3 / 46
第1章
事件
しおりを挟む
本当、踏んだり蹴ったりである。
会社で騒いだのは全て私の責任だ。
確かにそれはそうだ。
きちんと反省している。
しかし、上司にやんわりと叱られただけだと言うのが松井さんの気に食わなかったらしく、個別で松井さんのサポートをお願いされた。
くそ、ヒステリックババアめ。
後で覚えてろ。
それに会社も。
わざとゆっくり仕事をしてお前からがっぽり残業代取ってやるからな。
神話によると、この国のどこかに「ホワイト企業」というものがあるらしく、そこは、こんな苦行など一切存在しない理想郷であるらしい。
ぜひ就職してみたいものだ。
いや、就職したかった。
か弱い女性一人、冷たいオフィスの中でカタカタとパソコンのキーボードを叩く。
腹いせに大きな音を立てても、誰も文句を言わない。
虚しい。
泣きそうだ。
寂しくて同じ部署の同僚、イケメンA君がここにいることを妄想してみる。
「高木さん、疲れてない?俺、高木さんのこと心配なんだ」
「大丈夫よ。心配してくれてありがとう、優しいのね」
「……優しくするのは高木さんだけだよ」
なーんてね。
キャー!
でもそう言えば、A君は確か最近婚約したんだっけな。
超可愛い受付嬢と。
……あー、虚しい。
結局、妄想に拍車がかかって手元が疎かになり、当初予定していた帰る時間を大幅に超えてしまった。
いつもなら、とっくの昔に眠ってしまっている時間に会社を出ねばならぬと、半分自分のせいなのにいらいらしてタイムカードを入力させる。
私のために最後まで残ってくださった警備の方に挨拶して、冬特有の冷気に飛び込んだ。
「さっむーい」
結構なボリュームで独り言を言っても、誰も変な目で見ないというか誰もいないという事実に慄くが、ともかく明日は休みである。
よし、いっぱい寝て久しぶりに料理でもするかと、後で酷く後悔するような催し物を考え込んでいると、いつの間に自分の家付近に着いていたらしい。
だが、そこに家はなかった。
そう、家がなかった。
鳴り止まぬサイレンの音と、数本の水柱、明るいオレンジ色の世界、悲鳴、炎の欠片が飛沫のようにあちこちに飛び散っている。
焦げ臭さが鼻孔に入り、思い切り咳込んだ。
「大丈夫かしら」
なんぞ口々に仰っている近所のおばさま方と、にやにや笑いながら個人の家を撮影している野次馬共。
私は目をこすって、もう一度目の前を見つめる。
これは、誰の家だ?
なんか私の家に形が似ているんだけれど。
ものすごく。
どう考えても今燃えているのが実家にしか見えず、それを信じられない私は自分の頬にビンタを食らわす。
だが目の前の風景は一切変わらない。
夢ではなかった。
現実だ。
そうしている間にも、ひたすら燃え上がる自分の家。
怒りとか悲しみとか、そんな感情はついぞ湧いてこなかった。
ああそう言えば家に家に置きっぱなしだったな、通帳。
カードは持ってるから、お金は下ろせるんだろうけど。
「お姉さん、大丈夫ですか!?」
しっかりしてくださいと揺さぶられ、口々に質問してくるごわごわしたオレンジ色の人たちに向かって、あろうことか、
「……これ、保険おりますよね?」
なんて聞いてしまった私は馬鹿なのだろうか。
私は実家暮らしである。
だが、一人で住んでいる。
いや、今では「いた」、か。
ハハ。
全部燃えちゃったしね。
実家に元々住んでいた連中、すなわち私の家族は、たった一人の娘を置いて田舎の祖父母の元で農業を次ぐと一念発起し、今は遠い場所で大型機械を動かしている。
そういうわけで私は、せっかく地元で就職したのに結局一人暮らしになってしまったわけだが。
その住んでいた家が、全焼してしまった。
もうまるっきり。
理由はガス漏れらしい。
うちの家の古くなったガスコンロからやつが漏れ出し、乾燥した空気と化学反応を起こして火災発生。
幸か不幸か、近くに誰もいなかったせいで家は燃えに燃え、気づいたときには大炎上だったらしい。
一切私のせいではないが、もちろんご近所さんのせいではない。
誰かのせいにするのが不可能である。
だがあの野郎ども、私が、
「火災保険入ってる?」
と聞くと、
「うーん、どうだっけなー? 多分、入ってない、かな? いや、入ってる? ――ねぇお父さん、どっちだったっけ!?」
などと、曖昧なことを抜かしやがる。
はっきりしやがれ。
こちとら何もかも全部燃えてんのよ。
消防署で事情を聞かれ、警察署で事情を聞かれ、気が付くと夜明けである。
眠いし、怠い。
早く眠りたい。
あっ、家燃えたんだった。
早朝、唯一頼れそうな友人に連絡する。
「んー、もう、なによぉ。一体何時だと思ってんのぉ」
面倒くさそうな声で電話に出てくれた友人に、
「雛子ぉ。家、なくなっちゃったぁ……」
と、私は涙の交じった声ですがりついた。
会社で騒いだのは全て私の責任だ。
確かにそれはそうだ。
きちんと反省している。
しかし、上司にやんわりと叱られただけだと言うのが松井さんの気に食わなかったらしく、個別で松井さんのサポートをお願いされた。
くそ、ヒステリックババアめ。
後で覚えてろ。
それに会社も。
わざとゆっくり仕事をしてお前からがっぽり残業代取ってやるからな。
神話によると、この国のどこかに「ホワイト企業」というものがあるらしく、そこは、こんな苦行など一切存在しない理想郷であるらしい。
ぜひ就職してみたいものだ。
いや、就職したかった。
か弱い女性一人、冷たいオフィスの中でカタカタとパソコンのキーボードを叩く。
腹いせに大きな音を立てても、誰も文句を言わない。
虚しい。
泣きそうだ。
寂しくて同じ部署の同僚、イケメンA君がここにいることを妄想してみる。
「高木さん、疲れてない?俺、高木さんのこと心配なんだ」
「大丈夫よ。心配してくれてありがとう、優しいのね」
「……優しくするのは高木さんだけだよ」
なーんてね。
キャー!
でもそう言えば、A君は確か最近婚約したんだっけな。
超可愛い受付嬢と。
……あー、虚しい。
結局、妄想に拍車がかかって手元が疎かになり、当初予定していた帰る時間を大幅に超えてしまった。
いつもなら、とっくの昔に眠ってしまっている時間に会社を出ねばならぬと、半分自分のせいなのにいらいらしてタイムカードを入力させる。
私のために最後まで残ってくださった警備の方に挨拶して、冬特有の冷気に飛び込んだ。
「さっむーい」
結構なボリュームで独り言を言っても、誰も変な目で見ないというか誰もいないという事実に慄くが、ともかく明日は休みである。
よし、いっぱい寝て久しぶりに料理でもするかと、後で酷く後悔するような催し物を考え込んでいると、いつの間に自分の家付近に着いていたらしい。
だが、そこに家はなかった。
そう、家がなかった。
鳴り止まぬサイレンの音と、数本の水柱、明るいオレンジ色の世界、悲鳴、炎の欠片が飛沫のようにあちこちに飛び散っている。
焦げ臭さが鼻孔に入り、思い切り咳込んだ。
「大丈夫かしら」
なんぞ口々に仰っている近所のおばさま方と、にやにや笑いながら個人の家を撮影している野次馬共。
私は目をこすって、もう一度目の前を見つめる。
これは、誰の家だ?
なんか私の家に形が似ているんだけれど。
ものすごく。
どう考えても今燃えているのが実家にしか見えず、それを信じられない私は自分の頬にビンタを食らわす。
だが目の前の風景は一切変わらない。
夢ではなかった。
現実だ。
そうしている間にも、ひたすら燃え上がる自分の家。
怒りとか悲しみとか、そんな感情はついぞ湧いてこなかった。
ああそう言えば家に家に置きっぱなしだったな、通帳。
カードは持ってるから、お金は下ろせるんだろうけど。
「お姉さん、大丈夫ですか!?」
しっかりしてくださいと揺さぶられ、口々に質問してくるごわごわしたオレンジ色の人たちに向かって、あろうことか、
「……これ、保険おりますよね?」
なんて聞いてしまった私は馬鹿なのだろうか。
私は実家暮らしである。
だが、一人で住んでいる。
いや、今では「いた」、か。
ハハ。
全部燃えちゃったしね。
実家に元々住んでいた連中、すなわち私の家族は、たった一人の娘を置いて田舎の祖父母の元で農業を次ぐと一念発起し、今は遠い場所で大型機械を動かしている。
そういうわけで私は、せっかく地元で就職したのに結局一人暮らしになってしまったわけだが。
その住んでいた家が、全焼してしまった。
もうまるっきり。
理由はガス漏れらしい。
うちの家の古くなったガスコンロからやつが漏れ出し、乾燥した空気と化学反応を起こして火災発生。
幸か不幸か、近くに誰もいなかったせいで家は燃えに燃え、気づいたときには大炎上だったらしい。
一切私のせいではないが、もちろんご近所さんのせいではない。
誰かのせいにするのが不可能である。
だがあの野郎ども、私が、
「火災保険入ってる?」
と聞くと、
「うーん、どうだっけなー? 多分、入ってない、かな? いや、入ってる? ――ねぇお父さん、どっちだったっけ!?」
などと、曖昧なことを抜かしやがる。
はっきりしやがれ。
こちとら何もかも全部燃えてんのよ。
消防署で事情を聞かれ、警察署で事情を聞かれ、気が付くと夜明けである。
眠いし、怠い。
早く眠りたい。
あっ、家燃えたんだった。
早朝、唯一頼れそうな友人に連絡する。
「んー、もう、なによぉ。一体何時だと思ってんのぉ」
面倒くさそうな声で電話に出てくれた友人に、
「雛子ぉ。家、なくなっちゃったぁ……」
と、私は涙の交じった声ですがりついた。
10
お気に入りに追加
183
あなたにおすすめの小説
(完結)貴方から解放してくださいー私はもう疲れました(全4話)
青空一夏
恋愛
私はローワン伯爵家の一人娘クララ。私には大好きな男性がいるの。それはイーサン・ドミニク。侯爵家の子息である彼と私は相思相愛だと信じていた。
だって、私のお誕生日には私の瞳色のジャボ(今のネクタイのようなもの)をして参加してくれて、別れ際にキスまでしてくれたから。
けれど、翌日「僕の手紙を君の親友ダーシィに渡してくれないか?」と、唐突に言われた。意味がわからない。愛されていると信じていたからだ。
「なぜですか?」
「うん、実のところ私が本当に愛しているのはダーシィなんだ」
イーサン様は私の心をかき乱す。なぜ、私はこれほどにふりまわすの?
これは大好きな男性に心をかき乱された女性が悩んで・・・・・・結果、幸せになったお話しです。(元さやではない)
因果応報的ざまぁ。主人公がなにかを仕掛けるわけではありません。中世ヨーロッパ風世界で、現代的表現や機器がでてくるかもしれない異世界のお話しです。ご都合主義です。タグ修正、追加の可能性あり。

夫が寵姫に夢中ですので、私は離宮で気ままに暮らします
希猫 ゆうみ
恋愛
王妃フランチェスカは見切りをつけた。
国王である夫ゴドウィンは踊り子上がりの寵姫マルベルに夢中で、先に男児を産ませて寵姫の子を王太子にするとまで嘯いている。
隣国王女であったフランチェスカの莫大な持参金と、結婚による同盟が国を支えてるというのに、恩知らずも甚だしい。
「勝手にやってください。私は離宮で気ままに暮らしますので」
皇太后(おかあ)様におまかせ!〜皇帝陛下の純愛探し〜
菰野るり
キャラ文芸
皇帝陛下はお年頃。
まわりは縁談を持ってくるが、どんな美人にもなびかない。
なんでも、3年前に一度だけ出逢った忘れられない女性がいるのだとか。手がかりはなし。そんな中、皇太后は自ら街に出て息子の嫁探しをすることに!
この物語の皇太后の名は雲泪(ユンレイ)、皇帝の名は堯舜(ヤオシュン)です。つまり【後宮物語〜身代わり宮女は皇帝陛下に溺愛されます⁉︎〜】の続編です。しかし、こちらから読んでも楽しめます‼︎どちらから読んでも違う感覚で楽しめる⁉︎こちらはポジティブなラブコメです。

白い結婚をめぐる二年の攻防
藍田ひびき
恋愛
「白い結婚で離縁されたなど、貴族夫人にとってはこの上ない恥だろう。だから俺のいう事を聞け」
「分かりました。二年間閨事がなければ離縁ということですね」
「え、いやその」
父が遺した伯爵位を継いだシルヴィア。叔父の勧めで結婚した夫エグモントは彼女を貶めるばかりか、爵位を寄越さなければ閨事を拒否すると言う。
だがそれはシルヴィアにとってむしろ願っても無いことだった。
妻を思い通りにしようとする夫と、それを拒否する妻の攻防戦が幕を開ける。
※ なろうにも投稿しています。

結婚30年、契約満了したので離婚しませんか?
おもちのかたまり
恋愛
恋愛・小説 11位になりました!
皆様ありがとうございます。
「私、旦那様とお付き合いも甘いやり取りもしたことが無いから…ごめんなさい、ちょっと他人事なのかも。もちろん、貴方達の事は心から愛しているし、命より大事よ。」
眉根を下げて笑う母様に、一発じゃあ足りないなこれは。と確信した。幸い僕も姉さん達も祝福持ちだ。父様のような力極振りではないけれど、三対一なら勝ち目はある。
「じゃあ母様は、父様が嫌で離婚するわけではないんですか?」
ケーキを幸せそうに頬張っている母様は、僕の言葉にきょとん。と目を見開いて。…もしかすると、母様にとって父様は、関心を向ける程の相手ではないのかもしれない。嫌な予感に、今日一番の寒気がする。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
20年前に攻略対象だった父親と、悪役令嬢の取り巻きだった母親の現在のお話。
ハッピーエンド・バットエンド・メリーバットエンド・女性軽視・女性蔑視
上記に当てはまりますので、苦手な方、ご不快に感じる方はお気を付けください。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

完結 愚王の側妃として嫁ぐはずの姉が逃げました
らむ
恋愛
とある国に食欲に色欲に娯楽に遊び呆け果てには金にもがめついと噂の、見た目も醜い王がいる。
そんな愚王の側妃として嫁ぐのは姉のはずだったのに、失踪したために代わりに嫁ぐことになった妹の私。
しかしいざ対面してみると、なんだか噂とは違うような…
完結決定済み

【完結】新人機動隊員と弁当屋のお姉さん。あるいは失われた五年間の話
古都まとい
ライト文芸
【第6回ライト文芸大賞 奨励賞受賞作】
食べることは生きること。食べるために生きているといっても過言ではない新人機動隊員、加藤将太巡査は寮の共用キッチンを使えないことから夕食難民となる。
コンビニ弁当やスーパーの惣菜で飢えをしのいでいたある日、空きビルの一階に弁当屋がオープンしているのを発見する。そこは若い女店主が一人で切り盛りする、こぢんまりとした温かな店だった。
将太は弁当屋へ通いつめるうちに女店主へ惹かれはじめ、女店主も将太を常連以上の存在として意識しはじめる。
しかし暑い夏の盛り、警察本部長の妻子が殺害されたことから日常は一変する。彼女にはなにか、秘密があるようで――。
※この作品はフィクションです。実在の人物・団体とは関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる