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第1章 メイズ

対峙

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 地面が見えた。うっすらと開いた瞼の間からそれだけが見える。
 土の床の冷たい感触とともに、足首の痛みと、ぬるりとした生暖かい液体が纏わりついている感じが脳に伝わる。口の中に広がる、錆びた鉄の味。かなり出血したらしい。倦怠感が襲ってくる。

(あの子も加減してくれなかったんだなぁ)

 心の中で大きな溜息。彼女が術を少し改変していることは、聞いているうちに気付いていた。

(何の話をしているんだろうか……)

 ようやく音が入ってきた。少女と男女二人組の声。どちらも知っているものだ。

「――モルゲンロートから来たという使節団一行。あなた方の役目を、私は知っております」

 シエルの声だ。震えているように思えるのは、気のせいだろうか。さらに彼女は続ける。

「生け贄となる人間が自ら命を絶つのを見守るためです。モルゲンロートには、龍神に仕える者たちが集い、日々学問に励んでいると聞き及んでおります。あなた方の、そのマントに描かれた紋章、そして同じ意匠の片耳の耳飾、そして帽子……、それらは『監視』の役目をする者のみが許されているものだと教えられました」

 そう告げるシエルに、男が「ふっ」と声を噴き出したのが聞こえた。この声は魔導師とともに来たという従者の一人であろう。ヘイゼルは会ったことがあったのだが、名前は聞いたことがなかった。顔を合わすたびに命の取り合いをしてきたのだ、自己紹介など必要ない。そんな男の笑いが、室内に響き渡る。

「ははははは、あぁ、傑作だ。まさかこんな興味深い場面に遭遇するとは思わなかった」
「なに? それは神官から聞いたの? 過去に生け贄として選ばれかけたあの男が」

 続いて聞こえてきたのは女の声。化け物と化した神官を倒したあとに現れたあの女の声だ。彼女もまた魔導師の従者だったはずだ。

(とにかく、あいつらが攻撃してくる前にどうにかしないと……)

 ヘイゼルは小さく呪文を唱える。
 少女は彼が起きたのに気付いたようだ。口元を僅かに笑みの形にしたのがヘイゼルの目に入った。瞳の輝きに希望の光が差す。

「お父様は哀れな男です。悪の囁きなどに耳を貸さなければよかったものを」

 ぎゅっと羊皮紙を握り締める。

「お父様のためにも私はここで引くわけには行きません。この街の民のためにも」

 杖をすっと二人組に向けて振り下ろす。

「モノ・ウィリア・ルシール!」

 予備詠唱を全て省略して放った術はヘイゼルに向けられた増幅用神聖魔法で、少女の強い意志を秘めた声に呼応して空間に描かれた魔法陣が光を放つ。

「アクア・スパロ・ストーク!」

 少女の援護を待ち、地に伏して予備詠唱を唱え終えていたヘイゼルは二人組に向けて水の精霊魔法を放つ。
 地を這うように伸びた蒼の水は小さな火花を放ちながら目標に向けて勢いをつけると急に立ち上がり飲み込む。

「リ・フロディ・ウォル!」

 ぎしぃっ。
 何かが軋む音。術を放ったのは銀髪の男だ。蒼い波を瞬時にして相殺したらしかった。咄嗟に放った術であるにもかかわらず、その力は安定している。

「ちっ」

 不意打ちを狙ったはずがまったく奏していない様子にヘイゼルは舌打ちし、飛び起きて体勢を整える。シエルの傍に寄り添うように、攻撃の構えで立つ。
 シエルはヘイゼルを気遣う言葉はかけず、次の攻撃のために援護魔法の予備呪文を唱え始めている。
 ヘイゼルもその旋律を聞き取って、何も言わずに呪文詠唱に入る。

「温いね。まだまだ甘いよ、君も。わざわざあの方が出てくる必要もないね」

 さらさらと流れる銀髪を手で払うと、次の瞬間にはその手の中に暗い闇色の剣が出現した。まったく呪文を唱えた様子はない。この男はいくつかの使い慣れた術なら、何の予備動作や呪文がなくても出すことができた。それだけ慣れていたともいえたし、魔力の容量の違いともいえた。が、それ以上に違うことは――。

「二人もろとも、ここで消えてもらうよ!」

 ふわりと体が宙に浮かんだかと思うと、数瞬のうちにシエルたちの前に現れる。

「ジ・グラウト・アス!」
「アクア・デス・ライド!」

 翠の光が二人を包む。
 銀髪の男の黒い剣が二人を薙ぐ。
 それをヘイゼルが術によって生み出し集めた水の拳で受け止める。
 互いの力が強い風を生み、弾かれるようにして後方に機敏に飛び退いた。

「モノ・グラウト・アス!」

 間髪いれずに、ヘイゼルが着地をしたところでシエルが防御用神聖魔法を放つ。翠の光がヘイゼルを包む。

「あら、相手を気遣ってばかりでいいのかしら?」

 シエルの耳元で囁かれる、ねっとりとした女の声。
 素早くシエルは体の向きを変えた。

「ディ・ス・ジ・マジク!」

 すぐ後方にいた女は、振り向いてがら空きになった腹部に向けて術を放つ。黒い球体がはじけ飛んだ。
 避けられるような時間は全くない。まともに食らってシエルは地面に叩きつけられた。赤いしみのついていた白の法衣がさらに赤く染まる。じわりと、なんて生ぬるいことはなく、さぁっと水面に波紋が広がるかのように土の床に赤い花が咲く。

「ルプス・ポルタ・ワスターレ!」

 ヘイゼルは、目標を対峙していた銀髪の男ではなく赤髪の女に向けて放つ。ヘイゼルの足元に闇を吐き出す魔法陣が出現したかと思うと、彼が目標にまっすぐと向けた手のひらから強烈な力の塊が湧きあがり、動き出す。それは目標に向かって瞬く間に突進し、その形を整えていく。
 召喚獣だ。鋭い牙を持つ、真っ黒な獣。それは大人の背丈の二倍をゆうに越える大きさを持って、女を飲み込もうとする。
 女も応戦すべく術を唱えるが間に合わない。
 銀髪の男がすばやく言い放つ。

「リ・アクマジ!」

 女を包む術の薄い法壁はヘイゼルの呼び出した獣の力の前では無力で、パリンと薄い氷が砕けるような音を立てて崩れ去る。

「くっ」

 消えた黒の獣のあとには、何とか耐えた女の姿。マントは所々破れ、肌の露出した部分は赤く染まっている。額からも赤い筋が延びていた。

「エクエス・ポルタ・ワスターレ!」

 息つく間もなく女に向けて再び召喚魔法を放つ。
 それを予想していたのか、銀髪の男は術者であるヘイゼルに向けて闇の刃を突き出す。

「誰が甘いって?」

 ヘイゼルの口元が綻ぶ。瞳が紅く光る。
 銀髪の男が怯んだ。手元が狂う。

「ドラコー・ポルタ・ワスターレ!」

 呼び出した最初の召喚魔は闇色の馬に乗った黒い衣装の騎士で、その手には大きな槍を構え、その姿を捉えたかどうかというときにはすでに女の間合いに入り込んでいる。もちろん、避けられるわけがない。
 次に呼び出したのは同じく闇色の瞳を持つ流れ。身を裂かれそうな殺気の持ち主は精神だけを持つ者で、形を持っていない。人間はこの形を持たぬものを龍と呼んだ。

「くそっ」

 銀髪の男は勢いがついていたために自ら術の中に飛び込むような形になる。しかし、触れるか触れないかのところで姿を消す。
 一方の女も、掠りはしたもののやはり姿を消していた。

「……逃がしたか」

 ヘイゼルは足首に巻かれた紐をおもむろに引きちぎる。それらはいとも簡単に解くことができた。

(血で血を洗い流すってことか?)

 動き回るうちにシエルの血液に触れた足首の呪符が、その効力を失ってしまったのに気付いたのだ。それで精霊魔法からより強力な召喚魔法を使うことにしたのである。
 ヘイゼルはあたりの様子を再度確かめると、倒れているシエルに駆け寄った。
 シエルの周りはその少女の血で赤に染めあがっている。身に付けていたマントもその血を吸っていてかなり重い。
 ヘイゼルはゆっくりと抱き上げる。呼吸も、心臓も止まっている。いわゆる、死。

(まだ、間に合うだろうか)

 少女の傍に落ちた魔法陣がまだ光を残している。
 迷っている時間はない。ヘイゼルは冷静に言葉を紡ぐ。
 歌のような旋律。
 ヘイゼルは静かに言の葉をなぞる。
 風の囁きにも似た穏やかな声。
 祈りにも似た呪文。
 魔法陣から光がふわりと抜けて、少女に宿った。
 翠の柔らかな光が包んでいる中、ヘイゼルの腕の中でシエルは息を吹き返した。

「けほっけほっ」

 軽く咳き込むと、少女はゆっくりと目を開ける。
 ヘイゼルはまだ呪文の詠唱を止めない。
 どのくらいそうしていただろうか。彼女の体温が回復してきたのを感じて、ヘイゼルはやっと歌をとめて声をかけた。

「大丈夫か?」

 少女は小さく頷く。身体の自由が戻ってきたらしい。彼女は自分の力で起き上がって見せた。

「ったく……。無茶してくれるよ、君は。こっちは本気で死ぬかと思ったぞ」

 面倒くさそうに頭を掻きながら言う。

「まずは感謝してほしいものです。こちらも魂が抜けていますし」

 大げさに肩を竦めて見せる。かなり回復したようだ。

「大体、神は人間を喰うようなまねはしないと言っておきながら、神の力に触れるためには一度身体から魂が抜けなきゃいけない、つまり仮死状態にならないといけないだなんて聞いていませんよ!」

 身につけていた重いマントを外しながら、シエルはむっと頬を膨らまして言う。

「え? 知っていたから俺を半殺しにしたんじゃなかったのか?」

 呆れたというような口調で、でもあまり感情的にならないよう抑え気味にヘイゼルは問う。

「あれはまぁ……事故みたいなものですよ」

 冷たい笑顔を浮かべてさらりと流す。

(事故……)

 ヘイゼルは言いたいことがまた増えてしまったことに、多少苛立ちながらも問うのをやめる。あまり深く聞いてはいけないような気がした。

「……とりあえず、まだあいつらは倒したわけじゃない。近くに潜伏していると思う。これからどうするのがいい?」

 気を取り直し、冷静さを前面に出して問う。

「そうですね……策といえるものは私にはありません。この場所に溜まっていた法力も全て使い果たしてしまいましたし。これで私が伏せてきた策は皆無です」

 シエルもようやっと落ち着きを取り戻したらしく、熱っぽく語っていた口調が穏やかになる。少し紅くなったのは自分の行いに恥じらいを感じた所為か。

「うむ。そうだな……」

 この場所は緑の古代文字で描かれた、何かの儀式を行うような空間だ。中央には聖水を溜める泉が設けられており、入り口から最も遠いところには数段高くなった部分がある。どうやら祭壇とはここであったらしい。入ったときから異常なほどの法力を感じ取っていたのだ。だからあの二人の追っ手も簡単に足を踏み入れることができなかったのだろう。

「魔力も解放されたことだし、張り切って元凶を倒しに向かうのもよいけどな」

 手首をさすりながら提案を始める。

「ここに用事がないとすれば、別の場所に移動したほうがいいかもしれない。あいつらも黙っちゃいないだろう」
「……そうですね。では、外に向かいましょう。ここから出るとすれば、身捧げの湖に出ることになると思いますが」

 浮かない顔でシエルは一つの案を出す。そのときには重い衣装を何枚か脱ぎ捨て、軽装になっていた。かつては白かったはずの服が全て真っ赤に染まっているのには、二人とも思わず顔を見合わせて苦笑してしまう。
「仕方ない。やつもそこで待っているだろうし」

 閉口する様子でヘイゼルは呟く。

「そうと決まれば、早速行きましょう。道はわかります」
「よっし。あまり気乗りがしないけど行きますか」

 片手を差し出して言うヘイゼルに、シエルは首を傾げた。

「歩ける?」

 シエルは何も答えずにただ嬉しそうに微笑む。

「じゃ、案内よろしくな」

 軽々と少女を抱きかかえるとヘイゼルは指示通りの方角に足を向けた。

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