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第一話 おきつねさまと雨女
おきつねさまと雨女5
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私があの女性のいるところまで戻ると、女性はまだそこでしくしくと泣きながら待っていた。遠のいたと思っていた雨は、その場所に戻るのと比例するようにぽつぽつと空から降り出している。そのときになって、結局傘を買うのを忘れていたことに私は気付いた。
「あの、すみません。弥太郎くんあっちのほうまで捜したんですけど、見つからなくて……。もう、これは警察の手を借りることも考えたほうがいいんじゃないかと、思って……」
私がそう言いながら女性に近づいていくと、なぜか辺りの空気がさっきよりも急激に冷えたような気がした。思わずぶるりと震えが走る。
「私の子供……私の可愛い子……」
女性が手で伏せていた顔をゆっくりと上げ、こちらを向く。その顔を見て、そのときになって、ようやく私は自分が重大な間違いを犯していたことに気がついた。
「いなくなってしまった……。あの雨の日に……。大切な我が子……!」
女性――その女の妖怪は、突如私に詰め寄ると、がっちりと私の両肩を掴み、恐ろしい声で私に捲し立てた。
「あの日生んだ私の子は、雨の日に神隠しに遭った! なぜだ! なぜ私の子が! なぜ私の子があああああ!!」
「い……やあああああーーーっ!!」
降りしきる雨のなか、女は私の目の前に蛇のような長い舌を伸ばしてきた。
チリン、と鈴の音がどこかで鳴ったような気がした。
「その娘に醜い手で触れるでない。そこな低級妖怪めが」
そんな声が聞こえ、恐ろしさに瞑っていた目をそっと開ける。すると、私に襲いかかってきていた女の妖怪は、金縛りにでもあったように硬直したまま、苦悶の表情を浮かべていた。
「ぐううううっ! わ、たしの邪魔をするとは、なにやつ……!」
必死の形相で後ろを振り向こうとする女妖怪は、少し動いた瞬間、再びさらなる強い力で締め付けられたように見えた。
「う、げえええ!」
「無駄なあがき、見苦しいぞ。この妖力の差がわからぬか。さっさと己が分をわきまえ、おとなしく儂のしもべになるのが身のためじゃと思うぞ」
そう言いながら、何者かがこちらに近づいてくる。
白い、というのが最初の印象。
水干というのだろうか。昔の平安貴族が着ていたような、白い装束を身につけた美しい青年が立っていた。長く伸びた髪の色もまた、神々しいほどにまぶしい白色をしている。しかしその白に一層映えて見えるのが、その瞳の色。
火を思わせる赤い瞳は、容易ならざる力を秘めているようで、その人物が人ではないことを目にした瞬間に理解した。
そして、その人物の頭と尻から、獣の耳と尾が生えていることから、どうやらこれは、獣の妖怪が人型をとったものだとわかった。耳と尾の形状から推測するに、狐の妖怪であろう。不思議なことに、その妖怪の周りだけ、雨が降っていなかった。
「あ、あ、そ、その姿はもしや……」
「うん? 儂のことを知っておるのか? たかだか数百年生きただけの小物妖怪にもこの儂の噂が浸透しているとは、やはり儂の妖力の凄さはのちのちまで語り継がれておったのだな。久々に起きてきてみた甲斐があったわ」
「く、空弧……!」
女妖怪がそう口にした瞬間、再度ぴしり、とその体が激しくしなった。
「ぐげ!」
「空孤様、だ。口を慎め。小物風情が」
「く、空孤様。お許しを~」
なにがなんだかよくわからないが、新たに現れた白狐妖怪があの女妖怪を懲らしめているようだ。事情は知るべくもないが、これはここから逃げるチャンスに違いない。私は二人の妖怪が睨み合っているのをいいことに、そっとその後ろを移動することにした。
「よいか。三千年を生きてきた儂から見たら、おぬしなど赤子みたいなもの。どうやら儂が眠りについているのをいいことに、おぬしのような小物妖怪がそこいらで悪さを働いているようじゃのう。ちょうど儂もそろそろ寝ているのにも退屈しておったところ。おぬしらのような妖怪を取り締まるのもいいかもしれぬな。……と、そこな人間の娘」
私が空孤と呼ばれた妖怪のちょうど真後ろを通りかかったときだった。鋭い声で呼び止められ、私の足はびくりと硬直した。
「あ、わ、私……?」
恐る恐る声をかけた主のほうに視線をやると、先程の白狐妖怪が、切れ長の目をこちらに向けていた。
「どこへ行くつもりだ。まだ儂の話は終わっておらぬぞ」
「は、話? 私はあなたに用はないんですけど~」
とにかく恐ろしげな妖怪とこれ以上に関わりあいたくない私は、じりじりと後ずさりをして逃げる準備をする。
「言っておくが、逃げようとしても無駄じゃぞ。おぬしの気配はもうすでに儂の脳裏に刷り込まれた。だからどこに行こうがすぐに見つけられる」
「え? なにそれ。なんで私があなたにつけまわされなきゃいけないの?」
私がいくら妖怪を見ることができる特異体質だからといって、こんな得体の知れない初めて会った妖怪につけまわされるようなことをした覚えはない。そんな事態は全力、断固、全身全霊で阻止したい。
「おぬし、なにも覚えておらぬのじゃな。まあよい。とにかく、儂の眠りを覚ましたのはおぬしじゃ。おぬし、あの稲荷神社で願ったじゃろう。それを叶えるために儂はおぬしについてきたのじゃ」
「私の願いを叶える……?」
どういうことだろう。なにがなんだかよくわからないが、確かに私は先程神社で願い事をした。それをこの妖怪が叶える? それを聞いて、私は後方へ出していた右足をゆっくりと前に戻した。
「あのう、私の願い事をどうして知っているんですか? 声に出して言ったわけじゃないのに。それともでまかせで言ってるわけじゃないですよね」
「でまかせじゃと? この空孤様に向かって失礼な娘じゃな。いいじゃろう。でまかせではない証拠として、どんな願いだったかこの場で言ってみせよう」
空孤という妖怪は、私のことを見下ろすようにしながら言った。なんだか高飛車な妖怪だ。
「おぬしが先程願ったのは、弥太郎くんが見つかりますように。それと私の特異体質がなくなって平和になりますように。じゃったかのう。どうじゃ? 合っておるじゃろう」
「あ、合ってます! でもなんで?」
「フフン。そんなもの、この空孤様の神通力を持ってすれば容易にわかるというもの。だからそれをこの儂が叶えてやろうというのだ。ありがたく思え」
「え? 願いを叶えてくれるの? あなたが?」
「ああ。悪い話ではなかろう」
なんだかよくわからないが、これは私にとってプラスになる話なのではないだろうか。どういうつもりかはわからないが、私が長年悩んできたことが一気に解決するかもしれない。
「あの、すみません。弥太郎くんあっちのほうまで捜したんですけど、見つからなくて……。もう、これは警察の手を借りることも考えたほうがいいんじゃないかと、思って……」
私がそう言いながら女性に近づいていくと、なぜか辺りの空気がさっきよりも急激に冷えたような気がした。思わずぶるりと震えが走る。
「私の子供……私の可愛い子……」
女性が手で伏せていた顔をゆっくりと上げ、こちらを向く。その顔を見て、そのときになって、ようやく私は自分が重大な間違いを犯していたことに気がついた。
「いなくなってしまった……。あの雨の日に……。大切な我が子……!」
女性――その女の妖怪は、突如私に詰め寄ると、がっちりと私の両肩を掴み、恐ろしい声で私に捲し立てた。
「あの日生んだ私の子は、雨の日に神隠しに遭った! なぜだ! なぜ私の子が! なぜ私の子があああああ!!」
「い……やあああああーーーっ!!」
降りしきる雨のなか、女は私の目の前に蛇のような長い舌を伸ばしてきた。
チリン、と鈴の音がどこかで鳴ったような気がした。
「その娘に醜い手で触れるでない。そこな低級妖怪めが」
そんな声が聞こえ、恐ろしさに瞑っていた目をそっと開ける。すると、私に襲いかかってきていた女の妖怪は、金縛りにでもあったように硬直したまま、苦悶の表情を浮かべていた。
「ぐううううっ! わ、たしの邪魔をするとは、なにやつ……!」
必死の形相で後ろを振り向こうとする女妖怪は、少し動いた瞬間、再びさらなる強い力で締め付けられたように見えた。
「う、げえええ!」
「無駄なあがき、見苦しいぞ。この妖力の差がわからぬか。さっさと己が分をわきまえ、おとなしく儂のしもべになるのが身のためじゃと思うぞ」
そう言いながら、何者かがこちらに近づいてくる。
白い、というのが最初の印象。
水干というのだろうか。昔の平安貴族が着ていたような、白い装束を身につけた美しい青年が立っていた。長く伸びた髪の色もまた、神々しいほどにまぶしい白色をしている。しかしその白に一層映えて見えるのが、その瞳の色。
火を思わせる赤い瞳は、容易ならざる力を秘めているようで、その人物が人ではないことを目にした瞬間に理解した。
そして、その人物の頭と尻から、獣の耳と尾が生えていることから、どうやらこれは、獣の妖怪が人型をとったものだとわかった。耳と尾の形状から推測するに、狐の妖怪であろう。不思議なことに、その妖怪の周りだけ、雨が降っていなかった。
「あ、あ、そ、その姿はもしや……」
「うん? 儂のことを知っておるのか? たかだか数百年生きただけの小物妖怪にもこの儂の噂が浸透しているとは、やはり儂の妖力の凄さはのちのちまで語り継がれておったのだな。久々に起きてきてみた甲斐があったわ」
「く、空弧……!」
女妖怪がそう口にした瞬間、再度ぴしり、とその体が激しくしなった。
「ぐげ!」
「空孤様、だ。口を慎め。小物風情が」
「く、空孤様。お許しを~」
なにがなんだかよくわからないが、新たに現れた白狐妖怪があの女妖怪を懲らしめているようだ。事情は知るべくもないが、これはここから逃げるチャンスに違いない。私は二人の妖怪が睨み合っているのをいいことに、そっとその後ろを移動することにした。
「よいか。三千年を生きてきた儂から見たら、おぬしなど赤子みたいなもの。どうやら儂が眠りについているのをいいことに、おぬしのような小物妖怪がそこいらで悪さを働いているようじゃのう。ちょうど儂もそろそろ寝ているのにも退屈しておったところ。おぬしらのような妖怪を取り締まるのもいいかもしれぬな。……と、そこな人間の娘」
私が空孤と呼ばれた妖怪のちょうど真後ろを通りかかったときだった。鋭い声で呼び止められ、私の足はびくりと硬直した。
「あ、わ、私……?」
恐る恐る声をかけた主のほうに視線をやると、先程の白狐妖怪が、切れ長の目をこちらに向けていた。
「どこへ行くつもりだ。まだ儂の話は終わっておらぬぞ」
「は、話? 私はあなたに用はないんですけど~」
とにかく恐ろしげな妖怪とこれ以上に関わりあいたくない私は、じりじりと後ずさりをして逃げる準備をする。
「言っておくが、逃げようとしても無駄じゃぞ。おぬしの気配はもうすでに儂の脳裏に刷り込まれた。だからどこに行こうがすぐに見つけられる」
「え? なにそれ。なんで私があなたにつけまわされなきゃいけないの?」
私がいくら妖怪を見ることができる特異体質だからといって、こんな得体の知れない初めて会った妖怪につけまわされるようなことをした覚えはない。そんな事態は全力、断固、全身全霊で阻止したい。
「おぬし、なにも覚えておらぬのじゃな。まあよい。とにかく、儂の眠りを覚ましたのはおぬしじゃ。おぬし、あの稲荷神社で願ったじゃろう。それを叶えるために儂はおぬしについてきたのじゃ」
「私の願いを叶える……?」
どういうことだろう。なにがなんだかよくわからないが、確かに私は先程神社で願い事をした。それをこの妖怪が叶える? それを聞いて、私は後方へ出していた右足をゆっくりと前に戻した。
「あのう、私の願い事をどうして知っているんですか? 声に出して言ったわけじゃないのに。それともでまかせで言ってるわけじゃないですよね」
「でまかせじゃと? この空孤様に向かって失礼な娘じゃな。いいじゃろう。でまかせではない証拠として、どんな願いだったかこの場で言ってみせよう」
空孤という妖怪は、私のことを見下ろすようにしながら言った。なんだか高飛車な妖怪だ。
「おぬしが先程願ったのは、弥太郎くんが見つかりますように。それと私の特異体質がなくなって平和になりますように。じゃったかのう。どうじゃ? 合っておるじゃろう」
「あ、合ってます! でもなんで?」
「フフン。そんなもの、この空孤様の神通力を持ってすれば容易にわかるというもの。だからそれをこの儂が叶えてやろうというのだ。ありがたく思え」
「え? 願いを叶えてくれるの? あなたが?」
「ああ。悪い話ではなかろう」
なんだかよくわからないが、これは私にとってプラスになる話なのではないだろうか。どういうつもりかはわからないが、私が長年悩んできたことが一気に解決するかもしれない。
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