想い月々

希家由見子

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遠い日のピアノ

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 私は今、決意している。辞表も書いた。もう誰に何を言われても、この決意は変えないんだから!

 白い外壁の小さな一軒家。玄関の左には「わたらぎピアノ教室」と書かれた木製の看板が吊り下げられている。先生が弾いているのだろうか、建物の中からは軽やかなピアノの音が漏れ聞こえていた。しっかりとした音程の中にも、聞き惚れてしまう表現力がある。そんな心地よい音色が、セミの叫び声によって一瞬で不協和音に変わってしまった。
 いや。ピアノの音なんて、もうどうでもいい。私はもう決意したのだから。
 焦げ茶色の玄関扉に手をかけようとして、瞬間的にためらう。先生の演奏を聞いて、ピアノを習い始めた当時を思い出したからだ。金色のドアノブに伸ばした右手が、ゆっくりと体の横に落ち着いてしまう。それを見届けたようにセミの叫び声が一瞬だけ止んだ。



 私がピアノを習い始めたのは約二年前。小学四年生の秋だった。
 それまでの私はとにかくテレビゲームが好きで、家に帰って宿題を終えるとすぐゲームに没頭していた。夕飯の時間になっても、夕飯の時間が終わっても、また休みの日は一日中ゲームを続けていたから、両親の口癖はいつしか「いい加減にしなさい!」という、怒りと呆れに満ちたものになっていた。
 そんな中で迎えた小学四年生の夏休み直前。私は父さんから「デートでもしようか」と、妙な誘いを受けた。「遊びに行こう」という誘いは受けたことがあっても、デートの誘いを受けたのはこれが初めてだった。何か裏がある。そう思いデートの内容をいくら聞いても、父さんは「当日までの秘密だよ」と話をはぐらかしてしまう。もやもやした気持ちが頭を支配していたから誘いを断ろうとしたけれど、結局私はその誘いを受けることにした。なんだか宝物が入った小箱を開けるような、少しのドキドキも感じていたから。
 夏休みが始まって最初の金曜日、父さんと私は高速バスに乗って東京に向かった。東京に着き宿泊予約をしたホテルにチェックインすると、父さんは小さな鞄だけを持って私を連れ出した。地下鉄を乗り継いで到着したのは、とあるコンサートホール。百人以上の人の群れが、ホールの受付にチケットを見せて入場していた。
「父さん、ここってなんなの? 何があるの?」
 いい加減教えてくれるだろう。そう思っていたけれど、父さんは「入ってからの秘密だよ」と言い、受付をさっさと済ませてしまった。
 大きなステージのあるホールに入ると、ひんやりとした空気に体が包まれる。照明が点けられたステージ上にはピアノやチェロ、ハープなどたくさんの楽器が置かれていた。この時は「あぁ、クラシックのコンサートなのか」と悟り、正直がっかりしていた。クラシックは眠れない夜に聞くものだと頭と体が覚えていたから。まったく期待をしないまま私は跳ね上がっていた座席を倒し、ボスッと腰を下ろした。
 十五分後、演奏者が次々とステージ上に現れ、最後に指揮者が登壇。音の確認を終えると、指揮者はこちらに向き直り、深くお辞儀をした。同時に割れんばかりの拍手が打ち鳴らされる。指揮者が演奏者の方に向き直り、タクトを振る。
 瞬間、ホールに響いたのは、聞き覚えのあるゲームの音楽だった。
 いつも電子音で聞いている音楽が、オーケストラの演奏で立体的に、力強く、多方面から私の耳に届く。聞き覚えのある曲のはずなのに、音楽を聞いて鳥肌が立つという初体験をこのコンサートでしたのだった。そして一番印象に残ったのが、ピアノによる独奏だった。それは、とあるキャラクターが死んでしまう場面で流れる曲で、ゲームを遊んでいた当時も泣きながらコントローラーを握っていた。ピアノの繊細でありながら力強い演奏に、私は父さんに「大丈夫か?」と心配されるほど涙を流していた。
 家に帰ってすぐ、私は両親に「ピアノを習いたい」と駄々をこねた。母さんは「どうせ続かないんだから」と最後まで反対していた。けれど父さんが説得してくれたらしく、私は晴れてピアノを習えるようになった。
 そして、その年の秋から家の近所にあった「わたらぎピアノ教室」に通うようになった。最初はぎこちなかった指運びも、月日が経つにつれて、自分で言うのもなんだけどピアノを奏でる手は軽やかになっていった。教えてくれる渡木わたらぎ先生は、優しくて教え方も上手で。私はピアノの練習がどんどん好きになっていった。
 あの出来事があるまでは。
 一ヵ月前、住んでいる市が主催したピアノコンクールがあった。私も渡木先生に勧められ、そのコンクールにエントリーした。その頃の私は、あわよくば優勝しようという皮算用を心に秘めていた。それだけの実力が自分にはあると自負していたからだ。それでもピアノの練習は一生懸命して、準備は抜かりなく行っていた。
 そしてコンクール当日。
 小学生部門にエントリーしたのは、私も入れて八人。私の発表は三番目だった。
 ところが、私の前に発表した二人が観客から大喝采を浴びたのだ。後で聞いた話だと、その二人は海外からも注目されるほどの腕前で、この発表会の優勝候補だったという。当時、そんな話などまったく知らなかった私は、その大喝采に圧倒されてしまった。心臓が萎縮したかのように胸の辺りがギュウッと締めつけられ、呼吸は浅く、回数を増していった。
「次は畑山麗奈はたやまれなさんです!」
 司会者の女性が私の名前を呼んでも、私はなかなかステージに出られなかった。次第に会場はざわめき始め、司会者の女性の「畑山麗奈さん、どうぞ!」という二回目の呼びかけで、ようやく私はステージに向かってぎこちなく歩き始めた。
 そんな状態で発表をしたのだから、会場の拍手がまばらになるのも当然だった。
 家に帰る車の中で、私は「もうピアノなんて止める」と、泣きながら両親に訴えた。「ほらね」と言わんばかりの母さんの表情が、今でも脳裏に焼きついている。運転していた父さんの「わかった。今まで頑張ったね」という優しい言葉だけが唯一の救いだった。



 そこまで思い出したところで、私はもう一度決意を固めた。
「そうだよ。辞表も書いたんだ。止めるために来たんだから」
 私は金色のドアノブを回し、焦げ茶色の扉を手前に引いて中に入る。セミの叫び声が不協和音の三重奏になっていた。



 学校の勉強机ほどの玄関で、私は「こんにちはー」と挨拶をした。この建物には呼び鈴が無いから、必ず玄関先で声をかけなければいけなかった。
「はーい。今行きまーす」
 ピアノの音が止み、奥の洋室から渡木先生が現れる。少し茶色がかった肩までの長さの髪が、毛先だけ内側に巻いている。濃い緑色の縁取りがされた眼鏡をかけた先生はパタパタとスリッパを鳴らし、玄関へやって来た。
「いらっしゃい麗奈さん。どうぞ上がって」
「はい。失礼します」
 私は玄関先に置いてあった菫色のスリッパに足を通し、先生の後に続いてピアノのある洋室へ向かった。
 部屋の前でスリッパを脱ぎ、中へ入る。八畳ぐらいの部屋の右壁面には、存在感のある黒いピアノが置かれている。左壁面にはエアコンと壁掛けカレンダー。今日は暑いからか、エアコンからは心地よいさらりとした風が吹き出されていた。部屋の中央には白くて四角い座卓が置かれている。
「今日も暑いわね。溶けちゃいそう」
「そうですね」
 外で鳴くセミの声だけが響く。
「セミもすごく鳴いていたでしょう?」
「はい、すごく」
 暑い中フル稼働する、エアコンの送風音がセミの声に混じる。
「……この前のコンクール、残念だったわね」
 返事をしない代わりに、私は黙って赤いトートバッグに手を入れる。手に当たった封筒を取り出し、そのまま先生に渡した。
「……これは?」
「辞表、です」
 先生が目を丸くする。それでも落ち着いた様子で私の手から「辞表」と書かれた封筒を受け取った。
「中、見てもいい?」
「はい」
 先生が封筒から淡い水色の便箋を取り出す。その時になって初めて、心臓が大きく拍動して血液を全身に送っている音が、耳の中でゴウゴウと響く感覚に襲われた。
 先生は私が書いた辞表をじっくり読んでいる。待っている時間がもどかしくて、私は右手をギュッと握り締めたり、反対に緩めたりしていた。
「……そっか」
 微かに微笑んだ先生が、私に顔を向ける。
「やっぱり、この前のコンクールが原因?」
 ズキリと胸の中央が痛む。
「……そんなことは」
 言葉を濁して返事をする。そんな私を見て、先生は私の頭に右手を置いた。
「麗奈さんは頑張ったわよ。他の誰にも負けないぐらい」
「でも、結果は散々でした」
「結果も大事だけど、そこに至るまでの道のりだって大事なのよ」
「私は!」
 思わず出た大声に、先生はもちろん自分も驚いてしまった。先生が手を引っ込める。私は浅く呼吸をして語気を整えた。
「……私は結果を出したかったです。あわよくば優勝したいっていう考えは甘かったかもしれないけれど、それでも結果は出したかった。ピアノを好きになっていたから、もっといろんな人の耳に自分の演奏を届けたいとも思って。でも、上には上がいて、私の演奏なんて誰も求めていないんだって思ったら、ピアノがだんだん嫌いになってしまって」
 話している自分に、自分が困惑していた。こんな思いが自分の中にあったことに初めて気づいたから。
 言葉が途切れ、数秒の沈黙。すると、先生が困ったような顔で微笑んだ。
「それが麗奈さんの思いなのね? わかったわ。今までありがとう、麗奈さん」
「なんで先生がお礼を言うの? 私の方が先に言わなきゃいけないのに」
 思ったことをそのまま言葉に乗せる。
「だって、麗奈さんは私にとって初めての教え子だったから。教えていく中で、こう言えばわかりやすいんだとか、ここは注意した方がいいんだとか、私もたくさん学べたんだよ。正直、麗奈さんにはピアノを続けてほしかったけど、本人の意思に反して続けてもいい結果は生まないから」
 そこまで言った先生は、私に右手を差し出した。
「えっと」
「握手しましょう」
 気後れしながら私も右手を差し出すと、先生の手が重なった。そこで初めて、先生の手が私の手とさほど変わらない大きさだったことに気づいた。私の手は、広げるとCDケースと同じくらいの大きさで、決して大きい方ではない。先生は先生になる前、短い間だったけどプロのピアニストとして活動していたと聞いていた。だからプロの手はみんな大きいと思っていたし、ピアノを教えてもらっている時は覚えようと集中していたから気づかなかった。手が小さいと指を思いきり伸ばさないと届かない鍵盤だってある。
 先生も、頑張っていたんだ。
 そう思うと、先生の信頼を裏切ってしまったかのような罪悪感に頭が締めつけられるようだった。
「先生、ごめんね」
「なんで謝るの?」
「期待に、応えられなくて」
 先生が柔らかく微笑む。
「そんなこと、気にしなくていいよ。麗奈さんには麗奈さんの道があるから」
「でも……」
 思わず俯いたけど、私の右手が先生の両手に包まれる感触がして顔を上げた。
「じゃあ、一つだけお願いしようかな」
「お願い?」
「うん」
 先生が一呼吸置く。
「ピアノを嫌いになっても、音楽は好きなままでいてね」
 言葉を聞いた瞬間、目の前の暗闇がサアッと消え去り、視界が開けたようだった。
 音楽は、好きなままで。
 数秒考えて、私は答えを出した。
「も、もちろんです!」
 声が少し裏返ってしまったけれど、正直に答えた。
「ありがとう」
 答えを聞いた先生は、可笑しさを堪えきれないように笑った。
「じゃあ先生、私からもお願い」
「なぁに?」
 私も先生と同じように一呼吸置く。
「もう、年上の人ばかりとの恋、止めてもいいかもよ」
 途端、先生の顔が赤くなる。
「そ、それはお願いじゃないでしょ! というか、なんで知ってるの!」
「ふふ、風の便りだよ」
「もう、麗奈さん!」
 セミの合唱が私達の笑い声のコーラスになっていた。



「……さん。レナさん!」
 誰かの呼び声で意識が戻る。
「ん? 呼んだ?」
「『呼んだ?』じゃないですよ! もうすぐ雑誌の取材です。起きてください!」
 マネージャーの横井君が録音スタジオの壁掛け時計を気にしながら、私にかかっていた淡い水色のタオルケットを畳む。
「もうそんな時間? 寝すぎちゃったなぁ」
 思いきり背伸びをして、眠気を天井へ送る。
「まぁ、最近忙しいですから眠いのもわかりますけど」
「でも夢見は良かったから、スッキリ爽快かな」
「どんな夢だったんですか?」
「私がこの道に進もうと思ったきっかけの夢、かな」
「へぇ。音楽プロデューサーになるきっかけの、ですか?」
「そんなところ。さ、取材場所に行きましょうか!」
「えぇ! ち、ちょっと待ってくださいレナさん!」

 渡木先生。私、音楽は好きなままですよ。むしろあの頃より好きになったみたい。ピアノともまた仲良くなっちゃいました。壁にぶつかることもあるけれど、なんとか乗り越えています。音楽に対しての情熱は、これからも燃え続けると感じています。もちろん今は幸せです。だから先生も、早く幸せを見つけてくださいね。



七月六日 ピアノの日
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