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その炎は血よりも紅く

*7* 9月7日土曜日、昼【A】

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 遊輝《ゆうき》の家を紅《こう》が訪ねるのは初めてだ。時刻は十四時を過ぎ、夏の強い陽射しを残した太陽がガラス面の多い洒落た白浪《しらなみ》邸を照らしている。

「おかしいな」

 タリスマンオーダー社のステーションワゴンから降りるなり、抜折羅《ばさら》が首を傾げた。

「何が?」
「スティールハートの反応が鈍すぎるんだ」

 ホープを使って確認したようだ。抜折羅は不安げな表情を浮かべながらも、インターフォンを押した。

「いらっしゃい、二人とも。歓迎するよ。鍵は開けてあるからアトリエまで上がって」

 出たのは遊輝だった。明るい声はいつもと同じだ。

「行くぞ、紅」
「うん」

 階段を上り、二階へ。抜折羅の案内で遊輝の私室兼アトリエに入った。
 南西に面した広い窓。その手前は遊輝の作業スペースらしい。薄手のカーペットの上にはイーゼルとキャンバスが設置されている。ドアの対角線上には大小様々なキャンバスが立てかけられていた。

「嬉しいよ、紅ちゃん。見舞いに来てくれて」

 遊輝はにこやかに紅たちを招いた。自室にいたからか、彼はいつも束ねている長い銀髪をそのままに流している。

「先輩、どうして使わなかった?」

 抜折羅の台詞には責める気持ちが滲んでいる。

「使う必要がないからだよ」
「何のことを言っているの?」

 紅が抜折羅に問うと、彼は視線を遊輝に向けたまま返事をした。

「先日の暴力事件で、スティールハートの力が枯渇《こかつ》しかかっているんだ」
「え?」

 そこまでダメージを受けていたとは思わなかった。紅は遊輝を見る。

「紅ちゃんも優しいね。心配してくれるんだ」
「だって……先輩はあたしを助けてくれたから」
「その優しさに付け入ろうかな」

 遊輝の手が紅の手首を掴み、彼女の軽い身体を引き寄せる。体勢が崩れたところで、支えるように腰に手を回された。

「先輩っ!?」

 ぐっと抱き寄せられて、逃げ場がない。顔が近いと思ったときには口付けを受けていた。

「んっ……」

 しばらくはもがいていたが、遊輝の舌が口内に入ってくると抵抗できない。深い口付けに意識がふわふわとして、身体の力がすっと抜けた。全体重を遊輝の左腕に預けたところで、ようやく彼の唇が離れていく。

「紅ちゃん、キスが上手くなった?」
「あぅ……んっ……」
「喋れなくなっちゃうところは相変わらずなんだね。可愛い」

 ぎゅっと抱き締められる。されるがままの状態は不本意なのだが、なかなか身体のコントロールが戻らない。

「……で、抜折羅くんはどうするの? ちょっとした腹《はら》癒《い》せと回復を兼ねて、紅ちゃんと抜折羅くんに意地悪なことをしてみたつもりなんだけどな」

 紅に頬ずりをしながら、視線は抜折羅を捉える。

「え、あ。……処理が追い付かなかった」

 想像を越えた出来事に固まっていたらしい。ぽかんとしているように見える。

「怒るかなーなんて思っていたんだけど。抜折羅くんにとって紅ちゃんは、いまだにその程度の存在なのかな。がっかりだよ」

 ふぅ、とため息をつくと、遊輝は紅の額に口付けを落とす。

「それと、紅ちゃんもあっさり僕を受け入れないこと。次は本気で抱くよ? 危機感を持ったら?」
「しょ、しょうがなひじゃなひでしゅかっ……」

 舌がうまく回らない。紅は涙目で遊輝を睨《にら》む。

「よしよし、僕を嫌いにならないでいてくれるのは嬉しいけど、そろそろ一人に絞ろうね。なんとなくで閣下に刺されたくないからさ。紅ちゃんは僕以上に欲張りさんだね」

 紅の頭を撫でると、遊輝は抜折羅に紅の身体を託した。

「ふにゃっ」

 抜折羅に抱き付いて、なんとか身体を支える。不本意だ。

「――で、ここまでが余興ね。紅ちゃんのお陰でやっと外せるよー」

 言って、遊輝は自分の左耳からピアスを抜き取った。片耳だけのそれは、一カラットほどのダイヤモンドがはまっている。輝きは鈍い。

「それは?」

 抜折羅が訝《いぶか》しげな目で見つめている。

「魔性石だったものだよ。多分、翠川《みどりかわ》皐月《さつき》が付けていたものの片割れ」
「何でそんなものを先輩が?」

 当然の問いである。紅も訊きたかった。

「自力で魔性石を回収しようかな、なんて思って、前にホープの反応があったって場所に行ってみたら、これが大当たり。だけどスティールハートの出力不足で負けちゃってさ。手先にされかけたわけ」
「手先にされかけたって……どうして無事だったんだ?」

 あっさりと遊輝は言ってくれるが、とんでもない発言である。動揺しているのがわかる抜折羅の問いに、遊輝は答えた。

「僕が裏表のない人間だからじゃない? 抑圧を解放する力を向こうは持っているみたいだけど、そういうのはすぐに昇華するようにしてるからさ」

 言って、キャンバスの山を指す。彼の煩悩はすべて芸術に向かうのだろう。

 ――あれだけ自由にセクハラしていたら、欲求不満にはなりにくいと思うけど。

「紅ちゃんと二人っきりになっていたら、スティールハートを回復させて誘惑に抵抗するなんて芸はできなかっただろうとは思うよ。抱きたいって思う気持ちは否定できるものじゃないし、軽いスキンシップだけで満足できるわけがないもん。そこは抜折羅くんがいてくれて良かったとは思う。ただ、止めてくれることを期待していた僕が何を見誤ったのか、説明してくれると嬉しいね」
「悪かったな。二度目はないから安心しろ」

 抜折羅の大きな手のひらが紅の頭を撫でる。その感覚が安堵感を呼び、紅はやっと一人で立てるようになった。

「何はともあれ、厄介な相手だよ。実のところ、件の場所は何度も歩いているんだよね。なのに今回ヒットしたってことは、僕が弱っているのを見越して現れたってことなんだと思うんだ。スティールハートは紅ちゃんのキスのお陰でほぼ全快できたから、そう簡単に落とされることもないだろうけど、抜折羅くんの方は大丈夫かい?」
「現状は六割くらいかな。昨日は三割を切っていたから、だいぶ使える」

 その台詞に、遊輝がにやぁっと笑む。非常に愉快そうだ。

「おや、紅ちゃんに回復させてもらってはいるんだね」
「に、ニヤニヤするなっ! 接触で受け渡しができるなら、手を握るだけでも充分だろ?」
「でも、六割じゃ心許なさすぎ。せめて八割はないと、浄化できないんじゃない?」
「む……」

 遊輝の指摘は的を射ているらしい。抜折羅は顔を赤らめたまま口を噤む。

「紅ちゃんに〝浄化の炎〟を使わせたくないなら、キスしてもらったら? じゃなかったら、一晩添い寝だろうね。そんな状態じゃ、行かせられないよ。僕じゃ〝石憑《いしつ》き〟から魔性石を抜き取ることができないんだから、その辺も考慮してね」
「って、あたしに拒否権はないんですかっ!?」

 黙って耳を傾けていたが、前提条件がなにやらおかしい。抜折羅が乗り気じゃないのが救いだ。

「ん? 好きな相手なら気兼ねなくキスくらいできるでしょ? 僕とはするのに、彼とはできないの?」

 遊輝は自分の唇に長い人差し指を添えて、意地悪っぽく笑んだ。

「それは話が――」
「僕にはね、君たちが互いを好いているように見えるんだよね。それが勘違いだっていうなら、僕の恋路は邪魔して欲しくないわけ。電話やメールで散々君たちの面倒をみてきたつもりだけど、よき先輩を演じるのも飽きてきちゃった。これを機に、はっきりさせておかない?」
「俺は自分勝手なあんたとは違う。紅を大事に扱って何が悪い」

 紅の前に立って、抜折羅ははっきりと告げる。

「できる限り紅を尊重したいんだ。俺はそういう付き合いをしたい」

 抜折羅の答えに、遊輝は真顔に戻って目を瞬かせ、そして微笑んだ。

「ふぅん。それが抜折羅くんの本音ね。――良かったね、紅ちゃん。君の気持ちは報われそうで」
「む、報われ……? いや、あたし、抜折羅には何も求めてないですけど」

 手を振って否定するが、遊輝はくすくすと楽しそうに笑うだけだった。
 紅は抜折羅と互いに見合わせて、訝しげな顔をする。

「とにかく、回復は絶対だよ。これから挑みに行っても良いけど、閣下を置いていくのも悪いし、ひとまず作戦会議でもしようか」
「そうだな。星章《せいしょう》先輩にも声を掛けておかないと」
「あたしが電話掛けるわ」

 紅が率先してスマートフォンを取り出し、蒼衣《あおい》に電話を掛ける。十五時を過ぎたので、青玉祭一日目は終わっているはずだ。片付けをしている最中であれば、電話は出やすいだろう。
 コール音が長い。忙しいのだろうか。紅が諦めて電話を切ろうとしたとき、やっと繋がった。

「もしもし? 今、大丈夫?」
「火群《ほむら》さん?」

 声は女性のもの。凛とした声には聞き覚えがある。

「青空《あおぞら》先輩?」
「ええ。そっちは火群さんなのね。あなた、今誰のスマートフォンに掛けているの?」
「星章先輩に、ですけど……」

 向こうがどんな状況なのかわからない。蒼衣に掛けたはずの電話に瑠璃が出るのは妙だ。

「そう……。なら、星章君が今どうしているのかなんてわからないわよね?」

 瑠璃の声には珍しい焦燥が含まれていた。
 嫌な予感がする。背筋がひんやりとしてくる。

「何か……あったんですか?」

 自分の声が震えていることに、紅は驚く。様子がおかしいことに気付いたらしく、抜折羅と遊輝は黙って紅を見つめる。

「昼休みから、星章君の姿が見えないのよ。捜している途中でこのスマートフォンを拾ったのだけど……」

 状況を聞くに、これは非常事態だ。蒼衣が誰にも行き先を告げずに姿をくらましたことなど、紅が記憶している限りでは一度もない。

「わかりました。あたしも捜してみますね。何かわかったら連絡ください。あたしの連絡先は海宝《かいほう》さんか藍染《あいぞめ》先輩に聞けばわかると思います」
「承知したわ。私の連絡先もその二人と共有しているから、聞き出してちょうだい。ではまた」

 通話が切れる。

 ――蒼衣兄様が消えた……? 

 呆然としていた紅の肩を抜折羅が掴む。それで紅は我に返った。

「何があった?」
「星章先輩が……行方不明だって。スマートフォンも持たずにいなくなるなんて変よね?」
「まさか、向こうを襲ったのか!?」

 抜折羅の導いた結論は紅も同じ。紅は遊輝に目を向けた。

「白浪先輩、〝紺青《こんじょう》の王〟がどこにあるかわかりますか?」
「了解。全快しているお陰で、ここから宝杖《ほうじょう》学院まではサーチできるよ」

 遊輝は胸元に右手を当てると、両目を閉じる。そしてすぐに開けた。

「やられた。向こうのホープと一緒みたいだ。〝紺青の王〟を制御できていれば落とされることはないと思うけど、万が一のことがあればこちらが不利だ」

 ちっと舌打ちをして遊輝が険しい顔をする。

「サファイアの〝鎮める力〟を使われたら、手出しできないだろうからな」

 抜折羅も厄介そうな表情を浮かべる。

「だったら迎えに行くわよ、抜折羅」

 思い切って抜折羅の頬に手を伸ばす。そして素早く背伸びをして口付けをした。触れるだけなのに火傷しそうなくらい熱い。

「紅……?」

 驚きで見開かれた抜折羅の瞳には、青白い光が宿っている。力の受け渡しは成功したようだ。

「勝利のための口付けよ。あたしからするキスは初めてなんだから、期待に応えてよね?」
「……だな。無駄にはしないよ」

 紅の頭を撫でながら笑む抜折羅の様子がとても穏やかで、安らぐ感じがした。

「準備はできたかい? 敵の本拠地に案内するよ」

 冷やかしの気持ちがこもった遊輝の台詞を聞いて、紅は急に恥ずかしくなった。

 ――白浪先輩の前ですることはなかった……。

「行くぞ、紅。俺は必ずホープの呪いを解いてみせるから」

 差し出される抜折羅の手。紅は戸惑うも、しっかりと握った。

「うん。行きましょう」


(第5章 その炎は血よりも紅く 完)
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