多重世界シンドローム

一花カナウ

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元カノの死因

不意打ちのキスを見られて

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 数分もしないうちに井上は戻ってきた。窓の外をちらりと見たあとであやめに視線を移す。

「ごめんね。友だちから電話があってさ」

「いえ」

 にこやかに告げる井上に、あやめも笑顔で返す。

「――あれ?」

 井上は席に戻る前にあやめの顔をまじまじと見た。

「なんでしょう?」

 顔が近い。あやめは反射的に顔を反らす。

「アイスが口の端に付いていますよ」

 すっとあやめのあごに手が伸ばされる。互いの顔が合わさる。それを拒む間もなく――唇を奪われた。

「!」

「油断大敵ですよ。緒方あやめさん」

 悪意に満ちた笑顔が目の前にあった。

 あやめは何が起きたのか瞬時にはわからず、唇に手を当てると慌てて視線を窓側に移した。そこでさらに驚いた。

(ウソ……嘘、嘘、嘘!)

 呆然とした表情で立つ貴家の姿が窓の外にあった。

(見られた)

 貴家はあやめと目を合わせると、すぐに駆け出した。店に乗り込むつもりのようだ。

(しかし何故? 井上さまは、ここへは貴家さまは立ち寄らないって……騙された?)

 あやめは席に戻った井上をきっと睨み付ける。視界が歪んでしまったのは涙があふれてきたからだ。

「ひどい……」

「それは光栄ですね」

 井上は涼しげな顔であやめを見る。

「しかし、こんなことのために使うとは思いもしませんでしたがね。これが僕のファーストキスですから。甘くて美味しかったですよ」

「こ……こんなことですって?!」

 ファーストキスを『こんなこと』に使ったと平然と言ってのける井上を、あやめは許せない。女のコにとって、初めてのキスは大切なものだ。それをこんな形で奪われた上に、さらに貶めるような言い方をするなんて納得できない。しかも、それを貴家見られたショックから立ち直れない。

「怒りますか? それは何故ですか? 僕が断りなしに唇を奪ったからですか?」

「おい、井上!」

 あやめにとって今一番頼りたくて、しかし今最も会いたくない人物の怒鳴り声が響く。

「おや? 貴家さん、奇遇ですね。こちらに来ることは滅多にないでしょうに」

 貴家が来ても、井上は冷たい表情を変えなかった。

「てめぇが呼び出したんだろうが!」

 井上の胸ぐらを貴家は掴む。

「何故怒るのです?」

「何故って――」

「彼女は言いました。貴家さんと付き合っているわけではないと。貴家さんのカノジョではないと。――ならば、そんな女のコに手を出そうと僕の勝手ですよね?」

「!」

 貴家の顔に広がる困惑の色。

 井上は両目を細めて続ける。

「それでもあなたは自分の所有物であると主張なさいますか?」

 掴む力が弱まったところで、井上は貴家の手を払う。

「あなたはズルい。自分が欲しいと思っているものはすべて自分のものだと思い込んでいる。あなたは様々なものを十二分にお持ちでしょうに。僕が欲しいと思ったものも、平気で楽々と手にしたあなたが、まだ僕から奪おうというのですか?」

「お前……何のことを言っているんだ?」

 瞳の底で揺れる漆黒の炎。

「それでもなお、あなたは気付かない振りを――そうですか。あなたは僕以外の人間にとっては無害な存在なのですね」

 深淵よりも深き闇。

「だから、何のことを言っているんだ? わかるように説明してくれよ?」

「説明だって?」

 井上は実に愉快げに喉の奥で笑う。

「こんなことを説明するほどの屈辱ったら、あったもんじゃありませんね。僕を侮辱するのも大概にしてください」

「侮辱って……」

「僕はあなたを憎んでいる。その理由をあなたは知ることができないでしょう。今のあなたのままであるならば」

 言って、井上は自分のスポーツバッグと傘を手に取る。

「コーヒー代、置いて行きますね。お釣でアップルパイ代も出せそうなので奢りますよ」

 バッグから財布を取り出し、千円札をテーブルに置く。

「おい、待てよ!」

 去ろうとする井上を貴家は引き留めようとするが、彼は足を止めない。

「僕には待つ理由がない。貴家さん自身が追いかけるべきです。――もっとも、緒方さんを置き去りにするような男ではないとわかっている上での台詞ですが」

 肩越しに振り向いて井上は告げると、ひらひらと手を振って雨の降る外へと出て行った。

「くそっ……」

 舌打ちをすると、貴家はあやめの正面に乱暴に腰を下ろす。回りの客たちがあやめたちのいるテーブルに注目していたが、やがて静かになった。

「す……すみませぬ……」

 あやめは俯いたまま呟く。苛立ちを隠さない貴家の顔を直視できないのだ。

「なんで君が謝る?」

 貴家の声にも苛立ちが混じっていたが、優しく言わねばと心がけているのが伝わってくる言い方だった。

 そんな様子がかえってあやめの心の傷にしみる。大切にされているのだとわかればわかるほどに。

「ワ……ワタシが……どんくさいばかりに……あなた様を……その……」

「あやめのせいじゃない。アイツに関わるなと忠告しなかったオレの責任もある」

「ありませぬ!」

 あやめは顔を上げ、貴家を見る。

 貴家は窓の外に向けていた顔を、あやめの叫ぶような声で彼女に合わせた。

 互いの視線がぶつかる。

「これはすべてワタシの責任です。予期せぬ事態に思わず泣いてしまいましたが、本当なら泣くべきではありませんでした。ワタシの弱さが原因でございます。あなた様は決して悪くありませぬ!」

 あやめの訴えに対し、貴家は悲しげに笑んだ。そして告げる。

「――オレはな、あやめ。ウソでも君に、オレのカノジョであると言って欲しかったんだ」

「ワタシが嘘をつけないと知っていて……も、……え?」

 あやめは貴家の台詞を繰り返そうとするが、その前に貴家は続ける。

「そう言ってくれると信じていたんだ、あやめ」

(どういうことなの?)

 言っている意味がわからない。

「少なくともオレは君をカノジョとして扱っているつもりだった。君もそう受け取っていると思っていた」

「…………」

 何を言うべきかわからない。驚きすぎて、対処がわからないのだ。

(――いいえ、ワタシはなんて鈍感なのでしょう)

「告白をしなかったし、付き合ってくれとも言わなかったことは謝る。一葉のことを想うと、どうしても言えなかったんだ。彼女に悪い気がして……」

 貴家は項垂れて淡々と告げる。

(こんなにも貴家さまに愛されていたというのに……!)

「か……顔を上げて下さいませ、貴家さま」

 言いながら、あやめは自分の目の端に残っていた涙を拭う。

「あなた様の想いは伝わっております。しかし、こちらの勘違いであるとばかり……。それにワタシがあなた様に近付いたのは別の目的があったからでもございますからに」

「君がどこか割り切って付き合ってくれていることは薄々感付いていたさ。恋愛感情抜きのストーカーであることも」

 貴家は顔を上げない。

「そうと気付いていながら、何故ワタシとともに過ごしてくださったのです?」

「君が、こんなオレでも好いてくれているとわかったからだ」

「え?」

「笹倉一葉を守ることができず、井上純也をあんな人間に変えてしまったオレを、君が好いてくれている――それが例えオレの妄想だったとしても、そう考えるだけでもう少し生きていようかなって思えたんだ」

 ようやく上げた貴家の顔にはすがるような気持ちが滲んでいた。

「君はそんなオレを笑うか? 軽蔑するか?」

(あぁ、この方は強くなどなかったのですね。今にも挫けてしまいそうだった心を、強がることで支えていたのですね)

 あやめは貴家に手を伸ばす。

「ワタシはあなた様を笑ったり、ましてや軽蔑したりはしませぬ。ワタシは……ワタシはあなた様を護りとう存じます」

 その手でそっと貴家の頭を撫でる。

「あなた様のお力になれるのでしたら、なんなりとその唇で命じて下さいませ。ワタシはあなた様に従います」

 貴家は撫でていたあやめの手を取り、真っ直ぐ見つめた。

「あやめ……」

「は、はい」

 何を頼まれるのだろうかとあやめはドキドキしながら待つ。ほんの数秒が何分にも何十分にも感じられる。

「抱かせろ」

「はっ? そ、それは困ります!」

「ぷっ……冗談だよ」

 手を握ったまま、貴家はゲラゲラと笑う。あやめが慌てたのがツボにはまったようだ。

「そ、そんなに笑わないで下さいませ! さ、貴家さまが真顔で仰るものですから……っ」

 顔を隠したいほど赤くなっていることが熱からわかる。しかし手を握られたままでは自由にならない。あやめは恨めしく思う。

「なんだ? 下心見え見えの顔で言えってか?」

「そういう意味ではございませぬ」

「くくくっ……。何でも言うことを聞いてくれそうな口振りだったのに、速攻で断られるとはなぁ」

「本気の願いでしたら、有無を言わずに頷いていたことでございましょうよ。あなた様にはそうさせる力がおありなのでしょう?」

 貴家の態度をみて一言言ってやりたくなったあやめは、普段なら絶対に口にしないだろう思いつきを言ってみる。

「うーん。結構本気の願いのつもりだったんだが……。相手があやめだったから、現実的に無理だと理性が判断しちまったところに敗因があるとみた」

「う……でしたら、今後は迂濶なことは言いませぬ」

 こんな展開になるとは全く想像していなかったが、結果として貴家を元気付けることができたのでよしとしようとあやめは言いながら思う。

「よし。今度は素直に頷かせることができるように気の利いた台詞を用意するとしよう」

 言って、貴家はあやめの頭を軽く撫でて立ち上がる。

「帰るぞ。あやめはどうする? 遠回りでもうちまで送ろうか?」

「いえ――」

 断ろうと思ったが、勿体無いなと考え直して続ける。

「ならば駅まで」

 あやめは優しく微笑んで答える。この時間がとてもいとおしく、何にも代えがたいものに感じられた。
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