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1巻

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   第1章 元凶再び


『――お願いです。どうか生きるのを諦めないでください。あなたを失いたくないのです』

 ぐったりとした私の身体を抱きかかえ、見知らぬ青年が必死に声をかけてくる。けれど彼の温もりが、彼のにおいが、なぜか強烈ななつかしさをともなっていた。
 そのことがとても不思議ではあるのだが、これは夢だと自覚した途端、引っかかりは消えた。そういう設定なのだろうな、と冷静に受け止める。
 私にとって、夢だと理解して見る夢は珍しい。
 ならどうしてこれを夢と言い切れるのか。それは簡単なことである。
 私には恋人どころかこんな風に真摯しんしな想いを向けてくれる男友達だっていない。現実の私は婚約者探しの真っ最中だ。
 身長が高く、体格もよさそうな彼には全く見覚えがない。
 私の知り合いの誰かがモデルになっているというわけでもない気がする。夢は無意識の産物らしいから、こういう男性が私の好みのタイプだとでもいうことだろうか。
 一方、夢の中の私の身体はとても華奢きゃしゃで、彼と比較すると本当に細っこい。いかにも骨と皮といった様子から考えて、栄養失調状態なのかもしれない。かなり衰弱すいじゃくしているようで、どこもかしこも力が入らなかった。
 薄暗くてこの場所がどこなのかよくわからないが、唯一の光源が揺れているさまから、蝋燭ろうそくのようなものが照明として使われているのだろうと想像できる。薄い布越しに尻に当たる、ひんやりと冷たい上にゴツゴツした床は、岩場を想起させた。結果、ここは洞窟のような場所なのではないかと考えたが、どうしてそんな場所が夢の舞台になっているのかはわからない。

『僕をうらんでいるのだとしても、こんな手段を選ばなくてもいいではありませんか』

 彼は私の手を取った。枯れ枝のような私の指に、ふしくれだった彼の指が絡む。
 私があなたをうらんでいる? どういう設定なのよ、それは。
 尋ねたくても声にはならない。私の夢なのに、自分でコントロールできないなんて不便だ。もう少し融通ゆうずうを利かせてくれてもいいと思うんだけど。
 不満であるが、彼の独白を聞き続けるしかないようだ。

『僕はあなたと仲良くなりたかった。今からだってきちんと向き合えば、きっとわかり合えると思うのです』

 どうしたらいいかわからないといった様子で、私の頬にたくさんの涙を落としながら、青年は私に言いつのる。本当はこの状況がすでに手遅れだと理解しているのだろう。
 私のためにそんなに泣かないで。
 よくわからない設定が次々に出てきている気がするが、彼から伝わる切実さに感化されてしまえば、細かいことなどどうでもよくなってきた。この青年にとって、夢の中の私はかけがえのない存在なのだ。それだけわかれば充分だと思えた。
 彼の涙をぬぐいたくても、私はもう指一本動かせない。何か言わなければと声を出しかけて、激しくむせた。この身体はどこまでも私の言うことを聞いてくれないようだ。
 ああ、もう終わりなんだな……
 別離のシーン。夢ではあるが、私はこのまま彼の腕の中で息絶えるのだろう。

『……僕のことはうらんだままで構わない。だけどせめて、あなたの来世での幸福を僕に願わせて』

 ぎゅうと抱き締められると、彼の匂いが強まった。ほこりと汗が混じったような、本来であれば不快に感じられるはずなのに、それをぐと不思議と安心した。

『あなたはあなたの幸せをちゃんとつかんで。あなたにだって幸せになる権利はあるのですから――』

 耳元でささやく声が遠くかすんでいく。


 目が覚めた時、私の頬は濡れていた。とても切ない夢だったと思い返す。生まれてこの方十七年、私はそれなりに夢を覚えているタイプの人間だと思うが、こういう感じの夢を見たのは初めてだ。
 しかし、なんの影響を受けたんだろう? あんな悲恋っぽい話、最近は演劇でも小説でも触れていないはずだけど。
 妙に引っかかるが、まあ、夢は夢だと忘れよう。私にはやらねばならないことがある。今はとにかく時間が惜しい。

「お目覚めですか、レネレットさま。ご気分はいかがでしょう?」
「ええ、今日も晴れやかな気分ですわ」

 ごそごそと動いていたからだろう。起こしに来てくれた使用人が声をかけてきて、私は現実に意識を切り替えた。
 私はレネレット・ゴットフリード。伯爵家の令嬢で、現在婚約者探しにいそしむ乙女である。正直最近はうんざりし始めているけれど、年齢を考えると、そろそろ慣例に従って家を出る準備をしなくてはいけない。
 さっそく私は、朝の支度に取りかかった。


     * * *


 私が生まれ育ったこの国――シズトリィ王国では、女性は十七歳前後が結婚適齢期であるとされている。
 ただ、現女王さまは十七歳で王位継承、その後政治的混乱を避けることを目的として二十歳まで婚儀を延ばされたため、二十歳まではき遅れとは言われにくい。
 結婚の時期に猶予ゆうよをくださった女王さまには感謝の気持ちでいっぱいであるが、結局のところ私を取り巻く事態はあまり変わっていない。貴族の娘であれば、二十歳までにほぼ結婚していなければいけないのだから。
 つまり、私に残された猶予ゆうよはあと三年。それまでになんとしても幸せな結婚をしたい。みんなに祝福され、うらやまれるような素敵な結婚を!

「――とは思うんだけど、そう簡単にはいかないのよね……」

 お見合い候補者の肖像画の山に埋もれながら、私はため息をつく。
 どの肖像画も財力やら勇ましさやらを強調しているせいか、似たり寄ったりだ。面白いものではないし、そろそろどの男性の顔も同じに見えてきている。
 あー、これはちょっと休んだほうがいいかも。
 自分のよさを最大限にアピールしているのだろう肖像画を開いては閉じる作業を、十五歳になった時から続けて早二年。もはや日課だ。こんな日課からは早く卒業したいのだけど、そうできないのには理由がある。

「根気強くいきましょう、レネレットさま! 次の方とはきっとお会いできますって! 元気を出してください」

 私が疲れた顔をしていたからか、隣で肖像画の受け渡しをしてくれていた少女――メイドのリズがはげましの言葉をくれる。
 リズは小柄で童顔どうがんな少女であるが、私より少し年上だ。地味なお仕着せをきちんと着こなし、明るめの長い茶髪はシニョンにしてまとめている。そばかすが散った顔には愛嬌あいきょうがあり、大きめでくりっとした茶色の瞳も可愛らしい。私の身の回りのことを一手に引き受けている専属メイドだ。
 ため息ばかりの私に、彼女は明るい表情で続ける。

「それに、お会いすることさえできれば、レネレットさまの魅力で必ず落とせますから! ラブラブで幸せいっぱいの結婚生活を送れることけ合いです! 気落ちせず、今を乗り切りましょう!」
「ふふ……そうね。会うことさえできれば、ね」

 私は遠い目になり、再び肖像画に視線を向ける。会うことさえできれば、の言葉について考えるだけでも気が重い。
 私に魅力があるとリズは評してくれるが、私自身も自分の容姿は決して悪くないと思っている。
 女性なら誰もがうらやむふわふわのブロンドと、サファイアの輝きがかすんでしまうほどんだ青い瞳。目鼻立ちははっきりしていて遠くからでも人目をく。ほどよく丸みをびた身体は、女性らしいラインを強調する流行はやりのドレスを着こなすのにちょうどよかった。
 自分で言うことではないのは承知しているつもりだが、容姿は完璧だと思う。
 さらに、我がゴットフリード家は伯爵位を持つ家柄だ。祖父や父の活躍により王家の信頼は厚い。父親が立ち上げた事業もうまくいっているらしく、おかげさまで裕福な暮らしをさせてもらっている。
 そんな美貌と家柄と財力を持つ、結婚適齢期の少女が私だ。
 正直、直接会えさえすれば相手に気に入ってもらえる自信はあるし、縁談もさっくりまとまるだろうと考えている。
 でも、その前にお見合いが成立しないのよね……
 会おうと思ってこちらから連絡を取ると、どういうわけか必ず断られるのである。そちらから肖像画を送ってきているくせに。
 ただ、断る理由については様々さまざまだ。疫病えきびょうにかかっただの、事故にあって亡くなっただの――まあ、そのあたりはご愁傷しゅうしょうさまです、と言うしかないのだが、急に世界を見て回りたくなったと言って世界一周旅行に出られてしまったのには、私も一緒に連れて行ってよと言いたい気分だったし、想像以上に美人でいらっしゃるので自分にはもったいないなどと言って断ってきたのには、何か裏があるのではと疑心暗鬼におちいったりもした。別の女性と駆け落ちしたと聞かされたのには、まあ、婚約する前でよかったなと思いはしたけれど。
 そんなわけで驚くことに、私はまだ誰ともお見合いをしていないのである。二年も結婚相手ではなくお見合い相手を探しているなんて、なんかおかしくないですかね?
 憂鬱ゆううつな気分でめくる今日の肖像画はどれも随分と年上で、妻に先立たれて後妻ごさいを探しているという人ばかりが並んでいた。
 ああ、そういえば以前、ヤケになって年上を選んだら、お見合いの前に老衰ろうすいで亡くなってしまったな……
 最近ではレネレット嬢に気に入られると死を招くなどとひそかに噂され始めているからか、お見合い候補者の減少がいちじるしい。これは一刻も早く手を打たねば。死神令嬢なんて言われるようになったら、両親に申し訳ない。

「それに、今夜はパーティーがあるじゃないですか。素敵な出会いが待っているかもしれませんよ?」
「あら、見慣れたメンツばかりになってしまったのに?」

 私がすかさず返すと、リズは微苦笑を浮かべ――そこからコロリと表情を変える。両手をポンと打ち合わせて、にっこりした。

「見慣れた男性ばかりとは限りませんよ。今夜のパーティーはランドール卿の主催でしょう?」

 指摘されて、私はその意味を理解した。
 ランドール公爵は貴族はもちろん、神職者や商人たちともつながりが深い。今夜のパーティーも盛装せいそうをしていれば貴族以外も入場可能というゆるい基準なので、普段は話す機会のない神職者や商人と出会える可能性が高かった。
 貴族以外の男性にとつぐ気はあんまりなかったけれど、き遅れと後ろ指をさされるくらいならそれもアリか。女性でも爵位を継ぐことは可能であるが、私には弟がいるから私自身が爵位を継ぐ必要性は低いし、結婚だけが目的であれば選択肢には入れられる。
 王国内での貴族の権威自体も、ひと昔前と比べたらだいぶ失われたらしい。かつては王族に並ぶ権力を持っていたそうだが、私が生まれた頃には、『王族に認められた特権階級』くらいの存在になっていた。領地を持ち、そこでの民や財を管理するのが主な仕事なので、立場としては庶民よりもいくらか強いが、それでも影響力は年々弱くなる一方だ。
 というのも、貿易によって富をきずいた庶民出身の商人が力をつけ始めたからだ。
 私が生まれてから、世界で大きな戦争は起きていない。安定した情勢のおかげで、この国でも商業が急速に発展してきたのである。
 商人たちのなかには貿易で有利な立場を得るために金で爵位を買う者もいた。
 爵位を得た商人なら私のお見合い相手としても、そう波風なみかぜが立つことはないかしらね。お父さまも貿易に関心を持っているみたいだし。
 一方、貴族や商人たちと比べ、神職者は昔からほとんど立場が変わっていない。
 税額の軽減など、経済的には貴族と同程度に優遇されているが、他に特権と言えるほどの力は持っていない感じだ。
 地元の神殿に週一回は祈祷きとうに行く信仰心の高い国民がほとんどなので、うやまわれてこそいるが、それだけだ。私だって、領内にいる時は神殿に祈りに行くのが週末の日課だが、そこの神官と親しく話をしたりはしない。
 そういえば、貴族と神職者が結婚したって話はあまり聞かないわね……。神職者は神さまと結婚していることになるから、人とは結婚できないんだっけ?
 神職事情にうといので、彼らがどうやって神殿を維持して世代継承しているのか、私にはよくわからない。
 うーん、神職者との結婚よりは商人との結婚のほうが現実的な気がするわね。狙うなら商人かな……
 考えたことがなかった相手の身分を検討し、今後の計画を練る。お見合い相手すらなかなか見つからない現状としては、選択肢は増やしておくに越したことはあるまい。

「――そうね。出会いを増やして損はないし、ダメでも気分転換くらいにはなるわよね。前向きに行きましょうか」

 リズに八つ当たりするのは私としても不本意だ。それにお見合いが流れてしまうのも、パーティーで出会いがないのも、偶然であるはず。誰かのせいにするのは御門違おかどちがいだろう。

「そろそろお支度を始めましょうか?」
「ええ、お願いするわ」

 私が頼むと、リズはチェック済みの肖像画とそうでないものをきちんと分けて片づけてくれた。
 ――期待はしないけど、何か進展がありますように。
 心の中で神さまに願いながら、私はリズに手伝ってもらってドレスを着替えるのだった。


     * * *


 王宮で議会が開かれる春から夏にかけて、領主たちは王都に集まってくる。そのため、普段は遠方に領地を持つ領主たちとの交流を目的としたパーティーがたびたび開かれるのだ。
 支度を終えて馬車に乗り込み、私がやってきたのは、この国に三つある公爵家のうちの一つ、ランドール家のお屋敷だ。
 馬車を降り、帰宅の予定を簡単に確認して御者ぎょしゃと別れた。
 ――思った以上に盛況のようね。
 きちんと盛装せいそうをしていれば、爵位がなくても出入り可能なだけに、入り口あたりからすでに様々さまざまな階級の人々でごった返していた。これなら新しい出会いにも期待できるかもしれない。
 私は意気揚々いきようようと会場内を歩き始める。

「本日はご機嫌うるわしく――」

 挨拶をしたりされたり。父親や祖父の知り合いへの挨拶も済ませておいた。
 本来であれば、こういう場には父と一緒に来るべきなのだが、急な仕事が入ったとかで、今日は私が父の代理を務めている。こういう役目はそろそろ弟にゆずってもいいのだが、今は私の顔を広めて良い縁談につなげようということで、私に任せてもらえているのだ。
 挨拶が必要な方はこのくらいかしら?
 飲み物を受け取ってのどうるおしつつ、私は会場を見渡した。あちらこちらで小さな集団が形成され、談笑しているのが目に入る。
 あの辺りは商人が多そうね。最近は貿易商に勢いがあるみたいだし、こういう場所に顔を出すのも当然か……
 見慣れない顔ぶれの服装をよく観察し、私はそう判断した。周囲と比べて服が浮いているように見えるのは、こういう場に相応ふさわしい衣装に慣れていないからだろう。とはいえ、身につけているアクセサリーなどから、どの程度羽振はぶりがいいのかがうかがえて興味深い。貴族に合わせて背伸びをしているような者もいるが、それはそれで努力の形跡が感じられるので悪くはないと思えた。
 向こうの団体は貴族の奥様方。なんの噂話をしているのかはわからないけれど、とても楽しそうだ。会場に響く声は主にこの集団から発せられることが多いように感じた。悪い話をしているわけではなさそうなのが、明るい声の調子からもよくわかる。今が平和なあかしだろう。
 お見合いの話を持ってきてもらうためにも、自分の両親くらいの年齢の人間とはしっかり話しておこう――などと考えつつ視線を巡らせていると、奇妙な集団が目に入った。
 何かしら、あそこ……
 中庭へと通じる扉のすぐ近くに、私と同じくらいか、あるいは少し下の年齢だと思われる少女たちの人集ひとだかりができていた。
 あの中心にいるのは……男?
 背が高いので遠くからでもかろうじて姿が見える。少女たちの真ん中には黒髪の青年が立っていた。

「見ない顔ね……」

 この距離だとはっきりとはわからないのだが、夜の闇よりもずっと濃いつややかな黒髪は一度会ったら忘れないだろうから、ほぼ確実に私の知らない人だ。身動きが取れないほど周囲を固められているところから考えて、滅多めったに会場に現れないお金持ち貴族のどなたかか、あるいは皆が放っておかないくらいの美形なのではなかろうか。
 何となく気になって、私もそっと少女たちの輪に加わった。邪魔をしないようにゆっくりと近づき、こっそりと青年の顔をうかがう。
 年齢は二十代後半くらいだろうか。つやつやした黒髪は短く清潔に保たれている。眼鏡の奥にひそむエメラルドよりも深いグリーンの瞳は、目つきの鋭さをやわらげるのに充分な美しい色合いだ。鼻筋もすっと通って、薄い唇はキリッとしまっている。どのパーツも整っている上、全体のバランスもよい。
 目つきのせいか真顔だとややかでとっつきにくい印象を受けるが、それが笑顔になった瞬間気さくな雰囲気に変わるから不思議だ。
 何者なのかしら?
 その疑問は、周囲の少女たちの話ですぐに解消した。

「将来の伴侶はんりょはこの会場にいるかも、ですって!」
「えー、いいなあ、アンナは。私なんて、出会いは来年ですってよ。もう、婚期をのがしそう」
「私も占ってもらう! ちょっと待ってて!」

 へえ、占い師か……
 聞き耳を立てていると、どうも他の少女たちも、この青年に自分の将来を占ってもらっているらしかった。どうりで私くらいの結婚適齢期前後の少女ばかりが集まっているわけだ。
 妙な人間がまぎれ込んでくるものね……
 庶民の間では占いが流行はやっているのだろうか。いくら規定がゆるいとはいえ、ここにいるということは、それなりの収入があるはずだ。私は彼の素性を探るために、全身にも目を向ける。
 身なりはしっかりしているし、その前に見かけた商人たちよりも盛装せいそうが板についている。上背うわぜいはあるが細身なせいか、どことなくはかなげで、神秘的にも見える。この外見で「占ってあげる」と言われたら、試してもいいかな、なんて思う人も多いかもしれない。
 そこまでわかったところで、私はその場を離れることにした。占いには多少興味があるが、私は自分が決めた道しか歩くつもりはない。それに順番待ちをしてまで聞きたいとは思えなかった。
 さ、他のところを回ってこよう。
 いさぎよきびすを返して集団から抜けようとした時だった。
 誰かにスカートのすそを踏まれてつんのめり、私は盛大にバランスを崩す。あわや転倒というところで、気づけば私は占い師の青年に優しく背中を抱きとめられていた。
 わあ、綺麗な顔……
 間近で見ると、彼の心配そうな表情が色っぽく感じられる。ちょっと想定外。
 彼のいたところからは少し距離があったのに、わざわざ助けに来てくれたのかしら。
 私は慌てて自分の足でしっかりと立った。

「あ、ご、ごめんなさい。失礼しました」
「いえ。足は大丈夫ですか?」

 低すぎず高すぎない声はとても聞き取りやすかった。なんというか、耳に心地いい。

「はい」

 別の少女の占い中に割って入ってしまったのに、彼は私の方を気にかけてくれている。それがちょっぴり嬉しい。

「なら良かった」

 穏やかに微笑んだ彼は、私の耳に唇を寄せ、そっとささやいた。

「あなたの伴侶はんりょはここにはいません。お疲れのようですから、このままお帰りになるのがよろしいでしょう」
「……へ?」


 彼は身体を離し、再びにっこりと笑う。その言葉と態度で、私は正気に戻った。
 待て、私のトキメキを返せ。
 この素性のわからない男に対して一瞬恋心を持ってしまった気がしたが、なかったことにしよう。

「――助けてくださりありがとうございました。それではごきげんよう」

 引きつりそうになる顔を、私は令嬢らしい微笑みを作ってカバーし、集団の輪から外れる。
 落ち着け……落ち着け私! ランドール卿はこういうパーティーは無礼講ぶれいこうでっておっしゃっているのだから!
 ランドール公爵は、貴族だけでなく神職者や商人もパーティーに招く。彼らに気軽に訪れてもらうためにも、多少の無礼には目をつぶるようにと貴族の間で常日頃触れ回っていた。なんでも自分の開くパーティーを社交界の作法を学ぶ場として活用してほしいとお考えなのだとか。彼らの無礼を許せない方はお越し頂かなくて結構とまでおっしゃっているので、ここにいる招待客は何かあっても寛大かんだいな気持ちで受け流したり、あるいはたしなめたりする。
 私は助けてもらったわけだし、みんなの前で恥をかかされたわけでもないんだから、笑顔で去るのが最善なのよ。頑張れ私。
 私は自分に言い聞かせ、平静をよそおった。今感情を爆発させてしまったら、ランドール公爵が主催するパーティーへの参加権を失いかねない。そうなれば今後の交友関係がせばまってしまうので避けたいところだ。
 でもね、わかってるけど、私、そこまで大人になれないのよ!
 人目につかない中庭に出ると、私はぐっとこぶしを握りしめた。

「なんなの、あの占い師っ!」

 あの言葉にどういう意図があったのだろう。あれだけの色男だ、私の視線に自身への恋愛感情を察して釘を刺してきたと考えるのが一番妥当だとうな気がする。

自惚うぬぼれるんじゃないわよ! 私はれられることはあっても、れることなんてないんだからね! ましてや誰があんたなんかにっ!」

 ちょっと優しくされたくらいでれるほど、私は安い女ではないつもりだ。
 腹が立って仕方がない。この苛立いらだちを解消するためには、このパーティーで婚約者をつかまえて、占い師の面目めんぼくつぶしてやらねば。

「見てなさいよ、私、行動を起こしたらすごいんだから」

 ふふ、と笑い、気合を入れ直す。そして、みんながうらやむレネレット・ゴットフリード嬢らしく振る舞いながら会場に戻るのだった。


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