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第1章 メイズ

逆転

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「きゃあっ!」

 シエルの悲鳴。
 ヘイゼルは呪文の詠唱を止めて、彼女の姿を探す。
 視界の遠い場所に見える小さな赤い影。うずくまっているのはシエル。その脇に立つのは、二人組の一方の赤い女。

(あの深手を負っていながら、出てくるとは)

 誤算だった。瀕死とは言えないものの、かなりの大怪我を負っていたあの女が出てくるとは思わなかった。

(あの魔導師にとっては単なる防御用の盾くらいにしか思われちゃいないだろうに――それも覚悟の上なのだろうか)

 ヘイゼルは動揺する心を落ち着けさせると、素早く印を結び自身に術をかけた。

「エア・ラウド・フロウ!」

 土の結界を解除すると、風の結界を身に纏い、身体を宙に浮かばせ、加速してシエルの元に向かう。

「逃がすかっ!」

 翼の生えたミステルは向きを変えて追い始める。だが、ヘイゼルの風の呪文の前ではその差は開くばかり。瞬時にしてシエルの傍に到達した。

「シエル!」

 口元から血を流すシエルの腕をとると、進路をそのまま湖に向けて飛ぶ。少女の意識はほとんどない。

(……油断した)

 少女を抱きかかえ、ヘイゼルは後悔した。これ以上、彼女を傷つけたくはない。緑の龍に守護される身だとしても、この少女の精神には酷だ。力が安定するまでは、できるだけ無事でいて欲しい。

(最後の手段に出るか……)

 思いかけて、躊躇する。頭を大きく横に振って考え直す。

(まだだ……まだ方法はある)

 風の結界が弱まると、勢い余って湖の岸に投げ出される。少女をしっかりと抱き締めて保護しながら地面を転がった。
 そこに追いかけてきた翼の男ミステルが追い打ちを掛ける。

「ディ・ス・エラ!」

 さっきと同じ攻撃呪文。黒い矢が二人に向けて降り注ぐ。この体勢でまともに避けられるはずはない。矢は広範囲というより、しっかりと狙いを定めているらしかった。

「ルプス・ポルタ・ワスターレ!」

 天に向けて構えた手のひらから暗い闇が蠢いたかと思うと、瞬く間に姿を獣に変え、大きな牙の生えた口を開き、攻撃呪文ごと空中で静止していたミステルを飲み込む。
 攻撃魔法を攻撃魔法で返されると思っていなかった相手は、対抗呪文の用意もなく飲み込まれる。召喚獣が消え去った後には、全身ぼろぼろの姿で落下し地面に叩きつけられた銀髪の男の姿があった。

「はぁ……はぁ……」

 鼓動が速い。身体にたまった疲労も限界が来ている。地下通路内では聖水の力もあって、そこまで体力を削ることはなかったが、さすがに何もない状況、しかも魔力増幅装置や補助魔法陣のない状況で強力な魔法を放つにも限りがある。

(せめてとられた衣装のすべてが揃っていれば……)

 心の中で恨み言を呟いたところで、何の解決にもならない。ヘイゼルは焦った。
 ふわりと舞い降りる赤い影と黒の闇。黒の魔導師は一時的に封じられていた力を解放できたらしい。赤い髪の女も、衣裳を改めて傍らに立っている。

「反撃はここまでかな?」

 黒の魔導師が馬鹿にするような口調で問う。

「赤の龍の力を全力で出せないこわっぱには興味はない。赤の龍もろとも消えてもらうぞ!」

 腕が伸び、ヘイゼルたちに向けられる。

(……ここまでか!)

 諦めかけたとき、シエルの呪を紡ぐ声が耳に入った。しっかりと紡がれる呪文。少女の開かれた目は虚ろであるが、声はしっかりとしている。無意識に反応する防御。相殺と共鳴を司る緑の龍のものだ。やがてシエルの瞳に緑の輝きが宿る。
 魔導師が怯んだ。
 この一瞬の躊躇がこの戦いの勝敗を分けた。

「ポルタ・ワスターレ・デス・ブラディア!」

 大地が揺れる。木々のざわめきが激しくなる。湖面が波立ち、光を帯びる。水面全体に巨大な魔法陣が形成され、中央がすっくと立ち上がると、それは龍の形となった。
 召喚魔法に神聖魔法を合成した、龍の力のなせる術。それがシエルの放った魔法の正体だった。封印するまでの力はないが、ある一定の期間において魔力のほとんどを奪うくらいには効果があるものである。
 瞬時に赤い髪の女は防御用呪文を発動させる。同時に魔導師も対抗呪文を唱える。

(そうはさせるか!)

 ヘイゼルは素早く印を結び、地面に簡易魔法陣を描くと術を放つ。

「ドラコー・ポルタ・ワスターレ!」

 術者の周りに黒の魔法陣が展開したかと思うと、それはやがて赤に変わる。ヘイゼルの背後から現れたのは、全身を炎で形作られた龍。彼を守護する赤の龍だ。

「くっ」

 魔導師はこの場から逃げようと術を試みたが、シエルの放った術の効果に対象をこの空間に閉じこめる作用があるらしい。何も起こらず、不発に終わる。

「行け!」

 ヘイゼルの強い意志が籠った声に応じて、赤の龍は魔導師とその部下を一飲みする。防御用結界魔法により、幾分か威力は殺がれてしまったようだが問題はない。結界自体を破るのが目的だったからだ。
 次の結界が形成される暇を与えることなく、シエルの生み出した緑の龍が二人を飲み込んだ。

「うぁぁぁぁぁぁ」

 森を渡る叫び声。赤の光の後にやってきた緑の強烈な光は、闇をかき消し、力を奪う。
 緑の龍は吸い取れるだけ魔力を奪うと、次に天空に出現した魔法陣の中に帰っていった。
 後に残ったのは二人の魔導師。女の方はぼろぼろになったまま気を失っている。黒の魔導師は、その姿を人型に保つことはできずに、なんとか塊としての存在を残すだけとなった。もう、魔法を放つ力は残されていない。
 しかしそれは、こちらも同じことであった。ヘイゼルもシエルも、魔法を放つ余力はない。もし魔法を放つなら、それは命と引き替えだ。

「黒龍様……!」

 ある程度離れた場所に落下していたおかげで、最後の術をくらうことのなかった銀髪の男ミステルが立ち上がる。とはいえ、彼にも戦闘を継続できるほどの余力はない。ぼろぼろの翼を消し去ると、魔導師の傍に寄った。

「……ローゼも動けないか」

 翼をしまったミステルが悔しそうに呟く。

「――ここはひくぞ」

 忌々しげに黒の魔導師が命じるとミステルは素直に頷き、二人を連れて呪文なしで空間を跳躍した。
 捨て台詞も無しに立ち去った敵を見送ると、ヘイゼルはほっとしてその場に腰を下ろす。
 辺りは静かな湖。空は青く、とても穏やかだ。気を失いそうになるが、シエルを護らなくてはという責任感からなんとか意識を保つ。

(こんな風光明媚な場所が生け贄の儀式に使われていたなんて……)

 ヘイゼルはそこまで思いだして、あるものに気付いた。
 シエルは小さく呻くと、意識を取り戻す。ヘイゼルに膝枕をしてもらっていたのに驚いたらしく、目を何度か瞬かせる。そして辺りの様子に注意が向けられ、敵が去ったことに安堵したらしく表情が緩んだ。

「……やっつけたのですか?」

 上体をゆっくりと起こすと、シエルは問う。

「あぁ、君のおかげでね。――でも、言ってくれたら良かったのに。もう、儀式は終わっているってさ」

 波打ちぎわに揺れている、金色を帯びた糸で作られた人型。それは少女の髪で作られた人形であった。
 シエルは苦笑する。

「……そうですね。実は、祭りのひと月前に、つまり、あなた方が来る前に儀式は終えていたのです。祭りは、その儀式が無事に終えたことを示すもの。……騙すつもりはなかったのですが、安全のためには仕方がありませんでした」
「まぁ、おかげで大逆転を決めることができたんだがな」

 ふぅっと大きな溜息をつく。

(結局、シエルは伝説をどこまで知っていたんだ? 俺を半殺しにしたのも、敵の目を欺くためか……? いや、それにしては生死を彷徨ったんだが……)

 これ以上考えてはいけない。ヘイゼルは思考を切り替えるつもりで話を続ける。

「――一応、あの魔導師を追っ払うことはできたんだが、倒した訳じゃない。君の力、緑の龍の力によって一時的に魔力を奪っただけだ。また俺や君を襲ってくることだろう。龍の力の媒体になっている以上は」
「そうですね……。覚悟はできています」

 凛々しい顔つきで、シエルは答える。年齢にそぐわない大人びた表情は、その役職や境遇のためだろうか。

「君ほどの法力を持っていれば、安心だろう」

 ヘイゼルは大きく伸びをする。疲れ切っていて、早くどこかで休みたいところだ。

(そういえば)

 この事件の最初の誘導にヘイゼルはようやく気付いた。シエルから聞いた話で覚えていた違和感も、これで説明がつく。ヘイゼルは口の端をわずかに上げ、思わず苦笑した。

「――あの魔導師、よく考えたものだな」
「何の話です?」

 シエルがきょとんとして首を傾げる。そんな彼女にヘイゼルは自身の髪を指差した。

「俺が気に食わない赤い髪を黒く染めていることを良いことに、この街の伝説を利用したんだよ。自身は髪を赤くして騙そうとしたわけだ。つまり、あの男は俺に化けていたって訳。俺が先にここに来て調査するはずだったのに、その紹介状を複製して先に乗り込み待ち伏せしたというところなんだろう。手の込んだ真似をしやがって」

 むっとしながらヘイゼルが告げると、シエルはくすくすと笑った。

「何がおかしい?」
「だって、子どもっぽい発言だと思ったものですから」

 くすくすと明るくシエルは笑う。張りつめていた感情が解放された反動だろう。
 ヘイゼルは反論できずに黙り込む。どうもシエルのほうが上手のようだ。

「……さて、これからどうする?」

 笑いが落ち着くのを待って、ヘイゼルは切り出す。

「俺と一緒に来るか?」

 答えは分かっていたが、それでも尋ねてみる。誘っておいた方が、何となく格好がつくと思ったからだ。
 シエルはヘイゼルが予想したとおりに首を横に振った。

「いえ、私にはこの町の民を護る義務があります。お父様が亡くなった以上は、私が事情を説明し、平和に務めねばなりません。まだまだ様々な祭事があります。それらを取り仕切るのは、お父様の次の位にある私となるでしょうから」

 誘いの台詞に対しどこか嬉しそうに見えたのは、気のせいだろうか。

「そうか。そう答えると思ったけど、残念だよ」
「――あなたこそ、私のそばにいてはくれませんか?」

 シエルがヘイゼルの瞳を覗き込み、すがるような目で見つめてくる。ヘイゼルは残念そうにふぅと小さくため息をついた。

「悪いが、直にザフィリで青の龍の祭りがあるんだ。間に合うように出発しないと」
「……忙しいんですね。断られるとは思っていましたが」

 心底残念そうに呟くと、シエルは隣にぴったりとくっついて腰を下ろした。少女の体温がヘイゼルに伝わってくる。

「君の力が安定した頃に迎えに行くよ」

 ヘイゼルが提案する。そもそも、黒の龍の力を鎮めるためには、他の八つの龍の協力が不可欠だ。必ずまた、会える日がやってくる。ただしこの代で、すべての龍が地上に降り立つことができればという条件が付くが。
 今のところ、祭りは始まっていないところが多い。期日に間に合い、生け贄の儀が始まる前に阻止することができればなんとか可能性がある。
 シエルは首をまたしても横に振った。
 彼女の奇妙な反応をヘイゼルは訝しがる。目を向けるとシエルはにっこりと微笑んだ。

「私があなたを迎えに行きます。体力をつけて、今度は足手まといにならないように」

(言ってくれるな、彼女)

 そんなシエルの態度には参ってしまって、ヘイゼルは視線を空に向けた。

「わかった。楽しみに待っているよ。……そうなったら、俺も命を無駄にはできないな」
「そうですよ。簡単に死ぬことを考えてはいけません。この世界の危機を救わなければいけないのですから」
「……そうだな」

 しばらくの間、二人とも黙ったまま休んだ。心地よい風が湖を渡ってくる。さっきまでの血生臭い戦闘が嘘のようだ。

(こんな死闘を繰り広げているようじゃあ、命がいくつあっても足りないな)

 ヘイゼルは心の中で苦笑する。とはいえ、今回の戦いで受けた最もひどい怪我は隣でぼんやりと空を見上げている少女によるものなのだが。
 それを思い出して、ヘイゼルは再び特大の溜息をつく。まだまだ先は長そうである。

「そろそろ行くか。歩けるか?」

 立ち上がると、手を差し出す。

「はい。大丈夫です」

 その手を借りてシエルは立ち上がった。ヘイゼルの気遣いがよほど嬉しかったらしく、彼女は今までで一番の笑顔を見せた。

「道を案内します、ヘイゼル様。もう、地下通路を歩くのは嫌です」

 すたすたと元気よく歩き始める。どうやら龍の加護によって回復が早いらしい。
 ヘイゼルは小走りにその後ろを追いかける。

「……ヘイゼルでいい」
「……?」

 隣にやってきたヘイゼルの顔を覗く。

「初めて名前を呼んでくれた」
「私なんて、初めて呼び捨てにされましたけど」

 肩を竦めてシエルは言う。

「それは失礼しました」

 あらたまってヘイゼルがかしこまると、シエルは首を横に振る。

「いいえ、シエルで結構です。そんなに響きは悪くないですし。なにより、あなたしか呼ばない名前ですから、特別な感じがして良いじゃありませんか。今までどおりでお願いします」

 くすくすと満足げに笑ってシエルは答える。

「……」

 ヘイゼルは何か言おうと思ったが、うまく台詞にならなかったので止める。本人は気付いていなかったようだが、その頬は明らかに上気していた。視線を正面に向けて冷静を装っているいじらしさが、年相応の少女らしさを滲ませる。

「服もお返ししますね。どこかに保管されているはずですから。魔力増幅用の道具無しに、よくあんな召喚魔法を何発も出せたものですね」
「……あのとき、君は気を失っていたんじゃ……」

 ヘイゼルは不思議そうな顔をする。シエルは不敵に笑う。

「法衣を馬鹿にしないで下さい。エメロードは封魔法で有名な街なんですよ? あの程度で倒されているようじゃ名が廃れます」
「でも、あの血は……」
「それについては不問と言うことでお願いします。秘術ですから」

 可愛らしく片目をぱちっと瞬きされてしまっては、ヘイゼルも黙るほかになかった。完全に彼女の流れだ。

「了解。君には負けたよ」
「?」

 ヘイゼルは諦めて、彼女に話を合わせることにした。まだ幾つか疑問が残っていたが、彼女はきっと答えてはくれない。不毛なやり取りが続くのも疲れる。ヘイゼルは特大のため息をついたのだった。
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