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第一章 動く人形
動く人形2
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ひんやりとした冷たさが体中に染み渡っていく。この暑さの中、僕の手の中には唯一の救いの神がいた。冷たくて甘くて、最高の癒しを与えてくれる。アイスクリームとはなんて偉大な食べ物なんだろう。
あれから家を出て、僕たちはコンビニで買ったアイスを食べながら例の川沿いを歩いていた。僕は乗ってきた自転車を降り、押して歩いている。
いわゆるこれが部活動。もちろん、アイスを食べることではなく、調査がメインなのだが。
ちなみにミナミのアイスクリーム代も僕持ちである。
陽炎がのぼる道を並んで歩く。焼け付くような日差しが容赦なく降り注いでくる。持っていた棒付きのアイスはみるみるうちにとろけ、垂れた雫が地面に滴り落ちて、小さな染みを作った。
「タクさんのメールによると、人形を目撃したのがこの辺らしいんだけど」
鍔広の白い帽子を被って、水色のワンピースを身につけたミナミは、なんというか、とても可憐で少なからずドキッとさせられた。眼鏡もコンタクトに変えたようで、先程とはかなりイメージが違う。彼女なりに、いろいろとそのときの服装のコンセプトがあるらしい。男の僕からすれば、なにもそこまでこだわらなくてもいいような気もするのだが。
あれから僕の家を出たミナミは、すぐ隣の自分の家に戻り、シャワーを浴びて着替えてきたのだ。冷房器具のない僕の部屋のせいで汗だくになったと散々文句を垂らしていたが、そもそもそれならば僕の部屋で作業をしなければいいのにと言いたい。
まあ、実際に言ったら張り倒されそうなので言えるわけもないが。
とにかく、強制的に例の人形の目撃現場に連れてこられたわけだが(ちなみに自転車にミナミを乗せて連れてきたのは僕だ)、これといってなにをすればいいのかわからない。二人ともアイスを食べ終わり、いよいよ活動開始といったところではあるのだが。
周りを見渡すと、そこには見慣れた住宅地があり、間を細い川が走っている。川には小さな橋が架かっていて、そこは僕が通学路としていつも通っているところだった。ミナミは主にバスで通学しているため、いつもは違う道を通っているらしい。
「なんの変哲もないところだと思うんですけどねぇ」
そう言いながらも、僕はあることを思い出していた。
あの日見た光景。
あの時が止まったかのような感覚。
そう、あのとき見た彼女もあの橋の上にいた。
「そういえば、彼女もあのとき……」言いかけたと同時くらいに、ミナミがなにかに気づいて声を上げた。
「あっ。来た来た!」
一人の男がこちらに向かって歩いてきていた。ミナミは軽く手を振っている。突然の状況に僕はしばし戸惑う。どういうことだ?
「あ、どうも。ミナミさん……ですよね。オカ研の」
男は近くまで来ると、やや緊張した面持ちでミナミに話しかけた。かなり背も高く、がっちりした体格をしているのがTシャツごしにもよくわかる。体育会系という言葉が非常によく似合う人だ。
「ええ。どうも初めまして。十倉ミナミです」
「あ、どうも。熊田です。あの、この人は?」
男性は僕に視線をずらして、軽く会釈してきた。僕もそれにつられるように会釈を返す。
「ああ、こののほほんとした顔してるのは私の後輩です。まあ助手みたいなものだから、あまり気にしないでください」
酷い言われようだ。
「熊田十蔵といいます。よろしく」
「間木田誠二です。こちらこそよろしくお願いします」
熊田十蔵。なんだか名前だけでも強そうだ。しかし、流れで挨拶まで交わしてしまったが、この人物はいったい誰なのだろう。待ち合わせをしているなんて僕はひと言も聞いていない。ミナミの場合、状況などを説明してくれないのはいつものことなのだが。
「あのぅ。ミナミさん。状況が読めないんですけど……」
僕の台詞に、ミナミは「はあ? なに言ってんの?」という表情で返してきた。おまけに深々と溜息までついたりして。まるで僕が悪いみたいじゃないですか。
「さっき見たでしょ。あの書き込み。彼は目撃者よ。例の人形の」
動く人形。では彼が。
「え、もう会う約束取り付けてたんですか!」
「当たり前でしょ。ネタは新鮮なうちにさばいておかないとね」
僕にしてみれば、まったくそそられない類のネタだが。
「とりあえず、さっそくですけど、その人形を目撃したときの状況を教えてもらえますか?」
ミナミはにこりと熊田に微笑みながら言った。きっと男はみんなこの笑顔に騙されるのだろう。
「え、ええと」熊田は少し緊張しているのか、落ち着きなくきょろきょろと辺りを見回した。しばらくそうしていたかと思うと、なにかを思い出したのか左の掌に右の拳をぽんっと当てて勝手に歩き出した。取り残された僕たちは、熊田の行動をしばらく観察する。そうしていると、熊田がはっとした様子でくるりとこちらを向き、「あ、すみません! ついてきてください!」と呼びかけてきた。なんというか、ちょっと独特な人だ。
ミナミと僕は、熊田のあとを黙々とついていった。なぜか川沿いから離れて住宅街のほうへと入っていく。人通りはなく、閑散としていた。もしこれが夜だったら、少し怖いかもしれない。
「ええと、確かこの辺りで見たと思います」
熊田が急に立ち止まって、こちらを振り向きざま言った。
「えっ? ここ?」
「ふうん。ここが現場ね」僕の疑問符を完全に無視して、ミナミはつかつかと熊田の隣まで歩いていった。
「家に帰るところだったんですけど。確か時間は夜の8時とかそのくらいでした。その日は部活で遅くまでかかってたんです。今日みたいに蒸し暑い日でしたね。俺がここを通りかかったときも、ここは誰も人がいなくて、なんだか寂しい感じでした」
「人形はどちらの方向から?」
「さっきの川の方角から来たと思います。そのとき俺は反対を向いてて……つまりそれは俺の背後をついてきてたわけです。そしてこの辺で俺の横を通り過ぎていきました。そのときの恐怖といったらないっすよ! しばらく金縛りみたいになってました。汗なんか一気に引っ込みましたよ」
熊田は大袈裟なくらいに身振り手振りを交えながら、いかに怖かったかを力説した。どうやら、体は大きいが肝は小さいようだ。
「ちょっと、誠二くん。写真!」
急にこちらに話を振られて、とっさになんのことか理解できなかった。
「なにぼーっとしてんのよ。現場写真、撮っておいてよね!」
そういえば、出てくるときにミナミからスマホを持たされていた。あれは僕に現場写真を撮れということだったらしい。
「それならそうと初めから言ってくれればいいのに」
ぼそっとそう言うと、すぐに冷たい声が返ってきた。
「なにぶつぶつ言ってんの? さっさとしなさい」
僕は言われるがまま、背負っていたデイパックからスマホを取り出し、めぼしい場所を撮影し始めた。液晶に映る風景はなんの変哲もない住宅地の通り。自分でもなにが写したいのかよくわからない。
写真を撮りながら、ふと心になにか引っ掛かった。
「あれ? そういえばなんか変じゃないですか?」
「なにが?」
「だってあの書き込みでは、現場はさっきの川沿いって書いてあったじゃないですか。それに確か人形は前からやってきたって……」
「それはタクさんの書き込みでしょ。なにも問題ないじゃない」
「え? だってじゃあなんで現場が全然違うんですか。問題ないことないじゃないですか!」
僕がそう言うと、ミナミは心底侮蔑した眼差しをこちらに向けながら、海の底まで潜りそうなくらいの深い深い溜息をついた。
「なにか、ものすごくくだらない勘違いをしてるみたいだけど」
「勘違い?」
ふとミナミの傍らにいる熊田を見ると、困った顔をしながら愛想笑いを浮かべている。その顔を見て、はっと気づいた。
「この人……。熊田さんはタクさんじゃない……?」
「そうよ」
「え? でもじゃあこの人はいったい……?」
「決まってるじゃない。もう一人の目撃者よ」
頭の中で、あの書き込みのことを想起してみる。もう一人の目撃者といえば、あの人しかいない。でも目の前の人物とのイメージがあまりにもかけ離れているため、素直に認めることがためらわれた。
「あのぅ。もしかしてもしかすると……」
熊田に恐る恐る訊ねてみると、彼は少々照れくさそうに言った。
「すみません。俺がまゆっぴなんすよ」
目の前が一瞬真っ暗になる。暑さと衝撃の事実に眩暈を覚え、数歩後ろによろめく僕であった。
「まゆっぴさん? なんでまたまゆっぴなんてハンドルネームを……」
まゆっぴさんの可憐なイメージが、ガラガラと音を立てて崩れていく。代わりに目の前の筋骨隆々な、僕よりも遥かに男らしい人物が、スカートを履いて化粧までして僕に微笑んでくる映像が脳裡を駆け巡った。僕は思わずぶんぶんと頭を振る。
「いやあ。ほら、ネット上ではちょっと違う人物になってみたいって思うじゃないっすか」
熊田はがははと豪快に笑った。だからって、その顔でまゆっぴはないだろう。
とりあえず、なんだか腑に落ちない部分もあったが、僕はまた現場撮影を再開した。それにしても暑い。汗が額から顔の輪郭を伝い落ちていく。ふと空を見上げるが、ギラギラとした太陽はまだ高い位置にあり、入道雲がソフトクリームみたいな形をして、夏を演出していた。
「やっぱりまだタクさんとは連絡取れてないんですか?」
空の向こうの青さに心を逃避させていた僕の耳に、そんな台詞が聞こえてきた。
「うん。あれから何度かメールしてみたりしたけど、さっぱり返事が来てないのよねぇ」
「どうしたんでしょう。なにかいろいろ忙しいんですかね?」
ミナミと熊田はいつの間にか日陰に避難している。そのツーショットに軽く怒りを覚えながら、僕もその日陰に入っていった。
「タクさんって、最初に書き込みした人ですよね。連絡取れないんですか?」
「そうなのよ。本当はタクさんにも話とかいろいろ聞きたいんだけど、連絡取れないんじゃ仕方ないわよね」
ミナミはそう言って軽く息を吐いた。
その後、ある程度写真も撮り終えたところで、そろそろ解散しようという話になった。
「ああもう。早くクーラーの効いた涼しいところに行かないと死ぬ。ちょっと誠二くん。なんでもいいから扇いで」
「ええー。勘弁してくださいよ」
僕たちがそんなやりとりをしていると、横で熊田がなにやら言いたそうにこちらを見つめているのに気がついた。
「熊田さん。どうしたんですか?」
「あのぅ。これからまだ時間ってありますか?」
なんとなくすがるような目をこちらに向ける。
「まあ、特に予定はないけど」
ミナミがそう言った。ということは、必然的に僕も付き合うことになるのだろう。
「ちょっとこれから俺の家に来てもらえませんか? 相談したいことがあって」
僕とミナミは顔を見合わせる。
「冷たいお茶と水ようかんくらい出しますから」
それを聞いて、一も二もなく熊田の家に行くことになった。
あれから家を出て、僕たちはコンビニで買ったアイスを食べながら例の川沿いを歩いていた。僕は乗ってきた自転車を降り、押して歩いている。
いわゆるこれが部活動。もちろん、アイスを食べることではなく、調査がメインなのだが。
ちなみにミナミのアイスクリーム代も僕持ちである。
陽炎がのぼる道を並んで歩く。焼け付くような日差しが容赦なく降り注いでくる。持っていた棒付きのアイスはみるみるうちにとろけ、垂れた雫が地面に滴り落ちて、小さな染みを作った。
「タクさんのメールによると、人形を目撃したのがこの辺らしいんだけど」
鍔広の白い帽子を被って、水色のワンピースを身につけたミナミは、なんというか、とても可憐で少なからずドキッとさせられた。眼鏡もコンタクトに変えたようで、先程とはかなりイメージが違う。彼女なりに、いろいろとそのときの服装のコンセプトがあるらしい。男の僕からすれば、なにもそこまでこだわらなくてもいいような気もするのだが。
あれから僕の家を出たミナミは、すぐ隣の自分の家に戻り、シャワーを浴びて着替えてきたのだ。冷房器具のない僕の部屋のせいで汗だくになったと散々文句を垂らしていたが、そもそもそれならば僕の部屋で作業をしなければいいのにと言いたい。
まあ、実際に言ったら張り倒されそうなので言えるわけもないが。
とにかく、強制的に例の人形の目撃現場に連れてこられたわけだが(ちなみに自転車にミナミを乗せて連れてきたのは僕だ)、これといってなにをすればいいのかわからない。二人ともアイスを食べ終わり、いよいよ活動開始といったところではあるのだが。
周りを見渡すと、そこには見慣れた住宅地があり、間を細い川が走っている。川には小さな橋が架かっていて、そこは僕が通学路としていつも通っているところだった。ミナミは主にバスで通学しているため、いつもは違う道を通っているらしい。
「なんの変哲もないところだと思うんですけどねぇ」
そう言いながらも、僕はあることを思い出していた。
あの日見た光景。
あの時が止まったかのような感覚。
そう、あのとき見た彼女もあの橋の上にいた。
「そういえば、彼女もあのとき……」言いかけたと同時くらいに、ミナミがなにかに気づいて声を上げた。
「あっ。来た来た!」
一人の男がこちらに向かって歩いてきていた。ミナミは軽く手を振っている。突然の状況に僕はしばし戸惑う。どういうことだ?
「あ、どうも。ミナミさん……ですよね。オカ研の」
男は近くまで来ると、やや緊張した面持ちでミナミに話しかけた。かなり背も高く、がっちりした体格をしているのがTシャツごしにもよくわかる。体育会系という言葉が非常によく似合う人だ。
「ええ。どうも初めまして。十倉ミナミです」
「あ、どうも。熊田です。あの、この人は?」
男性は僕に視線をずらして、軽く会釈してきた。僕もそれにつられるように会釈を返す。
「ああ、こののほほんとした顔してるのは私の後輩です。まあ助手みたいなものだから、あまり気にしないでください」
酷い言われようだ。
「熊田十蔵といいます。よろしく」
「間木田誠二です。こちらこそよろしくお願いします」
熊田十蔵。なんだか名前だけでも強そうだ。しかし、流れで挨拶まで交わしてしまったが、この人物はいったい誰なのだろう。待ち合わせをしているなんて僕はひと言も聞いていない。ミナミの場合、状況などを説明してくれないのはいつものことなのだが。
「あのぅ。ミナミさん。状況が読めないんですけど……」
僕の台詞に、ミナミは「はあ? なに言ってんの?」という表情で返してきた。おまけに深々と溜息までついたりして。まるで僕が悪いみたいじゃないですか。
「さっき見たでしょ。あの書き込み。彼は目撃者よ。例の人形の」
動く人形。では彼が。
「え、もう会う約束取り付けてたんですか!」
「当たり前でしょ。ネタは新鮮なうちにさばいておかないとね」
僕にしてみれば、まったくそそられない類のネタだが。
「とりあえず、さっそくですけど、その人形を目撃したときの状況を教えてもらえますか?」
ミナミはにこりと熊田に微笑みながら言った。きっと男はみんなこの笑顔に騙されるのだろう。
「え、ええと」熊田は少し緊張しているのか、落ち着きなくきょろきょろと辺りを見回した。しばらくそうしていたかと思うと、なにかを思い出したのか左の掌に右の拳をぽんっと当てて勝手に歩き出した。取り残された僕たちは、熊田の行動をしばらく観察する。そうしていると、熊田がはっとした様子でくるりとこちらを向き、「あ、すみません! ついてきてください!」と呼びかけてきた。なんというか、ちょっと独特な人だ。
ミナミと僕は、熊田のあとを黙々とついていった。なぜか川沿いから離れて住宅街のほうへと入っていく。人通りはなく、閑散としていた。もしこれが夜だったら、少し怖いかもしれない。
「ええと、確かこの辺りで見たと思います」
熊田が急に立ち止まって、こちらを振り向きざま言った。
「えっ? ここ?」
「ふうん。ここが現場ね」僕の疑問符を完全に無視して、ミナミはつかつかと熊田の隣まで歩いていった。
「家に帰るところだったんですけど。確か時間は夜の8時とかそのくらいでした。その日は部活で遅くまでかかってたんです。今日みたいに蒸し暑い日でしたね。俺がここを通りかかったときも、ここは誰も人がいなくて、なんだか寂しい感じでした」
「人形はどちらの方向から?」
「さっきの川の方角から来たと思います。そのとき俺は反対を向いてて……つまりそれは俺の背後をついてきてたわけです。そしてこの辺で俺の横を通り過ぎていきました。そのときの恐怖といったらないっすよ! しばらく金縛りみたいになってました。汗なんか一気に引っ込みましたよ」
熊田は大袈裟なくらいに身振り手振りを交えながら、いかに怖かったかを力説した。どうやら、体は大きいが肝は小さいようだ。
「ちょっと、誠二くん。写真!」
急にこちらに話を振られて、とっさになんのことか理解できなかった。
「なにぼーっとしてんのよ。現場写真、撮っておいてよね!」
そういえば、出てくるときにミナミからスマホを持たされていた。あれは僕に現場写真を撮れということだったらしい。
「それならそうと初めから言ってくれればいいのに」
ぼそっとそう言うと、すぐに冷たい声が返ってきた。
「なにぶつぶつ言ってんの? さっさとしなさい」
僕は言われるがまま、背負っていたデイパックからスマホを取り出し、めぼしい場所を撮影し始めた。液晶に映る風景はなんの変哲もない住宅地の通り。自分でもなにが写したいのかよくわからない。
写真を撮りながら、ふと心になにか引っ掛かった。
「あれ? そういえばなんか変じゃないですか?」
「なにが?」
「だってあの書き込みでは、現場はさっきの川沿いって書いてあったじゃないですか。それに確か人形は前からやってきたって……」
「それはタクさんの書き込みでしょ。なにも問題ないじゃない」
「え? だってじゃあなんで現場が全然違うんですか。問題ないことないじゃないですか!」
僕がそう言うと、ミナミは心底侮蔑した眼差しをこちらに向けながら、海の底まで潜りそうなくらいの深い深い溜息をついた。
「なにか、ものすごくくだらない勘違いをしてるみたいだけど」
「勘違い?」
ふとミナミの傍らにいる熊田を見ると、困った顔をしながら愛想笑いを浮かべている。その顔を見て、はっと気づいた。
「この人……。熊田さんはタクさんじゃない……?」
「そうよ」
「え? でもじゃあこの人はいったい……?」
「決まってるじゃない。もう一人の目撃者よ」
頭の中で、あの書き込みのことを想起してみる。もう一人の目撃者といえば、あの人しかいない。でも目の前の人物とのイメージがあまりにもかけ離れているため、素直に認めることがためらわれた。
「あのぅ。もしかしてもしかすると……」
熊田に恐る恐る訊ねてみると、彼は少々照れくさそうに言った。
「すみません。俺がまゆっぴなんすよ」
目の前が一瞬真っ暗になる。暑さと衝撃の事実に眩暈を覚え、数歩後ろによろめく僕であった。
「まゆっぴさん? なんでまたまゆっぴなんてハンドルネームを……」
まゆっぴさんの可憐なイメージが、ガラガラと音を立てて崩れていく。代わりに目の前の筋骨隆々な、僕よりも遥かに男らしい人物が、スカートを履いて化粧までして僕に微笑んでくる映像が脳裡を駆け巡った。僕は思わずぶんぶんと頭を振る。
「いやあ。ほら、ネット上ではちょっと違う人物になってみたいって思うじゃないっすか」
熊田はがははと豪快に笑った。だからって、その顔でまゆっぴはないだろう。
とりあえず、なんだか腑に落ちない部分もあったが、僕はまた現場撮影を再開した。それにしても暑い。汗が額から顔の輪郭を伝い落ちていく。ふと空を見上げるが、ギラギラとした太陽はまだ高い位置にあり、入道雲がソフトクリームみたいな形をして、夏を演出していた。
「やっぱりまだタクさんとは連絡取れてないんですか?」
空の向こうの青さに心を逃避させていた僕の耳に、そんな台詞が聞こえてきた。
「うん。あれから何度かメールしてみたりしたけど、さっぱり返事が来てないのよねぇ」
「どうしたんでしょう。なにかいろいろ忙しいんですかね?」
ミナミと熊田はいつの間にか日陰に避難している。そのツーショットに軽く怒りを覚えながら、僕もその日陰に入っていった。
「タクさんって、最初に書き込みした人ですよね。連絡取れないんですか?」
「そうなのよ。本当はタクさんにも話とかいろいろ聞きたいんだけど、連絡取れないんじゃ仕方ないわよね」
ミナミはそう言って軽く息を吐いた。
その後、ある程度写真も撮り終えたところで、そろそろ解散しようという話になった。
「ああもう。早くクーラーの効いた涼しいところに行かないと死ぬ。ちょっと誠二くん。なんでもいいから扇いで」
「ええー。勘弁してくださいよ」
僕たちがそんなやりとりをしていると、横で熊田がなにやら言いたそうにこちらを見つめているのに気がついた。
「熊田さん。どうしたんですか?」
「あのぅ。これからまだ時間ってありますか?」
なんとなくすがるような目をこちらに向ける。
「まあ、特に予定はないけど」
ミナミがそう言った。ということは、必然的に僕も付き合うことになるのだろう。
「ちょっとこれから俺の家に来てもらえませんか? 相談したいことがあって」
僕とミナミは顔を見合わせる。
「冷たいお茶と水ようかんくらい出しますから」
それを聞いて、一も二もなく熊田の家に行くことになった。
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