剣に。

(どうする!?)

 いつも冷静で、慌てた記憶のほとんどない丈。
 だが、さすがの丈もこの時ばかりは、理知的なままではいられなかった。
 事故とはいえ、自分のしでかしたことの重大さに、頭が混乱しまくる。

(冷静になれ、冷静に! まずは冷静に!)

「……ジョー様」

 血の気がなくなっていくエレノアの顔。紫になっている唇から漏れる声は、集中していてなんとか聞き取れる程に弱々しい。

(まだ息はある! 意識もある! ……今ならば、今ならばまだ助かるかもしれない!)

 わずかながらの希望の光が丈の中に灯る。
 もし、これが椎名ならば、全力で動いただろう。
 だが、幸か不幸か、丈はこんな時でもその先を考えてしまう男だった。

(だがこの事態をどう説明する? 助かったとして、皆のオレへの不信感は募るだけ。もしそのまま亡くなってしまおうものならば……)

 王族殺し――この世界の人間ならば、一族郎党処刑されることになる重罪。
 この世界の人間でなく、赤の国の王たる自分、そしてエレノアは赤の国の正式な女王ではない――これらの条件があれば、処刑されるような事態は防げるだろう。
 だが、元青の国の人間の心は確実に自分から離れる。そして青の国はエレノアの仇討ちのために心を一つにし、攻め込んでくるだろう。

(このまま誰にも知られなければ……)

 細かいことにまで、先の先のことにまで頭が回ってしまう。そのことが、今回ばかりは丈にとっては不幸だったかもしれない。

「エレノア、苦しいだろう……。今楽にしてあげるよ。せめて、このオレの手で」

 冷めた目をした丈の手がエレノアの首に伸びた。

「ジョー様!?」

 生気がなくなって生きているのか死んでいるのかわからないほどだったエレノア。だが、丈の手が締まり出すと、それが擬態であったかのように激しい抵抗を示した。だが、それで丈の力が緩むことはない。

 ──やがて、エレノアの体はぴくりとも動かなくなった。

「別にこれが初めて人を殺したってわけじゃない」

 ようやくエレノアの首から手を離した丈は、自分の両掌を虚ろな目で見つめながら独白する。

「ラブリオンでならすでに何十人と殺してきてるんだ……」

 そう自分に言い聞かせはするが、ラブリオンを使って人の命を奪うのと、自ら直接手を下すのとでは、受けるショックに天と地ほどの差があった。
 いつまでも震えの止まらない自分の手。それに憤りを感じ、床に手を叩きつけるが、やはり震えは止まらない。

「このオレが、このオレが……」

 自分の手のくせに、自分の言うことを聞かない。そのことが丈には許せなかった。そして悔して情けなかった。

「ジョー様、皆が顔を見せていただきたいと申して……」

 ふいにノックもなく開かれる扉。そこから姿を現す、顔は知っているが名前までは覚えていないような兵士。
 その兵士の視線が、血をまき散らしつつ床に倒れ伏すエレノアに移動し、しばし停止する。そして、驚きに大きく開かれたその瞳はゆっくりと丈の方へ動き、憤怒と悲哀と後悔とが入り交じった丈の瞳と、音も動きもなく見つめ合う。それはまるで凍り付いたかのような時間だった。

「ジョー様!?」

 その静けさを破ったのは兵士の奇声にも似た叫びだった。
 だが、それがかえって丈を冷静にさせた。

「騒ぐな! これは事故だ! 不幸な事故だ!」

「し、しかし?」

「貴公はこんな不慮の事故で、赤の国を滅ぼしたいのか! 貴公にも妻や子がいるだろうに! その者達を不幸にして嬉しいのか!」

 苦し紛れの言葉とは思えない威厳と冷静さと重さとを持った言葉。その言葉の前に、兵士は言葉をなくす。

「……ですが、こんなことはすぐにばれます。女王が姿を見せなくなれば、誰もが不審に思います」

 それは丈にとっても非常に大きな問題だった。エレノアを殺してしまった今、兵達にそのことを気づかせない方法を見つけねばならない。そうでなければ、助けるための処置を取らずに自らの手であやめた意味がない。

「……手はある」

「えっ?」

「貴公が協力してくれれば手はある!」

 丈の頭脳は、この短時間でその方法を探り当てた。

「わ、私に何をしろというのです!?」

「貴公とて、この国を滅ぼしたくはあるまい。今、この国を救えるのは、私と貴公だけなのだぞ!」

「で、ですが……」

「待遇も給与も弾む! 貴公の家族には一生の贅沢を約束するぞ!」

 あの丈がここまで必死になる。それは断ればただですまないということ。
 口封じ――男にもそのくらいのことは理解できる。
 彼に選択の余地はなかった。

「……なにをすればよいのですか?」

「私の言う通りにさえすればよいのだ」

 そう言う丈の瞳はすでにいつもの輝きが戻っていた。
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