想い月々

希家由見子

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初めてのバーでカクテルを

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 分からない。
 判らない。
 解らない!
 どうしてあんなことを言っちまったんだ! あんな、心にもないことを!
「ありがとうございました」
 マスターの低く通る声が、店を後にする男性客二人の背中にかけられる。同時に、入口のドアに取り付けられたドアチャイムが優しく、低い音を奏でた。男性客がドアを閉めると、赤銅色の小さなカウベルは次第に音色を潜めていった。
 最寄り駅に着いてから、どうしようかと駅周辺を二十分ほどうろついた。スマートフォンで周辺を調べてみたが土地勘のほぼ無い場所だったこともあり、気づけば細く暗い路地へと入り込んでいた。そして、ぼんやりと赤い光が灯るこのバーに行きついたのだ。
 重厚な木製のドアを押して白壁の建物に入ると、「いらっしゃいませ」という低く通る声、そして同じく低いカウベルの音、さらに落ち着いたジャズの音色が迎えてくれた。店内に入ってまず目に留まったのは、趣のある濃い飴色でいびつな一枚板でできたカウンターだった。席はそのカウンターの九席のみ。こぢんまりとした店内は、カウンター席の背後の壁面にある、橙色の間接照明によって仄明るく照らされている。店内の奥には、直径三十センチメートルほどの金属の花を咲かせた蓄音機がジャズの音色を奏でていた。また蓄音機のさらに奥の壁には、蓄音機の花の直径と同じくらいの壁掛け時計が時を刻んでいる。
 店内の客はいつの間にか、入口近くの席に座る俺だけになっていた。ジャズの音色とカチカチという壁掛け時計の音だけが店内を支配している。
 意識が逸れた。俺が今、考えなきゃいけないのは。
「どうすれば由利ゆりの元に行けるか、だ」
 透明なガラスのコップに三センチメートルほど残っていたウイスキーを、俺は一気に飲み干した。入っていた丸い氷がコップに何度かぶつかり、カランカランと軽い音を響かせる。
 左側の空席に置いていた黒いメッセンジャーバッグから、銀色のスマートフォンを取り出す。そしてパターンロックを解除し、写真が収まっている「アルバム」アプリを開いた。百五十枚を超える写真の約半分は、由利との思い出で占められている。由利のワンショットや自撮りしたツーショット、さらに一緒に旅行した際の風景写真。どの写真も、由利のことを思い出すには十分過ぎる材料だった。
 一度はこれらの写真すべてを削除しようと決意したこともある。しかし由利への想いは消えず、むしろ以前より心の奥が沸々となるのが感じ取れて、結局写真は削除できなかった。
「別れたはず、なんだがなぁ……」
 スマートフォンをスリープ状態にして、カウンターに画面を伏せる。同時に「はぁ」と大きなため息を吐いてしまった。吐き出されたお酒の匂いに頭がクラッとなり、由利との出会いが脳内で再生され始めた。



 俺と由利が出会ったのは二年八ヵ月前。街路樹の葉がほんのり色づき、空気に冷たさが混じり始めた頃だった。
 俺は某喫茶チェーン店のアルバイト店員で、由利はデザイナーのはしくれ。お互い最初はただの店員とお客の関係だった。内側に巻く癖のある肩までの長さの明るい茶髪に、整った目鼻立ち。最初に来店した当時から、俺達店のメンバー内では「可愛い」「彼氏いるのかな」と、由利の話で持ち切りだった。俺も心の片隅に「彼女と話ができたらな」という、淡く甘い幻想を抱いていた。
 それから一ヵ月間、毎週水曜日と土曜日の朝八時という、決まった時間に由利が来店するのがわかり、俺もいつしか水曜日と土曜日には必ずシフトを入れるようになっていた。シフトの入れ方はもちろん、由利への接客態度が他のお客と違っていたのか、店のメンバーには俺の感情が筒抜けになっていたらしい。そして俺の方から声をかけるよう、店のメンバー達に仕向けられたのだ。最初は断ったものの、昼食を奢るという先輩からの誘いと自身の抑えられない想いも相まって、気づいた時には由利の座る窓際の席に歩み寄っていた。
「あのっ」
 呼んでもいない店員から声を掛けられた由利は、少し訝しい表情を浮かべた。まぁ、当たり前といえばそうだけど。
「はい?」
 少し八の字になった細く整った眉、自然な長さのまつ毛、窓ガラスから入る光を反射する瞳、小振りの鼻、薄桃色の唇。改めて由利の顔を見た途端、俺の心臓がいつもの倍ほどの速さで鼓動し始めた。準備していた誘い文句はすべて吹き飛び、俺の目線はあてもなく空中を泳いだ。
「あの、何でしょうか?」
 由利からの問いかけにようやく目線が定まり、俺は勇気と言葉を絞り出した。
「お」
「お?」
「お水のお代わりはお済みでしょうか!」
 由利の笑い声で俺の中の沸騰は収まり、これがきっかけで俺達は付き合うようになったのだから、赤恥をかくのもたまには悪くないと思えた。
 付き合うようになってから、お互いのことを少しずつ知っていった。
 由利は俺より五つ上の三十歳ということ。デザインの専門学校を卒業してからはデザイナーとして働いていること。コーヒーは苦手だけど、カフェオレは好きなこと。そんな他愛ない話をしながら、俺と由利はお互いをもっと好きになった。
 はずだった。
 一年三ヵ月前、突然由利が「地元に帰る」と言った。
 普通は驚いて動揺するはずだろうけど、俺の心はほとんど動かなかった。当時の由利は出会った頃のキラキラした「輝き」のようなものが失われ、生気も感じられなかった。その言葉が出る以前も、仕事での人間関係が辛いという話を聞いていたから、俺も「少し休んだ方がいい」と賛成していたのだ。
 その話の一週間後、由利は地元に帰って行った。
 しかしそれから約三ヵ月間、由利からの連絡がプツンと途絶えた。俺から連絡を取ろうとメッセージを送った時でさえだ。
「ありえないだろ、普通……」
 透明な薄茶色の液体が溜まったグラスを見つめながら、ボソッと呟く。グラスの表面に付いた水滴がツーッとカウンターに落ちていった。
 ようやく来た由利からの返信は「ごめんね。いろいろあって。それより……」と軽い謝罪のみだった。思えばこの頃から、由利に対するモヤモヤとしたはっきりしない感情が生まれていたのかもしれない。
 それからは交互にお互いの住む場所を訪ねていた。けれど半年が経った頃、由利の言葉がわがままに聞こえるようになった。俺が「今度、由利が好きだった店のロールケーキを買って行くよ」と何気ない善意の言葉を伝えると、由利は「わかった。ロールケーキはあのイチゴのでお願いね。ついでに、同じ店で売っている桃のフレーバーティーも欲しいな。あと、はす向かいのお店にあるミニワインもお願いね」と倍以上の要求を返してきた。しかも文面に「ありがとう」と感謝の一言もなく。
 そんなやりとりが続き、由利が地元に戻って一年三ヵ月が経とうとした頃、とうとう我慢ならず、俺から別れを切り出した。
 きっかけは、俺が仕事の都合で由利に会いに行けなくなったことだった。行けないと連絡した日も仕事が忙しくて、実際に連絡できたのは夜の十一時を過ぎた頃だった。
「今日もお疲れ。悪いが、戸締り頼んだよ」
「はい! お疲れ様でした」
 店長がロッカー室を後にしたのを確認して、由利にメッセージを送る。
「ごめん由利。まだ起きてる?」
 メッセージアプリで送信しても由利からの返事はない。眠ってしまったのかと思い、続けてメッセージを送る。
「申し訳ないけど、今度の土曜、会えそうにないんだ。どうしても抜けられない仕事があって。ごめんな」
 すると、送信して一分も経たないうちに由利から電話がかかってきた。制服から私服に着替えようとしていた俺は手を止め、慌てて電話に出る。
「もしもし」
「もしもし! 雄一ゆういち、約束したじゃない!」
 電話越しの由利の声に、キーンとした高音が混じる。
「約束したけど、どうしても抜けられないんだよ」
 この頃の俺は、バイトとして入った店舗で副店長のような役割を担っていたから、夜の十一時に帰れることさえ奇跡的だった。
「でも、私との約束の方が先でしょ? なんでお店に言わないの?」
「言おうとしたら、店長から先に指示があって……」
「そこを押し通さないと駄目じゃない! これだから雄一は……」
 この言葉に、俺の中の「スイッチ」がオンになってしまった。
「……なんだよ」
「なにが」
「今までずっと我慢してきたけど、最近口を開けば『これだから雄一は』って。由利にとっての俺って、いったい何なんだよ」
「なにって……。恋人のつもりだけど、一応」
「一応? 俺の存在はそんな軽いもんなのか?」
「そんなことないわよ!」
「じゃあ! なんで地元に帰ってからの三ヵ月間、連絡をよこさなかったんだよ」
「それは……」
 由利の戸惑いが声に表れていた。
「……俺の他にいい男でもできたんじゃないのか、地元で」
「そんな……。そんなことあるわけないじゃない!」
「どうだかな。三ヵ月で良さそうな男を探して、いなかったから俺にまた連絡したんじゃないのか?」
 数秒間の沈黙。何も音がしないはずなのに、耳の奥でゴウゴウと白波が渦巻いて響いている感覚に襲われた。
「なによ……」
 由利がポツリと声をこぼす。
「なんだよ。俺、なにか間違ったこと言ったか?」
「間違いだらけよ! 私がどんな気持ちで地元に帰ったかも知らないくせに!」
「知らないね! 話してくれなかったじゃないか!」
「話すタイミングがなかっただけよ!」
「あぁ、もういいや。わかった。由利にとっての俺はそれぐらいの存在なんだな」
「そんなこと」
「もう別れよう。お互い通うのも疲れただろうし、今がきっと引き際ってやつなんだよ」
「ち、ちょっと待って」
「じゃあな」
 俺は強制的に通話を終わらせ、すぐに由利を着信拒否リストに入れた。メッセージアプリの方も、由利からのメッセージを受け取らないように設定してしまった。
 それから一週間、二週間が経ち、潮が満ちるように押し寄せる灰色の感情に、俺の心は支配されていった。由利に酷い言葉を浴びせてしまった後悔もあったが、自分の中にあった辛辣な部分が露呈したことへの怒りもあった。
 わかっていたんだ、本当は。由利が辛く、やりきれない気持ちで地元に戻ったことぐらい。
 それなのに、勢いとはいえ「他に男ができたんだろう」なんて言葉を吐いてしまった。
「まだ、気遣いが足りなかったんだよなぁ……」
 三週間後、着信拒否リストから由利を外し、メッセージアプリの方も設定を解除した。それでも由利から連絡は来なかった。
 灰色の後悔と怒りは、徐々に墨色の不安へと変わっていった。
 謝りたい。その一心で新幹線に乗り、由利の地元の駅まで来た。けれど由利に連絡する勇気はなく、謝るための言葉さえ浮かんでこない。
「どうすりゃいいんだよ、これから」
 こんな、こんなはずじゃなかったのに。なにやってんだよ、俺は!
「よろしいですか?」
 不意に低い声をかけられる。いつの間にか俯いていた顔を上げると、バーのマスターが困ったような表情を浮かべていた。
「あ、はい。なにか?」
「そろそろクローズの時間なのですが……」
 その言葉に、勢いよく左腕にした腕時計を見る。時刻は午前一時になろうとしていた。
「あ! す、すみません! 今帰ります!」
 手を素早く動かし、メッセンジャーバッグから財布を探す。
「いえ、それよりも」
 マスターの言葉に手を止める。
「なんでしょう?」
「もしや、お悩み事ですか?」
 マスターの言葉にぎくりと背筋が伸びる。
「は、はい……。実は、俺から別れを切り出した彼女にどうしても謝りたくて。でも、なんて言えばいいのかとか、どんな顔して会えばいいのかとか……。考えれば考えるほどわからなくなってしまって」
「そうですか……」
 マスターは左手を口元に当てしばらく考え込んだ。
「……貴方は、まだ彼女のことがお好きなのですね?」
 マスターに問われ、俺は改めて自分の気持ちを見つめた。すでに答えは決まっている。
「……はい。まだ好きです」
「なるほど。少々、お待ちください」
 マスターはそう言うと、カウンターで作業を始めた。シェーカーに何種類かの液体を入れると、それを手に持ち、軽いテンポでシェイクする。その後、逆三角形のカクテルグラスにシェイクした液体を注いだ。注がれた液体は、赤とオレンジ色が混ざったような色をしている。
「どうぞ」
 マスターに促されるまま、俺はその液体を一口飲んだ。
「……美味しい」
 オレンジジュースの味がアクセントになっていて、俺にはとても飲みやすいカクテルだった。
「マスター、これは?」
「『ブラッド・アンド・サンド』というカクテルです」
「そうなのか……。でも、どうして俺にこれを?」
 するとマスターが優しく微笑む。
「『カクテル言葉』はご存知ですか?」
 初めて聞く言葉だった。「花言葉」は知っているけれど。
「いえ、初めて聞きます」
「花に込められた『花言葉』と同じように、カクテルにも意味が込められているのです。そして、その『ブラッド・アンド・サンド』には『切なさが止まらない』という意味が込められています」
「切なさが、止まらない」
「はい。諦めきれないほどのお相手ならば、正直に気持ちを伝えるだけでも、想いは伝わるはずですよ」
 正直に、想いを伝える。
 マスターの言葉が、墨色の不安を一気に吹き飛ばしてくれた。
「そうか……。そうだよな。とにかく、俺の気持ちを伝えればいいんだよな」
 残っていたカクテルを一口、二口と飲み干す。
「ありがとうマスター。お勘定を」
「あぁ、ウイスキー代のみでよろしいですよ」
「けど……」
「あのカクテルは、私のお節介ですから」
 マスターが再び微笑む。
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
 俺は最初に飲んだウイスキー代だけをカウンターに置いた。
「ごちそうさま、マスター」
「ありがとうございました」
 マスターの声とカウベルの音に見送られ、俺はそのバーを後にする。
 墨色の夜空には、金色の星がいくつも瞬いていた。



五月十三日 カクテルの日
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