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クリスマスツリーが結ぶ幸せの鎖
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「師匠! 星の飾りつけ終わりました!」
「ご苦労さん! 下りて来てくれ」
「了解っす!」
俺は五メートルの高さはある金属製の足場から、慎重に、けれども素早く地面に下りる。すべての作業を終わらせて師匠の元に着いた頃には、陽射しが弱くなり濃いオレンジ色に変わりつつあった。
「来ました」
「おう、お疲れさん。今年もいい出来だな」
「そうなんすか?」
「あん? 手塚おめぇ、この仕事は初めてなのか?」
「今年の四月に入ったばかりなんで、そうっすけど」
「はぁ。ったく、誰か教えてやれよ」
師匠が頭を軽く掻きながら、俺が今までいた場所を見上げる。足場は他の作業員がみるみるうちに解体し、すでに一番下の土台が残るだけになっていた。俺も師匠の目線に合わせる。巨大とまではいかないにしろ、それなりに大きなこのクリスマスツリーは、この時期にお披露目される商店街の名物らしい。俺の飾ったてっぺんの星が、キラキラとオレンジ色の光を反射している。
「ところで師匠」
「あんだ?」
「このツリー、立てた意味あるんすよね?」
俺の言葉に師匠の顔が上気する。
「あたりめぇだろ! こいつを立てるのは毎年の恒例行事なんだ。商店街の利用者はもちろんだが、このツリーを目当てにした観光客も来るんだぞ。それに、このクリスマスツリーはな『幸せを運ぶ』ってんで結構有名なんだぞ」
「え? そんなんすか」
改めてツリーを見る。トナカイやサンタクロース、赤と白の靴下の飾りと装飾は普通だ。大きさだって、五メートルと少し大きいぐらい。何の変哲もないツリーだ。
「……本当っすか?」
「何だ、その疑いの目は? 俺が嘘吐くとでも?」
「いや、そんなんじゃないっすけど……」
すると、師匠はふっと微笑んだ。
「まぁ、見てろや。それに、周囲の声にも注意すんだな。ほれ、これでも飲んであったまれ」
そう言って温かい缶コーヒーを渡してきた得意げな師匠に、俺は返す言葉がなかった。
とりあえず点灯式までの間、俺はコーヒーを飲みながら周囲の様子を窺うことにした。プシュッと開いたプルタブの穴から、周囲の様子を霞ませるような湯気が立ち上った。
「あら?」
そう言って香苗が足を止める。半ば雑踏に身を任せていた俺は、前のめりになりながらも、どうにか香苗の近くに足を止めた。
「どうした香苗?」
「ほら、あれ」
香苗の指が宙を指す。その指先の延長戦には、高さが五メートルはあろうかという、巨大なクリスマスツリーがあった。木の枝葉には赤や黄色、青の球体の飾りに、サンタやトナカイの小さなぬいぐるみが飾られていて、木のてっぺんには星型の飾りが夕日を受けてオレンジ色に輝いていた。
「そうか。もうそんな時期か」
「えぇ。これから点灯式をするみたいよ」
香苗が目をキラキラさせて俺を見る。これは香苗お得意の「お願い作戦」。どうしても譲れないお願いをする時の必殺技だ。意識的なのか無意識なのかはわからないが、期待に満ちたその眼差しを裏切ることは、俺には到底できなかった。
「……点灯式まで、待ってみるか?」
「まぁ! いいの?」
「そんな期待に満ちた顔をされちゃ、誰だって断れないだろ」
「あなたのそこが優しいところよね。姉さんも惚れるわけだわ」
香苗のその言葉と笑顔に、なぜだか急に顔が熱くなる。年甲斐もなく照れてしまったようだ。
「からかうなよ。まぁ、俺もそんな香苗が可愛いと思うけどな」
今度は香苗の顔がほんのり赤くなった。
「か、からかわないでくださいよ……」
「お、赤くなったな」
「寒いからです」
「やっぱり帰るか?」
「意地でもいます」
「そうか」
今度は俺が笑う番だった。ふとクリスマスツリーに目を向ける。夕日が沈んできたせいか、星型の飾りに光はもう当たっていなかった。代わりに訪れた薄暗い闇に、クリスマスツリーの輪郭だけがぼうっと浮き出ている。
「なぁ、香苗」
「なんですか?」
「これからも、傍にいてくれるか?」
二・三秒の間が空いた。
「何言っているんですか。当たり前ですよ」
香苗は赤い手袋に包まれた左手で、黒い手袋をした俺の右手を握った。
「ありがとうな」
「お礼は姉さんにも言ってくださいね」
俺は香苗の左手を改めて握り直した。もうこの幸せを離さないと誓って。
手袋をしているはずなのに、冷気が両手を凍えさせる。夕闇が迫っているせいだろうか。
「くしゅん!」
美穂が可愛らしいくしゃみをする。
「ぶえっくしゅん!」
美穂の左隣に立っていた孝太郎さんも盛大なくしゃみをした。
「ふ、二人共、大丈夫?」
立て続けのくしゃみに、さすがに心配になってしまう。十二月のはじめとはいえ、お日様が沈むと途端に冷気を強く感じるからだ。
「あぁ、ごめんなさい聡子さん。大丈夫だよな、美穂ちゃん?」
「うん、大丈夫」
美穂の返事の間に、鼻水をすする音が割り込む。
「大丈夫じゃないでしょ。ほら、美穂。私のポケットに手を入れて」
美穂の右手を、私のコートの左ポケットにそっと入れる。
「わ。あったかい!」
「ほら、寒かったんでしょ。点灯式まで待てる?」
「待つの! せっかく三人で見る初めての点灯式なんだから」
美穂の右手がポケットの中でグッと握られたのが分かった。美穂の頑固なところは、元夫に似てしまったみたい。
「あ、孝太郎さんにはこれを」
私はコートの右ポケットに入れていた使い捨てのカイロを、孝太郎さんに差し出した。
「えっ、俺は大丈夫ですから」
「さっきのくしゃみだと、大丈夫じゃなさそうですよ」
孝太郎さんは困ったように微笑んだ。あの盛大なくしゃみを聞いてしまった以上、とてもじゃないけど大丈夫だとは思えなかった。
「私は大丈夫ですから、はい」
「……それじゃあ、遠慮なく」
使い捨てカイロが私の右手から孝太郎さんの左手に渡る。
「あったけー」
孝太郎さんがカイロの乗った左手を軽く握る。その後、カイロを左の頬に押し当てたり手の中で踊らせたりている。
「よかった」
「ありがとうございます。やっぱり聡子さんには頭が上がらないなぁ」
孝太郎さんが優しく笑いかけてくる。この笑顔に何度救われただろうか。
「あの、孝太郎さん」
「何ですか?」
「いろいろ、ありがとうございました」
「え! どうしたんですか、突然?」
視線を、クリスマスツリーを見上げる美穂の頭に落とす。
「美穂や私を受け入れてくれたことや、周囲を説得してくれたこと。他にもたくさん。孝太郎さんに出会って、私、また光が見えたような気がするんです」
視線を孝太郎さんに戻す。孝太郎さんは再び優しい笑みを浮かべていた。
「お礼を言うのは俺の方です。聡子さんや美穂ちゃんに出会えて、本当に嬉しかったんです。まして、こうして家族として受け入れてくれた。それが本当に奇跡みたいで」
「孝太郎さん……」
孝太郎さんは恥ずかしそうに、カイロを持った左手で頭を軽く掻く。私も何だか恥ずかしくなって、少し視線を外した。
「……もう二人共。聞いてるこっちが恥ずかしいよ」
美穂の言葉にハッと我に返る。と、同時に顔が熱くなってしまった。
「あっ。ご、ごめんね美穂」
「えっと、美穂ちゃん、今のは聞き流してくれな」
「流さないよ」
美穂がポケットから右手を出し、私の左手を強く握る。反対の手は孝太郎さんの右手を握っていた。
「お母さんも孝太郎さんも、やっと幸せになったんだから、これから三人でもっと幸せにならなきゃ。それに今回は、私達が家族になって初めての大型イベントだから見たかったんだよ。このクリスマスツリーの点灯式を見ると幸せになれるって、結構有名なんだから」
「美穂……」
「美穂ちゃん……」
「……あ、一つ間違えた」
「何を?」
「これからもよろしくね! お母さんに……お父さん!」
美穂が満面の笑みを浮かべる。私と孝太郎さんは思わず顔を見合わせた。
「……ありがとな、美穂ちゃん!」
孝太郎さんが美穂の頭をガシガシと撫でた。
「ち、ちょっとお父さん! 髪が乱れるから!」
私はそんな二人を見て、笑いを堪えられなかった。忘れかけていた本当の幸せの香りが、私の鼻をくすぐっているようだった。
「う、わー。結構混むんですねー」
「そうね。矢島はこの点灯式、初めてなの?」
「はい。地元にいながら、なかなか来る機会がなくて」
矢島の目がキラキラしている。まるで、初めておもちゃ屋さんに来た子どものようだった。
クリスマスツリーの装飾も綺麗だったけど、それに負けないぐらい商店街のアーケードもクリスマス色に染まっていた。赤や緑のモールがあちらこちらに飾られている。モールは商店街の照明を乱反射して、アーケード内を淡い赤や緑色に染めていた。
「もう少し、近づいてみる?」
「いえ。これ以上行くと、永島先輩とはぐれそうなんで」
そう言うと矢島は、夕闇をバックにしたクリスマスツリーに目線を移した。
「結構大きいですよね、あのツリー」
「えぇ。五メートルはあるって聞いたわ」
「へー、よく立てたなー。装飾も可愛いし」
矢島はスマートフォンを取り出すと、ズームを最大化して、何枚か写真を撮った。
「よし。永島先輩、今度はクリスマスがテーマのコンペに参加しましょう!」
「いいわね。今年はもう間に合わないから、来年ね」
「はい!」
矢島がスマートフォンを、大事そうに斜め掛けのバッグにしまう。私は人だかりができ始めたツリーの周辺に目をやった。
思えば、今年は激動の年だった。建設会社を辞め、矢島と会社を立ち上げて、直後に初めてデザインが採用され。以前のまま建設会社にいたら決して味わえないような、密度の濃い一年だった。
「永島先輩」
不意に矢島に呼ばれて左を向く。いつになく恥じらっているような表情だった。
「どうしたの?」
「あの、本当にありがとうございました。今年は、その、永島先輩にたくさん迷惑をかけてしまいましたし……」
もじもじしながら矢島が喋る。初めて見る矢島の様子に、私は思わず吹き出してしまった。
「な! 何で笑うんですか!」
「ご、ごめん。なんか、いつもの矢島じゃないから、可笑しくて」
矢島がムスッとした表情でツリーの方向を見る。少し怒らせてしまったかな。
「……迷惑なんかじゃ、なかったよ」
「え?」
矢島の顔がこちらを向く。目を丸くしていた。
「矢島が誘ってくれなかったら、こんなに密度の濃い日々を味わえなかったもの。そりゃ、最初の頃はこれからどうなるかっていう不安が強かったけど、案が採用され始めてからは本当に仕事が楽しかったの。だから、全然迷惑じゃなかったんだよ」
笑顔でそう伝える。私の本心だった。すると、矢島の目が潤み始めた。
「や、矢島?」
「よ、よかった。そう言ってもらえて。本当に、迷惑かけたんじゃないかって、それだけが、心配で……」
人目をはばからず、矢島の目から涙が流れ始めた。矢島が泣くなんて社内恋愛が終わって以来だったから、少しワタワタしながら言葉を発した。
「そ、そんなこと! ほら、大丈夫だから! 涙拭いて!」
私が差し出した水色のハンカチを、矢島はしっかり受け取って片方ずつ目に当てた。
「ありがとうございます、永島先輩」
「落ち着いた?」
「少し」
矢島は一度、大きく息を吐いた。次に見せた表情は、いつもの矢島らしい笑顔に戻っていた。
「ハンカチ、ありがとうございました」
「どういたしまして」
「永島先輩。これからも、よろしくお願いしますね」
「私の方こそ。よろしくお願いしますよ、矢島『社長』」
途端、矢島の顔が赤くなった。
「せ、先輩、そう呼ばれると恥ずかしいって何度も!」
「いいじゃない、本当の役職なんだから」
「も、もう!」
矢島の困った顔に、私は再び笑いが堪えられなかった。
人生に答えはないと時々聞くけれど、あるのは「正解」じゃなくて、きっと「解答」なんだと思う。正解も不正解も無い。あるのは人それぞれの「解答」。それが積み重なって、その人の人生ができていく。これが、私が出した今年の「解答」。来年はどんな「解答」を出せるのか。きっと矢島となら、素敵な「解答」が出せる。私はそんな確信を抱いていた。
「ほら雄一! はやくはやく!」
「おい由利! そんなに急かすなよー」
今日はずっと来たかった、商店街のクリスマスツリー点灯式。早めに出てきたはずなのに、クリスマスツリーの周囲には、すでに人だかりができていた。
「あー、これ以上前には行けないみたいだな」
「そうみたいね……。ここで妥協しようかな」
私はパン屋さんの脇に置かれていた、水色のベンチに腰かける。雄一も私の左隣に続いた。
「寒いな。缶コーヒーか何か買って来るか?」
「ううん、大丈夫。雄一もいるし」
そう言って、私は雄一の右手を自分の左手で包む。手袋越しでもじんわりとお互いの温かさが伝わり合った。
「温かいな……」
「そうだね……」
商店街は屋根がプラスチックのアーケードで覆われていたから、ここからだと頭上の星は見えない。けれど、クリスマスツリー越しに微かに輝く星を見ることができた。
「雄一」
「どうした?」
「なんか……、いろいろとごめんね」
今の正直な気持ちを口にする。
「どうしたんだよ、いきなり」
「ほら。五月、いきなり私を訪ねてきたじゃない? 最初は、前の喧嘩があったから『今さら何よ!』とか思っていたけど、あの時雄一が来なかったら、きっと今、こうして並んで座ってなかったから。その、ありがたいような、申し訳ないような……」
思わず語尾を濁してしまう。面と向かって言うのが恥ずかしくて、いつの間にか顔も下を向いていた。
「……ぶっ」
雄一の吹き出した声で顔を上げる。大笑いしそうなのを必死で堪えているようだった。
「な、どうして笑うの!」
「ご、ごめん。いつもの由利らしくないなって思って」
雄一はフウッと一つ息を吐いた。
「謝らなきゃいけないのは俺の方だよ。喧嘩した時、由利の気持ちを理解しようと努力しなかったんだから。あの時、もっと由利の気持ちに寄り添っていればよかったんだよな」
「私も。もっと雄一の状況もわかってあげるべきだった」
「ごめんな」
「ううん、私こそごめんね」
雄一の顔が、商店街のほのかな光に照らされている。それを見た途端、私の心臓が鼓動を速くし始めた。
「雄一、あのね」
「うん」
「これからも、一緒にいてくれる?」
すると雄一が目を丸くした。
「それ、もしかしてプロポーズか?」
そんなことを意識していなかった私は、顔が一気に熱くなった。
「え! いいえ、そういうことじゃ。でも、そうなる、のかな?」
言葉がしどろもどろになってしまった。その時、雄一の右手が私の左手を強く包み込んだ。
「くそー。俺から言おうと思っていたのに」
「え、じゃあ」
「あぁ。これからも一緒にいような、由利」
「……うん!」
大きな隔たりもあったけれど、二人でそこに橋を掛けた。もうこの橋を崩さないよう、これからは一緒に生きていく。ツリーの向こう側に見える星の輝きが、少しだけ強くなった気がした。
「いましたか、健一さん?」
「いいえ、さっぱりですね。渡木さんの方はどうですか?」
「こちらもさっぱりです。これだけ人が多いと、さすがに辛いですね」
大人になって迷子になるなんて思ってもみなかった。でも、この人だかりじゃ仕方がないのかもしれない。健一さん、康二さん、そして私の三人で来ていたはずの点灯式は、いつの間にか私と健一さんの二人だけになってしまった。
「少し休みましょう。やみくもに探していては疲れるだけですから」
「そうですね。あ! あそこのベンチにしましょう」
私と健一さんは、花屋さんの隣に置かれた青いベンチに腰かけた。人の波は、ここに着いた頃より大きくなっているようだった。
「大丈夫ですか、渡木さん?」
「はい、私は大丈夫です。健一さんはどうですか?」
「私も大丈夫です。ありがとうございます」
健一さんが笑顔を見せる。何度見ても、この笑顔には破壊力があった。健一さんや康二さんの笑顔を見るたび、お二人に抱きつきたいと何度も思ってしまう。
初めて出会った六月から、およそ月一回のペースで健一さんと康二さんに会っている。映画を見たり本屋さんに行ったりと、友人と過ごすような雰囲気でお二人と時間を共にしてきた。私としてはもう一歩踏み込みたいという気持ちがあったけれど、今のままの関係も悪くないなと思い始めている。
「それにしても、康二はどこにいったのやら」
「すぐに見つけられると思ったんですけどね」
「私もそう思いました。見つけたら少しお灸を据えないと」
珍しく健一さんがご立腹だ。こんな表情もするんだと、ついまじまじと顔を見てしまった。
「どうされました、渡木さん?」
「あ! いえ、何でもないです!」
慌てて健一さんの顔から視線を外す。
「そうだ。渡木さんにお礼をしたいと思っていたんです」
「お礼、ですか?」
突然の言葉に声が若干裏返ってしまった。
「はい。この数ヵ月間、こんなにお若い女性と知り合えて、ましてや映画や本屋さんなどにも行くことができて、本当に楽しかったです。ありがとうございます」
破壊力抜群の笑顔と優しいお礼の言葉に、私はノックアウト寸前だった。
「い、いえ。私の方こそ、とても楽しい時間を過ごせましたので、お、お互い様です!」
私の言葉に健一さんが笑いを零す。
「あ、えぇと、おかしかったですよね」
「あぁ、ごめんなさい。渡木さんを見ていると、いつも新しい発見があるなぁと思いまして」
健一さんは笑いを堪えきれないようだ。褒められている、んだよね? まぁ、健一さんが笑ってくれるならいいかな。
「あの、渡木さん」
「はい?」
「これからも、私達兄弟に付き合っていただけますか?」
急に真剣な眼差しになった健一さんに、私の胸は大きく拍動した。大きな鼓動音が健一さんにも聞こえてしまうのではと思うほどだった。
「もちろんです! ご迷惑でなければ」
「迷惑だなんて! 本当にありがたいと思っているんですよ」
「そ、そうなのですか?」
「はい」
これは、私も本当の気持ちを伝えなきゃいけない。直感でそう思った。
「……あのっ」
「あー! 二人共いた!」
私の言葉が、聞き覚えのある声に遮られた。
「康二!」
「やっと見つけたよ。まったく、俺からはぐれちゃ駄目じゃないか」
「はぐれたのはどっちなんだい、まったく」
健一さんはあきれ顔を私に見せた。私もそれに同調する。
「そうだ! はい、二人共」
「わ! たい焼きだ!」
「寒いからね、これで温まろう。兄さんも」
「はぁ、康二にはかなわないよ」
私と健一さんは康二さんから受け取ったたい焼きを、手の中で躍らせながら口に運んだ。
「……このままでもいいかな」
「何がですか?」
「あ! 何でもないです、独り言です!」
慌てて笑った私の顔を見て、二人も笑顔になった。
このままの関係を続けていってもいいかもしれない。それは初めて抱いた感情だった。「好き」と「嫌い」だけじゃない、「このまま」の関係。熱いたい焼きを頬張りながら、私はお二人の優しい表情を見つめていた。
思っていたよりも人が多い。地方の、それもかなりローカルな行事だから混まないと思っていたのに。そこは私の判断ミス、だったかな。
「れ、レナさん。本当に大丈夫なんですか?」
「うーん、たぶん」
「たぶんって。やっぱり帰りましょうよ」
「嫌よ。ここまで来たんだから、点灯するまでいるわ」
「で、でも」
マネージャーの横井君が弱気になっている。これは、少し気持ちを上げないと。
「もし嫌だったら先に帰ってもいいのよ、横井君? 私は全然かまわないけれど」
「それじゃあ、俺のマネージャー魂が納得しません!」
「じゃあ、もう少しいましょうね」
「はい!」
横井君を納得させたところで、改めて周囲を見渡す。
点灯式が有名になっているのか、最後に来たピアノを止めた年に比べて格段に人が多くなっていた。もしかしたら、私の正体がばれるのも時間の問題かもしれない。少し背筋がゾクッとして、被っていたキャスケットを目深に被り直した。
「それにしても、どうして今年に限って『行きたい』なんて言ったんですか? 予定を空けてまで」
「そうね……。新たな決意表明って感じかな」
「決意表明、ですか?」
「うん。この点灯式、『幸せを運ぶ』点灯式だって、地元じゃ有名なのよね」
「へー、そうなんですか?」
「そう。だから、今回の節目にどうしても来たくて」
ツリーの飾りは少し変わっていたけれど、木の頂上にある星型の飾りだけは変わっていないようだった。
「そういえば、何を決意するんですか?」
「お、そこ聞いちゃう?」
「あ、まずかったですか?」
横井君が少し慌てたのを見て、私は笑いながら「いいよ」と答えた。
「この前、スポーツメーカーにテレビのコマーシャル曲を提供したじゃない?」
「はい。結構、評判よかったですよね」
「うん。最初は渋っていたけど、反響が凄かったよね。それで、これからは仕事の幅をもっと広げようと思って。横井君には負担をかけちゃうかもしれないけど」
私が仕事量を増やせば、自然とマネージャーの横井君にも負担をかけてしまう。横井君は本当に仕事熱心なマネージャーだから、できれば負担をかけたくはない。でも私の可能性を私以上に信じてくれるのは横井君が一番だった。だから私も横井君の期待に応えたい。いつしかそんな思いが芽生えていた。
「そういうことでしたら、気にしないでください! 僕はレナさんの音楽が好きで、レナさんの傍で働けるだけで嬉しいんですから!」
力強い横井君の返答に、私は心から安堵する。同時に熱い思いが体の底から湧き上がるのを感じた。
「……ありがとう、横井君。これからもよろしくね!」
「はい! よろしくお願いします!」
私の右手と横井君の右手が重なる。その手の温度から、横井君の熱さが伝わってくるようだった。
最高の仕事のパートナーを見つけることができて、私は幸せ者だ。そしてこれからも、私の曲を待っている人に、必要としてくれる人に、たくさん音楽を届けていこう。そう決意した。
「……ねぇ、あれ」
小さな囁き声に我に返る。まずい、ばれた?
「よ、横井君、場所変えよう」
「そ、そうっすね」
私達は場所を変えて、点灯式を見守ることにした。
「おー! 今年も混んでるなー!」
「え、毎年こんな感じなんですか?」
「なんだ理子。まだ来たことなかったのか?」
「は、はい。話には聞いていたんですが、機会に恵まれなくて」
「地元に住んでて? 珍しいわね」
「潜りの地元民なのか?」
「本当に地元民か?」
「もー。三人がかりでからかわないでくださいよー」
私の反論が、三人の笑いと雑踏の賑やかさに掻き消されていく。
商店街の入口に飾られた、巨大なクリスマスツリー。今日はその点灯式だということで、仕事は早めに切り上げ、新見社長、堀田先輩、根岸先輩、そして私の全社員で見学に来たのだ。
「といっても、今年はやけに多い気がするな」
「そうなんですか?」
「えぇ。去年よりは明らかに多いわね」
「俺は去年、来てないからなぁ」
「なんだ、堀田も潜りか?」
新見社長の発言に、堀田先輩は笑いながら否定した。
「違いますよ。去年は、その、彼女と別の場所で過ごしていたんですよ」
「な! 堀田、お前彼女いたのか?」
「私も初耳よ!」
「い、言えるわけ、ないじゃないですか……」
急に堀田先輩の言葉のボリュームが小さくなる。
「もしかして、別れたの?」
「……図星です」
五秒間、雑踏の音だけが響いていた。
「すまん、堀田」
「ごめんね、堀田君」
「いいっす。もう過ぎたことなんで」
私の目にも分かるくらい、堀田先輩の元気がなくなっていた。空気が一気に重苦しくなる。ここは私が空気を変えないと。
「……それにしても、どうして急に点灯式に行こうなんて提案したんですか?」
「あ、あぁ。実は、ある人物と待ち合わせしててな。ついでに皆にも紹介しておこうと思って」
新見社長が腕時計を確認して辺りを見回す。すると、人がまばらな暗がりから男性が出てきた。
「お、さすが! ちょうどの時間だ」
新見社長はその人物に向かって大きく手を振った。
「おーい! こっちだ!」
すると、その人物はこちらに歩み寄ってきた。商店街の明かりがその人物の顔を照らす。その端正な顔を見た瞬間、私は顔が熱くなってしまった。
「和成。あまり大声で呼ぶなよ」
「あぁ。悪いな、優斗。つい」
親し気に新見社長と話している「優斗さん」から、私は視線を外すことができない。
「紹介するよ。俺の幼馴染の」
「さ」
「佐伯優斗さん!」
新見社長が紹介する前に、堀田先輩と根岸先輩の声が被る。
「え! ご存じ、なんですか?」
「ご存じも何も! あの有名なピアニストの佐伯さんじゃない!」
「す、凄い。本人に会えるなんて!」
堀田先輩も根岸先輩も、驚き過ぎて顔が上気していた。
「やっぱり、紹介して正解だったな。優斗、このメンバーが俺の会社の全社員だ」
「へぇ。本当に少数精鋭なんだね」
佐伯さんの目線が堀田先輩から根岸先輩、そして私に移る。私はその目線から逃れられなかった。改めて見ても、佐伯さんの格好良さにますます顔が熱くなる。すると、私を見つめていた佐伯さんの顔もなぜか赤くなった。
「……君、名前は?」
「へ? あ、はい! 小岩井理子です」
「君、僕と付き合わない?」
「……え?」
「は?」
「……えぇ!」
堀田先輩と根岸先輩の声が再び重なる。それ以上に驚いていたのは新見社長だった。
「ちょ、優斗! お前、何言って」
「僕は本気だよ」
「ほ、本気……」
私は、自分の意識を繋ぎとめるので精いっぱいだった。
「り、理子ちゃん! 倒れちゃ駄目よ!」
「優斗、お前! 俺の可愛い社員に、手ぇ出すつもりか?」
「何、理子ちゃんは和成のものなの?」
「そ、そうじゃないが。って、今『理子ちゃん』って!」
「恋の始まりを見たな」
「理子ちゃん、しっかり!」
ここに来る前、飾られるクリスマスツリーは「幸運を運ぶ」と聞かされていた。まさか、こんな幸運が訪れるなんて。ボーッとなりつつある頭に、冬の冷たい風が「現実だよ」と囁きかけているようだった。
「なんとか間に会いましたねー」
「うわぁ。今年も人が多いですね」
「そうね。友辺さん、ついて来てますか?」
「は、はい。なん、とか」
走ったせいで言葉が途切れ途切れになる。腕時計を見ると六時五十一分。点灯式まであと十分ほどだった。
「人が多いから、今年はこの距離で精いっぱいですね」
「そうね。そこのベンチにでも座って、待っていましょうか」
朝陽支店長が、薬屋さんの近くに置かれた青いベンチに顔を向ける。
「ぜひ、そうしましょう」
まだ息が上がっている。日頃の運動不足が露呈してしまった。やっぱりデスクワークだけだと体がなまってしまうみたい。少しずつ運動を始めよう、来年から。
「俺、何か温かいものでも買ってきますか?」
「大丈夫、いらないわ。もうすぐ点灯式だから、それを見てからにしましょう」
四人が腰かけると、さすがのベンチもキュイと軋み声を発した。
「あの、一ついいですか?」
「どうしたの、友辺さん」
「どうして、私も点灯式に連れて来ていただけたんですか? 他にも社員の方はたくさんいますし、私、入社したばかりなのに」
転職を決意してから、翌々日には退職願を出した。上司の反応は「そうか、わかった」と薄いものだった。それから必死に転職先を探し、駄目元で憧れていた元得意先に応募したところ、あっさり再就職が決まったのだ。実際に勤め始めたのは今月の一日から。入社してようやく一週間が経ったところだった。
「そうね……」
朝陽支店長が黙ってしまった。
「あ、いえ。言いにくい理由ならいいんです! 私もちょっと立ち入り過ぎましたよね」
「いえ、そうじゃないの。ちょっと言葉を選んでいて」
朝陽支店長は、中野班長と田中班長の顔を交互に見た。何かを確かめるように。そして朝陽支店長は言葉を確かめるように、ゆっくり話し始めた。
「以前、この会社を退職した社員がいてね。友辺さんの前任者なのだけど。その時の辞め方が、辞めた彼女にとっても会社にとっても、どちらにとっても後味が悪いものだったの。だから、この『幸運を運ぶ』っていうクリスマスツリーを見て、もう一度気を引き締めようと思って」
「それと、願掛けもありますよね」
「うん。私はそっちの方が強い気がしますよ」
「そうね。『入れ替わりに入ったあなたには、この会社で良いことがありますように』っていうお願いも込めているから」
「願い、ですか」
正直、驚いてしまった。憧れていたこの会社にも、そんな暗い過去があったなんて。そして私のために願掛けもしてくれたことに、心がフルッと震えたような気がした。
「……私は、大丈夫です」
「え?」
「憧れていた会社ですし、中野班長や田中班長をはじめとした社員の皆さんからも優しくしていただいて、仕事もとても楽しいです。それに、何より朝陽支店長が魅力的ですから、辞める気になんてならないと思います」
すると、朝陽支店長の顔が赤くなった。
「め、面と向かって言われると、さすがに照れるわよ」
「おぉ。支店長が赤くなったの、初めて見ました」
「そうだな。かなりレアだぞ」
「もう、二人共からかわないで!」
その様子を見て、私は思わず口元が緩んでしまった。
「そう、それ。笑顔を忘れないでね」
「え! は、はい」
「友辺さん、入社した直後は表情が硬くて、働き始めてからもあまり笑顔にならないから、少し心配していたの」
「そうですか?」
右手で思わず右頬を触る。
「うん。だから、これからもその笑顔を忘れないでね。そして、改めてこれからよろしくね」
朝陽支店長から握手を求められる。私は慌てて茶色の手袋を外してそれに応えた。
「お集まりの皆さま――」
「あ! 点灯式、始まりますよ!」
「そうね」
「あの、朝陽支店長!」
「うん?」
「私からも、よろしくお願いします!」
「……えぇ! 頼りにしているわ!」
クリスマスツリーの背後には、いくつか星が輝き始めていた。
「どうだ手塚、あったまったか?」
師匠から声をかけられる。俺はすぐに返事ができず、ぼうっと気が抜けたような感覚に身を委ねていた。
「は、はい……」
「どうした? 元気ねぇじゃねぇか」
「いや、あまりにも師匠の言った通りだったんで、驚いてるんですよ」
盗み聞きや盗み見はあまりよくないかもしれなかったけど、耳に入ってきた会話、目に入ってきた人々の表情は、どれも幸せに満ちたものだった。
「だから言ったろぅ! このツリーは『幸せを運ぶ』ってな」
師匠が満足したようにガハハと笑う。
「師匠」
「あんだ?」
「あとでビール一杯、おごります」
「はっは! 生ビールで決まりだかんな! お、点灯式が始まんな」
「お集まりの皆さま、お待たせしました! 五秒前からカウントダウンを始めますので、ご一緒にお願いします。では!」
「五、四、三、二、一!」
カウントダウンの声が大きな渦のようになり、その場の空気を震わせた。
「点灯!」
次の瞬間、クリスマスツリーと商店街のアーケードが眩い光色に染まった。ツリーに飾られた赤や青の電飾はチラチラと瞬き、アーケード内に散りばめられた電球はそこだけ昼間のように輝いている。
「わー!」
「すごいわね!」
見守っていた人達も感嘆の声を上げる。そこにいた人達全員が、幸せ色に染まっているようだった。
「……師匠」
「あんだ? すげぇだろ!」
「はい。あの、来年もこの仕事に携わっていいですか?」
一瞬目を丸くした師匠は、すぐにニカッと笑ってみせた。
「何言ってんだ、あたりめぇだろ! 今から期待してんぞ!」
「……はい!」
幸せは幸せの連鎖を生むのだと、この時初めて感じた。もしかしたら、すべての人生は繋がっているのかもしれない。少しずつ重なりながら繋がる、しなやかで柔らかな鎖のように。
クリスマスツリーの頂上で輝く星が夜空の星々と重なって、新たな星座を創り出していた。
十二月七日 クリスマスツリーの日
「ご苦労さん! 下りて来てくれ」
「了解っす!」
俺は五メートルの高さはある金属製の足場から、慎重に、けれども素早く地面に下りる。すべての作業を終わらせて師匠の元に着いた頃には、陽射しが弱くなり濃いオレンジ色に変わりつつあった。
「来ました」
「おう、お疲れさん。今年もいい出来だな」
「そうなんすか?」
「あん? 手塚おめぇ、この仕事は初めてなのか?」
「今年の四月に入ったばかりなんで、そうっすけど」
「はぁ。ったく、誰か教えてやれよ」
師匠が頭を軽く掻きながら、俺が今までいた場所を見上げる。足場は他の作業員がみるみるうちに解体し、すでに一番下の土台が残るだけになっていた。俺も師匠の目線に合わせる。巨大とまではいかないにしろ、それなりに大きなこのクリスマスツリーは、この時期にお披露目される商店街の名物らしい。俺の飾ったてっぺんの星が、キラキラとオレンジ色の光を反射している。
「ところで師匠」
「あんだ?」
「このツリー、立てた意味あるんすよね?」
俺の言葉に師匠の顔が上気する。
「あたりめぇだろ! こいつを立てるのは毎年の恒例行事なんだ。商店街の利用者はもちろんだが、このツリーを目当てにした観光客も来るんだぞ。それに、このクリスマスツリーはな『幸せを運ぶ』ってんで結構有名なんだぞ」
「え? そんなんすか」
改めてツリーを見る。トナカイやサンタクロース、赤と白の靴下の飾りと装飾は普通だ。大きさだって、五メートルと少し大きいぐらい。何の変哲もないツリーだ。
「……本当っすか?」
「何だ、その疑いの目は? 俺が嘘吐くとでも?」
「いや、そんなんじゃないっすけど……」
すると、師匠はふっと微笑んだ。
「まぁ、見てろや。それに、周囲の声にも注意すんだな。ほれ、これでも飲んであったまれ」
そう言って温かい缶コーヒーを渡してきた得意げな師匠に、俺は返す言葉がなかった。
とりあえず点灯式までの間、俺はコーヒーを飲みながら周囲の様子を窺うことにした。プシュッと開いたプルタブの穴から、周囲の様子を霞ませるような湯気が立ち上った。
「あら?」
そう言って香苗が足を止める。半ば雑踏に身を任せていた俺は、前のめりになりながらも、どうにか香苗の近くに足を止めた。
「どうした香苗?」
「ほら、あれ」
香苗の指が宙を指す。その指先の延長戦には、高さが五メートルはあろうかという、巨大なクリスマスツリーがあった。木の枝葉には赤や黄色、青の球体の飾りに、サンタやトナカイの小さなぬいぐるみが飾られていて、木のてっぺんには星型の飾りが夕日を受けてオレンジ色に輝いていた。
「そうか。もうそんな時期か」
「えぇ。これから点灯式をするみたいよ」
香苗が目をキラキラさせて俺を見る。これは香苗お得意の「お願い作戦」。どうしても譲れないお願いをする時の必殺技だ。意識的なのか無意識なのかはわからないが、期待に満ちたその眼差しを裏切ることは、俺には到底できなかった。
「……点灯式まで、待ってみるか?」
「まぁ! いいの?」
「そんな期待に満ちた顔をされちゃ、誰だって断れないだろ」
「あなたのそこが優しいところよね。姉さんも惚れるわけだわ」
香苗のその言葉と笑顔に、なぜだか急に顔が熱くなる。年甲斐もなく照れてしまったようだ。
「からかうなよ。まぁ、俺もそんな香苗が可愛いと思うけどな」
今度は香苗の顔がほんのり赤くなった。
「か、からかわないでくださいよ……」
「お、赤くなったな」
「寒いからです」
「やっぱり帰るか?」
「意地でもいます」
「そうか」
今度は俺が笑う番だった。ふとクリスマスツリーに目を向ける。夕日が沈んできたせいか、星型の飾りに光はもう当たっていなかった。代わりに訪れた薄暗い闇に、クリスマスツリーの輪郭だけがぼうっと浮き出ている。
「なぁ、香苗」
「なんですか?」
「これからも、傍にいてくれるか?」
二・三秒の間が空いた。
「何言っているんですか。当たり前ですよ」
香苗は赤い手袋に包まれた左手で、黒い手袋をした俺の右手を握った。
「ありがとうな」
「お礼は姉さんにも言ってくださいね」
俺は香苗の左手を改めて握り直した。もうこの幸せを離さないと誓って。
手袋をしているはずなのに、冷気が両手を凍えさせる。夕闇が迫っているせいだろうか。
「くしゅん!」
美穂が可愛らしいくしゃみをする。
「ぶえっくしゅん!」
美穂の左隣に立っていた孝太郎さんも盛大なくしゃみをした。
「ふ、二人共、大丈夫?」
立て続けのくしゃみに、さすがに心配になってしまう。十二月のはじめとはいえ、お日様が沈むと途端に冷気を強く感じるからだ。
「あぁ、ごめんなさい聡子さん。大丈夫だよな、美穂ちゃん?」
「うん、大丈夫」
美穂の返事の間に、鼻水をすする音が割り込む。
「大丈夫じゃないでしょ。ほら、美穂。私のポケットに手を入れて」
美穂の右手を、私のコートの左ポケットにそっと入れる。
「わ。あったかい!」
「ほら、寒かったんでしょ。点灯式まで待てる?」
「待つの! せっかく三人で見る初めての点灯式なんだから」
美穂の右手がポケットの中でグッと握られたのが分かった。美穂の頑固なところは、元夫に似てしまったみたい。
「あ、孝太郎さんにはこれを」
私はコートの右ポケットに入れていた使い捨てのカイロを、孝太郎さんに差し出した。
「えっ、俺は大丈夫ですから」
「さっきのくしゃみだと、大丈夫じゃなさそうですよ」
孝太郎さんは困ったように微笑んだ。あの盛大なくしゃみを聞いてしまった以上、とてもじゃないけど大丈夫だとは思えなかった。
「私は大丈夫ですから、はい」
「……それじゃあ、遠慮なく」
使い捨てカイロが私の右手から孝太郎さんの左手に渡る。
「あったけー」
孝太郎さんがカイロの乗った左手を軽く握る。その後、カイロを左の頬に押し当てたり手の中で踊らせたりている。
「よかった」
「ありがとうございます。やっぱり聡子さんには頭が上がらないなぁ」
孝太郎さんが優しく笑いかけてくる。この笑顔に何度救われただろうか。
「あの、孝太郎さん」
「何ですか?」
「いろいろ、ありがとうございました」
「え! どうしたんですか、突然?」
視線を、クリスマスツリーを見上げる美穂の頭に落とす。
「美穂や私を受け入れてくれたことや、周囲を説得してくれたこと。他にもたくさん。孝太郎さんに出会って、私、また光が見えたような気がするんです」
視線を孝太郎さんに戻す。孝太郎さんは再び優しい笑みを浮かべていた。
「お礼を言うのは俺の方です。聡子さんや美穂ちゃんに出会えて、本当に嬉しかったんです。まして、こうして家族として受け入れてくれた。それが本当に奇跡みたいで」
「孝太郎さん……」
孝太郎さんは恥ずかしそうに、カイロを持った左手で頭を軽く掻く。私も何だか恥ずかしくなって、少し視線を外した。
「……もう二人共。聞いてるこっちが恥ずかしいよ」
美穂の言葉にハッと我に返る。と、同時に顔が熱くなってしまった。
「あっ。ご、ごめんね美穂」
「えっと、美穂ちゃん、今のは聞き流してくれな」
「流さないよ」
美穂がポケットから右手を出し、私の左手を強く握る。反対の手は孝太郎さんの右手を握っていた。
「お母さんも孝太郎さんも、やっと幸せになったんだから、これから三人でもっと幸せにならなきゃ。それに今回は、私達が家族になって初めての大型イベントだから見たかったんだよ。このクリスマスツリーの点灯式を見ると幸せになれるって、結構有名なんだから」
「美穂……」
「美穂ちゃん……」
「……あ、一つ間違えた」
「何を?」
「これからもよろしくね! お母さんに……お父さん!」
美穂が満面の笑みを浮かべる。私と孝太郎さんは思わず顔を見合わせた。
「……ありがとな、美穂ちゃん!」
孝太郎さんが美穂の頭をガシガシと撫でた。
「ち、ちょっとお父さん! 髪が乱れるから!」
私はそんな二人を見て、笑いを堪えられなかった。忘れかけていた本当の幸せの香りが、私の鼻をくすぐっているようだった。
「う、わー。結構混むんですねー」
「そうね。矢島はこの点灯式、初めてなの?」
「はい。地元にいながら、なかなか来る機会がなくて」
矢島の目がキラキラしている。まるで、初めておもちゃ屋さんに来た子どものようだった。
クリスマスツリーの装飾も綺麗だったけど、それに負けないぐらい商店街のアーケードもクリスマス色に染まっていた。赤や緑のモールがあちらこちらに飾られている。モールは商店街の照明を乱反射して、アーケード内を淡い赤や緑色に染めていた。
「もう少し、近づいてみる?」
「いえ。これ以上行くと、永島先輩とはぐれそうなんで」
そう言うと矢島は、夕闇をバックにしたクリスマスツリーに目線を移した。
「結構大きいですよね、あのツリー」
「えぇ。五メートルはあるって聞いたわ」
「へー、よく立てたなー。装飾も可愛いし」
矢島はスマートフォンを取り出すと、ズームを最大化して、何枚か写真を撮った。
「よし。永島先輩、今度はクリスマスがテーマのコンペに参加しましょう!」
「いいわね。今年はもう間に合わないから、来年ね」
「はい!」
矢島がスマートフォンを、大事そうに斜め掛けのバッグにしまう。私は人だかりができ始めたツリーの周辺に目をやった。
思えば、今年は激動の年だった。建設会社を辞め、矢島と会社を立ち上げて、直後に初めてデザインが採用され。以前のまま建設会社にいたら決して味わえないような、密度の濃い一年だった。
「永島先輩」
不意に矢島に呼ばれて左を向く。いつになく恥じらっているような表情だった。
「どうしたの?」
「あの、本当にありがとうございました。今年は、その、永島先輩にたくさん迷惑をかけてしまいましたし……」
もじもじしながら矢島が喋る。初めて見る矢島の様子に、私は思わず吹き出してしまった。
「な! 何で笑うんですか!」
「ご、ごめん。なんか、いつもの矢島じゃないから、可笑しくて」
矢島がムスッとした表情でツリーの方向を見る。少し怒らせてしまったかな。
「……迷惑なんかじゃ、なかったよ」
「え?」
矢島の顔がこちらを向く。目を丸くしていた。
「矢島が誘ってくれなかったら、こんなに密度の濃い日々を味わえなかったもの。そりゃ、最初の頃はこれからどうなるかっていう不安が強かったけど、案が採用され始めてからは本当に仕事が楽しかったの。だから、全然迷惑じゃなかったんだよ」
笑顔でそう伝える。私の本心だった。すると、矢島の目が潤み始めた。
「や、矢島?」
「よ、よかった。そう言ってもらえて。本当に、迷惑かけたんじゃないかって、それだけが、心配で……」
人目をはばからず、矢島の目から涙が流れ始めた。矢島が泣くなんて社内恋愛が終わって以来だったから、少しワタワタしながら言葉を発した。
「そ、そんなこと! ほら、大丈夫だから! 涙拭いて!」
私が差し出した水色のハンカチを、矢島はしっかり受け取って片方ずつ目に当てた。
「ありがとうございます、永島先輩」
「落ち着いた?」
「少し」
矢島は一度、大きく息を吐いた。次に見せた表情は、いつもの矢島らしい笑顔に戻っていた。
「ハンカチ、ありがとうございました」
「どういたしまして」
「永島先輩。これからも、よろしくお願いしますね」
「私の方こそ。よろしくお願いしますよ、矢島『社長』」
途端、矢島の顔が赤くなった。
「せ、先輩、そう呼ばれると恥ずかしいって何度も!」
「いいじゃない、本当の役職なんだから」
「も、もう!」
矢島の困った顔に、私は再び笑いが堪えられなかった。
人生に答えはないと時々聞くけれど、あるのは「正解」じゃなくて、きっと「解答」なんだと思う。正解も不正解も無い。あるのは人それぞれの「解答」。それが積み重なって、その人の人生ができていく。これが、私が出した今年の「解答」。来年はどんな「解答」を出せるのか。きっと矢島となら、素敵な「解答」が出せる。私はそんな確信を抱いていた。
「ほら雄一! はやくはやく!」
「おい由利! そんなに急かすなよー」
今日はずっと来たかった、商店街のクリスマスツリー点灯式。早めに出てきたはずなのに、クリスマスツリーの周囲には、すでに人だかりができていた。
「あー、これ以上前には行けないみたいだな」
「そうみたいね……。ここで妥協しようかな」
私はパン屋さんの脇に置かれていた、水色のベンチに腰かける。雄一も私の左隣に続いた。
「寒いな。缶コーヒーか何か買って来るか?」
「ううん、大丈夫。雄一もいるし」
そう言って、私は雄一の右手を自分の左手で包む。手袋越しでもじんわりとお互いの温かさが伝わり合った。
「温かいな……」
「そうだね……」
商店街は屋根がプラスチックのアーケードで覆われていたから、ここからだと頭上の星は見えない。けれど、クリスマスツリー越しに微かに輝く星を見ることができた。
「雄一」
「どうした?」
「なんか……、いろいろとごめんね」
今の正直な気持ちを口にする。
「どうしたんだよ、いきなり」
「ほら。五月、いきなり私を訪ねてきたじゃない? 最初は、前の喧嘩があったから『今さら何よ!』とか思っていたけど、あの時雄一が来なかったら、きっと今、こうして並んで座ってなかったから。その、ありがたいような、申し訳ないような……」
思わず語尾を濁してしまう。面と向かって言うのが恥ずかしくて、いつの間にか顔も下を向いていた。
「……ぶっ」
雄一の吹き出した声で顔を上げる。大笑いしそうなのを必死で堪えているようだった。
「な、どうして笑うの!」
「ご、ごめん。いつもの由利らしくないなって思って」
雄一はフウッと一つ息を吐いた。
「謝らなきゃいけないのは俺の方だよ。喧嘩した時、由利の気持ちを理解しようと努力しなかったんだから。あの時、もっと由利の気持ちに寄り添っていればよかったんだよな」
「私も。もっと雄一の状況もわかってあげるべきだった」
「ごめんな」
「ううん、私こそごめんね」
雄一の顔が、商店街のほのかな光に照らされている。それを見た途端、私の心臓が鼓動を速くし始めた。
「雄一、あのね」
「うん」
「これからも、一緒にいてくれる?」
すると雄一が目を丸くした。
「それ、もしかしてプロポーズか?」
そんなことを意識していなかった私は、顔が一気に熱くなった。
「え! いいえ、そういうことじゃ。でも、そうなる、のかな?」
言葉がしどろもどろになってしまった。その時、雄一の右手が私の左手を強く包み込んだ。
「くそー。俺から言おうと思っていたのに」
「え、じゃあ」
「あぁ。これからも一緒にいような、由利」
「……うん!」
大きな隔たりもあったけれど、二人でそこに橋を掛けた。もうこの橋を崩さないよう、これからは一緒に生きていく。ツリーの向こう側に見える星の輝きが、少しだけ強くなった気がした。
「いましたか、健一さん?」
「いいえ、さっぱりですね。渡木さんの方はどうですか?」
「こちらもさっぱりです。これだけ人が多いと、さすがに辛いですね」
大人になって迷子になるなんて思ってもみなかった。でも、この人だかりじゃ仕方がないのかもしれない。健一さん、康二さん、そして私の三人で来ていたはずの点灯式は、いつの間にか私と健一さんの二人だけになってしまった。
「少し休みましょう。やみくもに探していては疲れるだけですから」
「そうですね。あ! あそこのベンチにしましょう」
私と健一さんは、花屋さんの隣に置かれた青いベンチに腰かけた。人の波は、ここに着いた頃より大きくなっているようだった。
「大丈夫ですか、渡木さん?」
「はい、私は大丈夫です。健一さんはどうですか?」
「私も大丈夫です。ありがとうございます」
健一さんが笑顔を見せる。何度見ても、この笑顔には破壊力があった。健一さんや康二さんの笑顔を見るたび、お二人に抱きつきたいと何度も思ってしまう。
初めて出会った六月から、およそ月一回のペースで健一さんと康二さんに会っている。映画を見たり本屋さんに行ったりと、友人と過ごすような雰囲気でお二人と時間を共にしてきた。私としてはもう一歩踏み込みたいという気持ちがあったけれど、今のままの関係も悪くないなと思い始めている。
「それにしても、康二はどこにいったのやら」
「すぐに見つけられると思ったんですけどね」
「私もそう思いました。見つけたら少しお灸を据えないと」
珍しく健一さんがご立腹だ。こんな表情もするんだと、ついまじまじと顔を見てしまった。
「どうされました、渡木さん?」
「あ! いえ、何でもないです!」
慌てて健一さんの顔から視線を外す。
「そうだ。渡木さんにお礼をしたいと思っていたんです」
「お礼、ですか?」
突然の言葉に声が若干裏返ってしまった。
「はい。この数ヵ月間、こんなにお若い女性と知り合えて、ましてや映画や本屋さんなどにも行くことができて、本当に楽しかったです。ありがとうございます」
破壊力抜群の笑顔と優しいお礼の言葉に、私はノックアウト寸前だった。
「い、いえ。私の方こそ、とても楽しい時間を過ごせましたので、お、お互い様です!」
私の言葉に健一さんが笑いを零す。
「あ、えぇと、おかしかったですよね」
「あぁ、ごめんなさい。渡木さんを見ていると、いつも新しい発見があるなぁと思いまして」
健一さんは笑いを堪えきれないようだ。褒められている、んだよね? まぁ、健一さんが笑ってくれるならいいかな。
「あの、渡木さん」
「はい?」
「これからも、私達兄弟に付き合っていただけますか?」
急に真剣な眼差しになった健一さんに、私の胸は大きく拍動した。大きな鼓動音が健一さんにも聞こえてしまうのではと思うほどだった。
「もちろんです! ご迷惑でなければ」
「迷惑だなんて! 本当にありがたいと思っているんですよ」
「そ、そうなのですか?」
「はい」
これは、私も本当の気持ちを伝えなきゃいけない。直感でそう思った。
「……あのっ」
「あー! 二人共いた!」
私の言葉が、聞き覚えのある声に遮られた。
「康二!」
「やっと見つけたよ。まったく、俺からはぐれちゃ駄目じゃないか」
「はぐれたのはどっちなんだい、まったく」
健一さんはあきれ顔を私に見せた。私もそれに同調する。
「そうだ! はい、二人共」
「わ! たい焼きだ!」
「寒いからね、これで温まろう。兄さんも」
「はぁ、康二にはかなわないよ」
私と健一さんは康二さんから受け取ったたい焼きを、手の中で躍らせながら口に運んだ。
「……このままでもいいかな」
「何がですか?」
「あ! 何でもないです、独り言です!」
慌てて笑った私の顔を見て、二人も笑顔になった。
このままの関係を続けていってもいいかもしれない。それは初めて抱いた感情だった。「好き」と「嫌い」だけじゃない、「このまま」の関係。熱いたい焼きを頬張りながら、私はお二人の優しい表情を見つめていた。
思っていたよりも人が多い。地方の、それもかなりローカルな行事だから混まないと思っていたのに。そこは私の判断ミス、だったかな。
「れ、レナさん。本当に大丈夫なんですか?」
「うーん、たぶん」
「たぶんって。やっぱり帰りましょうよ」
「嫌よ。ここまで来たんだから、点灯するまでいるわ」
「で、でも」
マネージャーの横井君が弱気になっている。これは、少し気持ちを上げないと。
「もし嫌だったら先に帰ってもいいのよ、横井君? 私は全然かまわないけれど」
「それじゃあ、俺のマネージャー魂が納得しません!」
「じゃあ、もう少しいましょうね」
「はい!」
横井君を納得させたところで、改めて周囲を見渡す。
点灯式が有名になっているのか、最後に来たピアノを止めた年に比べて格段に人が多くなっていた。もしかしたら、私の正体がばれるのも時間の問題かもしれない。少し背筋がゾクッとして、被っていたキャスケットを目深に被り直した。
「それにしても、どうして今年に限って『行きたい』なんて言ったんですか? 予定を空けてまで」
「そうね……。新たな決意表明って感じかな」
「決意表明、ですか?」
「うん。この点灯式、『幸せを運ぶ』点灯式だって、地元じゃ有名なのよね」
「へー、そうなんですか?」
「そう。だから、今回の節目にどうしても来たくて」
ツリーの飾りは少し変わっていたけれど、木の頂上にある星型の飾りだけは変わっていないようだった。
「そういえば、何を決意するんですか?」
「お、そこ聞いちゃう?」
「あ、まずかったですか?」
横井君が少し慌てたのを見て、私は笑いながら「いいよ」と答えた。
「この前、スポーツメーカーにテレビのコマーシャル曲を提供したじゃない?」
「はい。結構、評判よかったですよね」
「うん。最初は渋っていたけど、反響が凄かったよね。それで、これからは仕事の幅をもっと広げようと思って。横井君には負担をかけちゃうかもしれないけど」
私が仕事量を増やせば、自然とマネージャーの横井君にも負担をかけてしまう。横井君は本当に仕事熱心なマネージャーだから、できれば負担をかけたくはない。でも私の可能性を私以上に信じてくれるのは横井君が一番だった。だから私も横井君の期待に応えたい。いつしかそんな思いが芽生えていた。
「そういうことでしたら、気にしないでください! 僕はレナさんの音楽が好きで、レナさんの傍で働けるだけで嬉しいんですから!」
力強い横井君の返答に、私は心から安堵する。同時に熱い思いが体の底から湧き上がるのを感じた。
「……ありがとう、横井君。これからもよろしくね!」
「はい! よろしくお願いします!」
私の右手と横井君の右手が重なる。その手の温度から、横井君の熱さが伝わってくるようだった。
最高の仕事のパートナーを見つけることができて、私は幸せ者だ。そしてこれからも、私の曲を待っている人に、必要としてくれる人に、たくさん音楽を届けていこう。そう決意した。
「……ねぇ、あれ」
小さな囁き声に我に返る。まずい、ばれた?
「よ、横井君、場所変えよう」
「そ、そうっすね」
私達は場所を変えて、点灯式を見守ることにした。
「おー! 今年も混んでるなー!」
「え、毎年こんな感じなんですか?」
「なんだ理子。まだ来たことなかったのか?」
「は、はい。話には聞いていたんですが、機会に恵まれなくて」
「地元に住んでて? 珍しいわね」
「潜りの地元民なのか?」
「本当に地元民か?」
「もー。三人がかりでからかわないでくださいよー」
私の反論が、三人の笑いと雑踏の賑やかさに掻き消されていく。
商店街の入口に飾られた、巨大なクリスマスツリー。今日はその点灯式だということで、仕事は早めに切り上げ、新見社長、堀田先輩、根岸先輩、そして私の全社員で見学に来たのだ。
「といっても、今年はやけに多い気がするな」
「そうなんですか?」
「えぇ。去年よりは明らかに多いわね」
「俺は去年、来てないからなぁ」
「なんだ、堀田も潜りか?」
新見社長の発言に、堀田先輩は笑いながら否定した。
「違いますよ。去年は、その、彼女と別の場所で過ごしていたんですよ」
「な! 堀田、お前彼女いたのか?」
「私も初耳よ!」
「い、言えるわけ、ないじゃないですか……」
急に堀田先輩の言葉のボリュームが小さくなる。
「もしかして、別れたの?」
「……図星です」
五秒間、雑踏の音だけが響いていた。
「すまん、堀田」
「ごめんね、堀田君」
「いいっす。もう過ぎたことなんで」
私の目にも分かるくらい、堀田先輩の元気がなくなっていた。空気が一気に重苦しくなる。ここは私が空気を変えないと。
「……それにしても、どうして急に点灯式に行こうなんて提案したんですか?」
「あ、あぁ。実は、ある人物と待ち合わせしててな。ついでに皆にも紹介しておこうと思って」
新見社長が腕時計を確認して辺りを見回す。すると、人がまばらな暗がりから男性が出てきた。
「お、さすが! ちょうどの時間だ」
新見社長はその人物に向かって大きく手を振った。
「おーい! こっちだ!」
すると、その人物はこちらに歩み寄ってきた。商店街の明かりがその人物の顔を照らす。その端正な顔を見た瞬間、私は顔が熱くなってしまった。
「和成。あまり大声で呼ぶなよ」
「あぁ。悪いな、優斗。つい」
親し気に新見社長と話している「優斗さん」から、私は視線を外すことができない。
「紹介するよ。俺の幼馴染の」
「さ」
「佐伯優斗さん!」
新見社長が紹介する前に、堀田先輩と根岸先輩の声が被る。
「え! ご存じ、なんですか?」
「ご存じも何も! あの有名なピアニストの佐伯さんじゃない!」
「す、凄い。本人に会えるなんて!」
堀田先輩も根岸先輩も、驚き過ぎて顔が上気していた。
「やっぱり、紹介して正解だったな。優斗、このメンバーが俺の会社の全社員だ」
「へぇ。本当に少数精鋭なんだね」
佐伯さんの目線が堀田先輩から根岸先輩、そして私に移る。私はその目線から逃れられなかった。改めて見ても、佐伯さんの格好良さにますます顔が熱くなる。すると、私を見つめていた佐伯さんの顔もなぜか赤くなった。
「……君、名前は?」
「へ? あ、はい! 小岩井理子です」
「君、僕と付き合わない?」
「……え?」
「は?」
「……えぇ!」
堀田先輩と根岸先輩の声が再び重なる。それ以上に驚いていたのは新見社長だった。
「ちょ、優斗! お前、何言って」
「僕は本気だよ」
「ほ、本気……」
私は、自分の意識を繋ぎとめるので精いっぱいだった。
「り、理子ちゃん! 倒れちゃ駄目よ!」
「優斗、お前! 俺の可愛い社員に、手ぇ出すつもりか?」
「何、理子ちゃんは和成のものなの?」
「そ、そうじゃないが。って、今『理子ちゃん』って!」
「恋の始まりを見たな」
「理子ちゃん、しっかり!」
ここに来る前、飾られるクリスマスツリーは「幸運を運ぶ」と聞かされていた。まさか、こんな幸運が訪れるなんて。ボーッとなりつつある頭に、冬の冷たい風が「現実だよ」と囁きかけているようだった。
「なんとか間に会いましたねー」
「うわぁ。今年も人が多いですね」
「そうね。友辺さん、ついて来てますか?」
「は、はい。なん、とか」
走ったせいで言葉が途切れ途切れになる。腕時計を見ると六時五十一分。点灯式まであと十分ほどだった。
「人が多いから、今年はこの距離で精いっぱいですね」
「そうね。そこのベンチにでも座って、待っていましょうか」
朝陽支店長が、薬屋さんの近くに置かれた青いベンチに顔を向ける。
「ぜひ、そうしましょう」
まだ息が上がっている。日頃の運動不足が露呈してしまった。やっぱりデスクワークだけだと体がなまってしまうみたい。少しずつ運動を始めよう、来年から。
「俺、何か温かいものでも買ってきますか?」
「大丈夫、いらないわ。もうすぐ点灯式だから、それを見てからにしましょう」
四人が腰かけると、さすがのベンチもキュイと軋み声を発した。
「あの、一ついいですか?」
「どうしたの、友辺さん」
「どうして、私も点灯式に連れて来ていただけたんですか? 他にも社員の方はたくさんいますし、私、入社したばかりなのに」
転職を決意してから、翌々日には退職願を出した。上司の反応は「そうか、わかった」と薄いものだった。それから必死に転職先を探し、駄目元で憧れていた元得意先に応募したところ、あっさり再就職が決まったのだ。実際に勤め始めたのは今月の一日から。入社してようやく一週間が経ったところだった。
「そうね……」
朝陽支店長が黙ってしまった。
「あ、いえ。言いにくい理由ならいいんです! 私もちょっと立ち入り過ぎましたよね」
「いえ、そうじゃないの。ちょっと言葉を選んでいて」
朝陽支店長は、中野班長と田中班長の顔を交互に見た。何かを確かめるように。そして朝陽支店長は言葉を確かめるように、ゆっくり話し始めた。
「以前、この会社を退職した社員がいてね。友辺さんの前任者なのだけど。その時の辞め方が、辞めた彼女にとっても会社にとっても、どちらにとっても後味が悪いものだったの。だから、この『幸運を運ぶ』っていうクリスマスツリーを見て、もう一度気を引き締めようと思って」
「それと、願掛けもありますよね」
「うん。私はそっちの方が強い気がしますよ」
「そうね。『入れ替わりに入ったあなたには、この会社で良いことがありますように』っていうお願いも込めているから」
「願い、ですか」
正直、驚いてしまった。憧れていたこの会社にも、そんな暗い過去があったなんて。そして私のために願掛けもしてくれたことに、心がフルッと震えたような気がした。
「……私は、大丈夫です」
「え?」
「憧れていた会社ですし、中野班長や田中班長をはじめとした社員の皆さんからも優しくしていただいて、仕事もとても楽しいです。それに、何より朝陽支店長が魅力的ですから、辞める気になんてならないと思います」
すると、朝陽支店長の顔が赤くなった。
「め、面と向かって言われると、さすがに照れるわよ」
「おぉ。支店長が赤くなったの、初めて見ました」
「そうだな。かなりレアだぞ」
「もう、二人共からかわないで!」
その様子を見て、私は思わず口元が緩んでしまった。
「そう、それ。笑顔を忘れないでね」
「え! は、はい」
「友辺さん、入社した直後は表情が硬くて、働き始めてからもあまり笑顔にならないから、少し心配していたの」
「そうですか?」
右手で思わず右頬を触る。
「うん。だから、これからもその笑顔を忘れないでね。そして、改めてこれからよろしくね」
朝陽支店長から握手を求められる。私は慌てて茶色の手袋を外してそれに応えた。
「お集まりの皆さま――」
「あ! 点灯式、始まりますよ!」
「そうね」
「あの、朝陽支店長!」
「うん?」
「私からも、よろしくお願いします!」
「……えぇ! 頼りにしているわ!」
クリスマスツリーの背後には、いくつか星が輝き始めていた。
「どうだ手塚、あったまったか?」
師匠から声をかけられる。俺はすぐに返事ができず、ぼうっと気が抜けたような感覚に身を委ねていた。
「は、はい……」
「どうした? 元気ねぇじゃねぇか」
「いや、あまりにも師匠の言った通りだったんで、驚いてるんですよ」
盗み聞きや盗み見はあまりよくないかもしれなかったけど、耳に入ってきた会話、目に入ってきた人々の表情は、どれも幸せに満ちたものだった。
「だから言ったろぅ! このツリーは『幸せを運ぶ』ってな」
師匠が満足したようにガハハと笑う。
「師匠」
「あんだ?」
「あとでビール一杯、おごります」
「はっは! 生ビールで決まりだかんな! お、点灯式が始まんな」
「お集まりの皆さま、お待たせしました! 五秒前からカウントダウンを始めますので、ご一緒にお願いします。では!」
「五、四、三、二、一!」
カウントダウンの声が大きな渦のようになり、その場の空気を震わせた。
「点灯!」
次の瞬間、クリスマスツリーと商店街のアーケードが眩い光色に染まった。ツリーに飾られた赤や青の電飾はチラチラと瞬き、アーケード内に散りばめられた電球はそこだけ昼間のように輝いている。
「わー!」
「すごいわね!」
見守っていた人達も感嘆の声を上げる。そこにいた人達全員が、幸せ色に染まっているようだった。
「……師匠」
「あんだ? すげぇだろ!」
「はい。あの、来年もこの仕事に携わっていいですか?」
一瞬目を丸くした師匠は、すぐにニカッと笑ってみせた。
「何言ってんだ、あたりめぇだろ! 今から期待してんぞ!」
「……はい!」
幸せは幸せの連鎖を生むのだと、この時初めて感じた。もしかしたら、すべての人生は繋がっているのかもしれない。少しずつ重なりながら繋がる、しなやかで柔らかな鎖のように。
クリスマスツリーの頂上で輝く星が夜空の星々と重なって、新たな星座を創り出していた。
十二月七日 クリスマスツリーの日
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