3 / 12
「ありがとう」を重ねて
しおりを挟む
「永島先輩! いつもありがとうございます!」
時刻は午後八時過ぎ。職場から近い商店街の中にあるため、いつもお世話になっている居酒屋「ちょうげんぼう」。その店内は金曜日の夜ということもあって活気に満ち溢れている。お客同士の楽しげな会話や威勢のいい店員さんの掛け声。そのガヤガヤした周囲の音に負けないくらいの大声で、矢島が感謝の言葉を発し、頭を下げる。それも今まで「美味しいカフェラテのあるお店はどこか」という話の中で、唐突に。
「どうしたの、矢島?」
半笑いで矢島に聞き返す。おそらく酔いが回って、正常な思考ができないのだろう。夕方の六時から飲み始めて、もう二時間は経つ。私でさえ頭がホワホワとして気持ちいい気分なのだから、きっと矢島も気持ちが高ぶっているはず。そう思っていたけれど、頭を上げた矢島の顔は真剣なものだった。
「冗談で言っているんじゃないですよ。本気で感謝しているんです」
矢島の顔は赤かったものの、その眼差しは酔いを微塵も感じさせなかった。酒の席とはいえ、こちらも真剣に対応しなければいけない。瞬間的にそう思い、ホワホワとしていた頭のスイッチを切り替える。
「なんで私に感謝するの?」
湧いた疑問をそのままぶつけてみる。すると矢島は目を丸くしてきょとんと私を見つめた。
「なんでって……。入社してから永島先輩には、仕事でもプライベートでもお世話になりっぱなしでしたから。それで」
微笑みながらそう言われると、なんだか気恥ずかしい。それを隠すように、私は運ばれてきたばかりの生絞りレモンサワーを一口飲む。冷たい液体が胃に落ちていく感触、そしてアルコールによって、時間差で胃が熱くなる感触。それらの感触が、いつの間にか高揚していた気持ちを標準まで押し戻してくれた。
後輩の矢島こと矢島虹子は、私より五歳年下の、笑顔が魅力的な女性だ。少し茶色がかった肩までのストレートヘアに健康的な体つき。長方形の銀縁眼鏡に灰色のパンツスーツを纏うその姿は、初めて会う人物に真面目過ぎる印象を与える。でも実際は、気合いや勢いを体現したような、いわゆる「体育会系」な性格を宿している。勢いがよすぎて失敗することもあったけれど、仕事への情熱は熱く、上役からも目を掛けられる存在になっていた。暗い雰囲気を明るく、凍土のように固い新規取引相手も春泥のように柔らかくしてしまう。そんな熱い太陽のような力を、私は矢島に感じていた。
そんな彼女に感謝されるほどのことを、果たして私はしていたのだろうか。
「そんなに感謝されるほど、私、矢島をお世話していない気がするけど……」
微笑みながらそう言い、首を少し傾げて少し考える。矢島はその熱意から、社内でも瞬く間に人気者になった。そんな矢島と比べると私は影が薄い存在で、気がつけば仕事で裏方に回ることが多くなっていた。矢島が太陽だとしたら私は空気。存在感では到底、矢島には及ばない。
「しています! ものすごくしています!」
矢島の声が大きくなる。その勢いに私は思わずたじろいでしまった。
「えぇ……。私はただ、矢島がプレゼンで使う資料のバックアップを取ったり資材の誤発注を取引先に謝ったり……。あとはこうやって一緒に飲みに行くぐらいしかしてないよ、たぶん」
矢島の気迫に押され、最後の方は声が弱々しくなる。私の返答を聞いた矢島は、はあっと大きくため息を吐いた。
「永島先輩、それですよ」
「それ?」
「その気配りにどれほど助けられたか!」
矢島はそう言うと、グラスに三分の一ほど残っていたライチサワーを一気に飲み干した。カランカランとジョッキの中で氷が乱舞する。
「気配りというか、当たり前のことだと思うけど」
「その『当たり前』ができるのが先輩なんです。他の先輩には真似できないんですよ」
「お飲み物、伺いますか?」
話のちょうど切れ目で、体格のいい居酒屋の男性店員が声をかけてきた。
「あ、じゃあ生絞りレモンサワーで」
「かしこまりました。少々お待ちください」
男性店員が去った後、私の方に向き直った矢島は、真っ直ぐに私を見つめる。眼鏡の奥には大きく見開かれ、熱を含んだ眼差しがあった。
「目線が眩しいよ、矢島」
私が両手で眩しい視線を遮るような仕草をするも、矢島は目線を逸らさなかった。
「永島先輩が思っている『当たり前』は、みんなの『当たり前』じゃないんですよ」
声が急に小さくなる。それでも周囲の賑やかさには負けていなかった。
「どういうこと?」
「永島先輩が資料のバックアップを取っておいてくれたおかげで、私のパソコンがプレゼン直前にクラッシュしてもなんとか乗りきれました。それに一月、私が資材を誤発注した時も、永島先輩が先頭に立って各取引先の対応をしていましたし」
「生絞りレモンサワーのお客様?」
「私です」
「お待たせいたしました。空いているグラス、お下げしますね」
女性店員が生絞りレモンサワーを矢島の前に置き、空のグラスを持って行く。矢島は運ばれてきた淡い黄色に輝くサワーを一口飲むと、ふうっと息を吐いた。
「それに、こうやって私の話も聞いてもらって。特に社内恋愛が終わった時なんか、朝まで付き合ってもらって……。永島先輩に付き合ってもらえなかったら、私、今でも立ち直れなかったと思います」
矢島の真っ直ぐな眼差しが私を射抜く。ただでさえ綺麗な顔立ちなのに、そんな真剣に見つめられたら女の私でさえ恥ずかしくなるじゃない。再び生絞りレモンサワーに口をつける。氷が溶け、先ほどよりも味が薄くなっている気がした。
そこでふと気づく。矢島の性格上、周囲に敵を作ってしまうことも珍しくない。そのためか、矢島が素直に感謝の言葉を言うことは少なかった。勤めている会社では矢島が一番の後輩で、しかも体育会系な性格だったから「さすが永島先輩! 助かります!」と先輩をヨイショするような形でお礼を言うことは度々あった。でも、こんなに面と向かって素直に感謝の言葉をかけられたのは、今まで接してきた中でも初めてだった。
違和感。そう、いつもの矢島じゃない。何かある。そう直感が告げていた。
「ねぇ矢島」
「なんですか永島先輩」
「何かあったでしょ?」
今度は私が矢島を見つめる。視線が交錯して数秒の後、矢島が私から目を逸らし、生絞りレモンサワーを一口飲んだ。グラスを置くと意を決したように私と目線を合わせる。
「実は、先輩にご報告があって」
「報告?」
「はい」
矢島がもう一度視線を外す。迷っているのかな。矢島にしては珍しい。そう思った直後だった。
「私、今月いっぱいで会社を退職するんです」
瞬間、その場からすべての音が消え去った。耳が音の収集を拒否したかのように。
「え……。えぇ!」
ち、ちょっと待って。矢島が退職? あんなに仕事に情熱を持っていた矢島が? 何かの間違いじゃ。いやでも、こうやって本人の口から事実を聞いてしまったし、間違いないんだよね。いや、でも。
「どうして!」
やっと絞り出した一言は、声が裏返ったおそまつなものだった。
「どうしても目指したいものというか、挑戦したいことがあって」
矢島が困ったように微笑む。
「目指したいものって! 何なの?」
いつの間にか尋問のようになっていた語気を、慌てていつもの状態に戻す。これじゃあ、矢島が素直に話してくれないかもしれない。そう思ったからだ。
「私……」
矢島の声が掠れる。急いでレモンサワーを一口飲むと、矢島は言葉を続けた。
「私、絵の世界で勝負したいんです」
「絵の、世界」
矢島の答えを自分でも繰り返す。今とはまったく違う世界だという答えに、驚いたというよりも腑に落ちたという感覚の方が、私の中で強く響いた。
矢島は確かに絵が上手い。高校時代は美術部に所属して、大学もそちらの方向を目指していたと聞いていたから、絵を描くことは好きだと知っていた。矢島の描く絵は写実的というよりは、デフォルメのようなポップな絵柄が多かった。現在勤めている建設会社のイメージキャラクター「タテコさん」も、矢島が素案を作り、デザイン会社と詳細を練り上げて完成させたものだ。しかも矢島の素案からは、ほとんど変更がない状態で「タテコさん」は描かれていた。
それでも私の心は瞬時に灰色の雲に覆われる。その雲の中では不安と心配が交錯していた。
「矢島の絵が上手いことは知ってる。でも、絵で食べていくって厳しいんじゃないの?」
「それも承知の上です」
矢島がサワーを一口飲む。私も続いて一口飲んだ。
「大学はお金が無かったのと家族の反対もあって、美術系の方面へは進みませんでした。それでも、去年の九月にタテコさんのデザインを担当した辺りから、絵で勝負したいって気持ちが強くなって。絵が上手な人は山ほどいるってわかっています。それでも諦めたくないんです。一度大きくなった気持ちって、なかなか萎まないですから」
新たな決意を語る矢島の表情は、目が大きく開かれ、キラキラと輝いていた。今まで見たことがないほど希望に満ちている。矢島と出会って三年が経ったけれど、こんな表情を見たのは初めてだった。
「後悔は、しないのね」
「はい。もう決めたことなので」
矢島と視線を交わす。店内の明かりも混じっているのか、矢島の目は光を宿しているようにも見えた。数秒後、瞼を閉じる形で私から目線を外す。
「わかった。じゃあ頑張りなさい! 応援しているから」
「はい! ありがとうございます永島先輩!」
矢島が弾けるような笑顔になる。あまりにも嬉しそうな様子だったから、こっちまでつられて笑顔になってしまった。そこで再び気づく。
「あれ? 今月いっぱいなんだよね、勤務」
「はい」
「私、事前に会社で聞いていないんだけど」
所属している班が違うせいだろうかとも思ったけれど、会社の規模はそれほど大きくはない。だから同じ会社にいて耳に入らないのはおかしいと思ったのだ。
「あぁ。ほら永島先輩、インフルエンザと風邪に罹った期間があったじゃないですか。その期間に流布されたんですよ」
「あの二週間に?」
たしかに二月の中旬、インフルエンザと風邪の連続アタックに遭ってしまい長期休暇を取得した時期があった。まさかその期間に、矢島の退職が発表されていたなんて。我ながら情報に疎いというか、なんというか。
「誰か教えてくれればよかったのに……」
ガクッと項垂れる。そんな私を見て、矢島はフフッと笑い声を上げた。
「きっと皆さん、もう知っていると思っていたんですよ。私達、仕事上でもお昼休憩の時間にも、よく一緒にいましたから」
矢島はそう言うと、形良く整形された出汁巻き玉子を頬張った。私も野沢菜漬けの天ぷらを頬張る。ほのかな塩気と衣のサクサク感が気持ちを前向きに持っていってくれた。
「まあ、何はともあれ頑張ってね、矢島!」
「はい!」
「特に仕事はもちろん、プライベートでも無茶して体は壊さないように。体はすべての資本だからね」
「わかっています」
矢島が笑顔を見せ、サワーを一口、二口、三口飲んだ。
「永島先輩」
「何?」
「これからも、たまにこうして飲みに付き合ってくれますか?」
「なに当たり前のこと聞いてるのよ」
「ですよね! さすが永島先輩! これからもついて行きます!」
矢島と二人で笑顔になる。お互いのジョッキの氷がカランと軽い音を立てて崩れた。
これから生きていく道は違ったとしても、私達の友情は変わらない。いや、絶対に変えない。私はそう心に決めた。
「それにしても、独立したばかりじゃ何かと大変でしょ? 私にも何か手伝えればいいんだけど」
社交辞令のように軽い気持ちで発した言葉の直後、矢島の目が鋭くなった気がした。
「その言葉、待っていました!」
顔の前で組んでいた両手が、突然矢島の両手に包まれる。矢島の両手はお酒の効果もあってかポカポカと温かかった。
「永島先輩、一緒に組みませんか? ぜひ経理兼、絵のアシスタントをお願いしたいんです!」
「え……。えぇ!」
「大丈夫です! 永島先輩、経理も兼務しているからお金に関して詳しいですし、絵もお上手ですから!」
「ち、ちょっと待って矢島……」
「そうと決まれば、早速今後のプランを練りましょう! まずは事務所となる場所。駅からちょっと離れていれば、その分利用料は安くて済みます。ですから、駅から徒歩十分以上の事務所を借りましょう。それから次に、キャラクター原案を募集しているコンペに参加して……」
矢島の悪い癖が出てしまった。人の意見を無視して押し通すところが。でも、彼女の夢に乗っかってみるのも悪くないかもしれない。今までとは違った、新しい景色が見られるかもしれないから。
「ありがとうね、矢島」
「え。どうして先輩がお礼を?」
「ふふ。秘密だよ」
矢島は不思議そうな表情を浮かべるも、これからの展望について話を続ける。私は矢島の声を聞きながら、残っていたレモンサワーを一気に飲み干した。
夜が更けていくと共に、居酒屋はますます活気に溢れているようだった。
三月九日 ありがとうの日
時刻は午後八時過ぎ。職場から近い商店街の中にあるため、いつもお世話になっている居酒屋「ちょうげんぼう」。その店内は金曜日の夜ということもあって活気に満ち溢れている。お客同士の楽しげな会話や威勢のいい店員さんの掛け声。そのガヤガヤした周囲の音に負けないくらいの大声で、矢島が感謝の言葉を発し、頭を下げる。それも今まで「美味しいカフェラテのあるお店はどこか」という話の中で、唐突に。
「どうしたの、矢島?」
半笑いで矢島に聞き返す。おそらく酔いが回って、正常な思考ができないのだろう。夕方の六時から飲み始めて、もう二時間は経つ。私でさえ頭がホワホワとして気持ちいい気分なのだから、きっと矢島も気持ちが高ぶっているはず。そう思っていたけれど、頭を上げた矢島の顔は真剣なものだった。
「冗談で言っているんじゃないですよ。本気で感謝しているんです」
矢島の顔は赤かったものの、その眼差しは酔いを微塵も感じさせなかった。酒の席とはいえ、こちらも真剣に対応しなければいけない。瞬間的にそう思い、ホワホワとしていた頭のスイッチを切り替える。
「なんで私に感謝するの?」
湧いた疑問をそのままぶつけてみる。すると矢島は目を丸くしてきょとんと私を見つめた。
「なんでって……。入社してから永島先輩には、仕事でもプライベートでもお世話になりっぱなしでしたから。それで」
微笑みながらそう言われると、なんだか気恥ずかしい。それを隠すように、私は運ばれてきたばかりの生絞りレモンサワーを一口飲む。冷たい液体が胃に落ちていく感触、そしてアルコールによって、時間差で胃が熱くなる感触。それらの感触が、いつの間にか高揚していた気持ちを標準まで押し戻してくれた。
後輩の矢島こと矢島虹子は、私より五歳年下の、笑顔が魅力的な女性だ。少し茶色がかった肩までのストレートヘアに健康的な体つき。長方形の銀縁眼鏡に灰色のパンツスーツを纏うその姿は、初めて会う人物に真面目過ぎる印象を与える。でも実際は、気合いや勢いを体現したような、いわゆる「体育会系」な性格を宿している。勢いがよすぎて失敗することもあったけれど、仕事への情熱は熱く、上役からも目を掛けられる存在になっていた。暗い雰囲気を明るく、凍土のように固い新規取引相手も春泥のように柔らかくしてしまう。そんな熱い太陽のような力を、私は矢島に感じていた。
そんな彼女に感謝されるほどのことを、果たして私はしていたのだろうか。
「そんなに感謝されるほど、私、矢島をお世話していない気がするけど……」
微笑みながらそう言い、首を少し傾げて少し考える。矢島はその熱意から、社内でも瞬く間に人気者になった。そんな矢島と比べると私は影が薄い存在で、気がつけば仕事で裏方に回ることが多くなっていた。矢島が太陽だとしたら私は空気。存在感では到底、矢島には及ばない。
「しています! ものすごくしています!」
矢島の声が大きくなる。その勢いに私は思わずたじろいでしまった。
「えぇ……。私はただ、矢島がプレゼンで使う資料のバックアップを取ったり資材の誤発注を取引先に謝ったり……。あとはこうやって一緒に飲みに行くぐらいしかしてないよ、たぶん」
矢島の気迫に押され、最後の方は声が弱々しくなる。私の返答を聞いた矢島は、はあっと大きくため息を吐いた。
「永島先輩、それですよ」
「それ?」
「その気配りにどれほど助けられたか!」
矢島はそう言うと、グラスに三分の一ほど残っていたライチサワーを一気に飲み干した。カランカランとジョッキの中で氷が乱舞する。
「気配りというか、当たり前のことだと思うけど」
「その『当たり前』ができるのが先輩なんです。他の先輩には真似できないんですよ」
「お飲み物、伺いますか?」
話のちょうど切れ目で、体格のいい居酒屋の男性店員が声をかけてきた。
「あ、じゃあ生絞りレモンサワーで」
「かしこまりました。少々お待ちください」
男性店員が去った後、私の方に向き直った矢島は、真っ直ぐに私を見つめる。眼鏡の奥には大きく見開かれ、熱を含んだ眼差しがあった。
「目線が眩しいよ、矢島」
私が両手で眩しい視線を遮るような仕草をするも、矢島は目線を逸らさなかった。
「永島先輩が思っている『当たり前』は、みんなの『当たり前』じゃないんですよ」
声が急に小さくなる。それでも周囲の賑やかさには負けていなかった。
「どういうこと?」
「永島先輩が資料のバックアップを取っておいてくれたおかげで、私のパソコンがプレゼン直前にクラッシュしてもなんとか乗りきれました。それに一月、私が資材を誤発注した時も、永島先輩が先頭に立って各取引先の対応をしていましたし」
「生絞りレモンサワーのお客様?」
「私です」
「お待たせいたしました。空いているグラス、お下げしますね」
女性店員が生絞りレモンサワーを矢島の前に置き、空のグラスを持って行く。矢島は運ばれてきた淡い黄色に輝くサワーを一口飲むと、ふうっと息を吐いた。
「それに、こうやって私の話も聞いてもらって。特に社内恋愛が終わった時なんか、朝まで付き合ってもらって……。永島先輩に付き合ってもらえなかったら、私、今でも立ち直れなかったと思います」
矢島の真っ直ぐな眼差しが私を射抜く。ただでさえ綺麗な顔立ちなのに、そんな真剣に見つめられたら女の私でさえ恥ずかしくなるじゃない。再び生絞りレモンサワーに口をつける。氷が溶け、先ほどよりも味が薄くなっている気がした。
そこでふと気づく。矢島の性格上、周囲に敵を作ってしまうことも珍しくない。そのためか、矢島が素直に感謝の言葉を言うことは少なかった。勤めている会社では矢島が一番の後輩で、しかも体育会系な性格だったから「さすが永島先輩! 助かります!」と先輩をヨイショするような形でお礼を言うことは度々あった。でも、こんなに面と向かって素直に感謝の言葉をかけられたのは、今まで接してきた中でも初めてだった。
違和感。そう、いつもの矢島じゃない。何かある。そう直感が告げていた。
「ねぇ矢島」
「なんですか永島先輩」
「何かあったでしょ?」
今度は私が矢島を見つめる。視線が交錯して数秒の後、矢島が私から目を逸らし、生絞りレモンサワーを一口飲んだ。グラスを置くと意を決したように私と目線を合わせる。
「実は、先輩にご報告があって」
「報告?」
「はい」
矢島がもう一度視線を外す。迷っているのかな。矢島にしては珍しい。そう思った直後だった。
「私、今月いっぱいで会社を退職するんです」
瞬間、その場からすべての音が消え去った。耳が音の収集を拒否したかのように。
「え……。えぇ!」
ち、ちょっと待って。矢島が退職? あんなに仕事に情熱を持っていた矢島が? 何かの間違いじゃ。いやでも、こうやって本人の口から事実を聞いてしまったし、間違いないんだよね。いや、でも。
「どうして!」
やっと絞り出した一言は、声が裏返ったおそまつなものだった。
「どうしても目指したいものというか、挑戦したいことがあって」
矢島が困ったように微笑む。
「目指したいものって! 何なの?」
いつの間にか尋問のようになっていた語気を、慌てていつもの状態に戻す。これじゃあ、矢島が素直に話してくれないかもしれない。そう思ったからだ。
「私……」
矢島の声が掠れる。急いでレモンサワーを一口飲むと、矢島は言葉を続けた。
「私、絵の世界で勝負したいんです」
「絵の、世界」
矢島の答えを自分でも繰り返す。今とはまったく違う世界だという答えに、驚いたというよりも腑に落ちたという感覚の方が、私の中で強く響いた。
矢島は確かに絵が上手い。高校時代は美術部に所属して、大学もそちらの方向を目指していたと聞いていたから、絵を描くことは好きだと知っていた。矢島の描く絵は写実的というよりは、デフォルメのようなポップな絵柄が多かった。現在勤めている建設会社のイメージキャラクター「タテコさん」も、矢島が素案を作り、デザイン会社と詳細を練り上げて完成させたものだ。しかも矢島の素案からは、ほとんど変更がない状態で「タテコさん」は描かれていた。
それでも私の心は瞬時に灰色の雲に覆われる。その雲の中では不安と心配が交錯していた。
「矢島の絵が上手いことは知ってる。でも、絵で食べていくって厳しいんじゃないの?」
「それも承知の上です」
矢島がサワーを一口飲む。私も続いて一口飲んだ。
「大学はお金が無かったのと家族の反対もあって、美術系の方面へは進みませんでした。それでも、去年の九月にタテコさんのデザインを担当した辺りから、絵で勝負したいって気持ちが強くなって。絵が上手な人は山ほどいるってわかっています。それでも諦めたくないんです。一度大きくなった気持ちって、なかなか萎まないですから」
新たな決意を語る矢島の表情は、目が大きく開かれ、キラキラと輝いていた。今まで見たことがないほど希望に満ちている。矢島と出会って三年が経ったけれど、こんな表情を見たのは初めてだった。
「後悔は、しないのね」
「はい。もう決めたことなので」
矢島と視線を交わす。店内の明かりも混じっているのか、矢島の目は光を宿しているようにも見えた。数秒後、瞼を閉じる形で私から目線を外す。
「わかった。じゃあ頑張りなさい! 応援しているから」
「はい! ありがとうございます永島先輩!」
矢島が弾けるような笑顔になる。あまりにも嬉しそうな様子だったから、こっちまでつられて笑顔になってしまった。そこで再び気づく。
「あれ? 今月いっぱいなんだよね、勤務」
「はい」
「私、事前に会社で聞いていないんだけど」
所属している班が違うせいだろうかとも思ったけれど、会社の規模はそれほど大きくはない。だから同じ会社にいて耳に入らないのはおかしいと思ったのだ。
「あぁ。ほら永島先輩、インフルエンザと風邪に罹った期間があったじゃないですか。その期間に流布されたんですよ」
「あの二週間に?」
たしかに二月の中旬、インフルエンザと風邪の連続アタックに遭ってしまい長期休暇を取得した時期があった。まさかその期間に、矢島の退職が発表されていたなんて。我ながら情報に疎いというか、なんというか。
「誰か教えてくれればよかったのに……」
ガクッと項垂れる。そんな私を見て、矢島はフフッと笑い声を上げた。
「きっと皆さん、もう知っていると思っていたんですよ。私達、仕事上でもお昼休憩の時間にも、よく一緒にいましたから」
矢島はそう言うと、形良く整形された出汁巻き玉子を頬張った。私も野沢菜漬けの天ぷらを頬張る。ほのかな塩気と衣のサクサク感が気持ちを前向きに持っていってくれた。
「まあ、何はともあれ頑張ってね、矢島!」
「はい!」
「特に仕事はもちろん、プライベートでも無茶して体は壊さないように。体はすべての資本だからね」
「わかっています」
矢島が笑顔を見せ、サワーを一口、二口、三口飲んだ。
「永島先輩」
「何?」
「これからも、たまにこうして飲みに付き合ってくれますか?」
「なに当たり前のこと聞いてるのよ」
「ですよね! さすが永島先輩! これからもついて行きます!」
矢島と二人で笑顔になる。お互いのジョッキの氷がカランと軽い音を立てて崩れた。
これから生きていく道は違ったとしても、私達の友情は変わらない。いや、絶対に変えない。私はそう心に決めた。
「それにしても、独立したばかりじゃ何かと大変でしょ? 私にも何か手伝えればいいんだけど」
社交辞令のように軽い気持ちで発した言葉の直後、矢島の目が鋭くなった気がした。
「その言葉、待っていました!」
顔の前で組んでいた両手が、突然矢島の両手に包まれる。矢島の両手はお酒の効果もあってかポカポカと温かかった。
「永島先輩、一緒に組みませんか? ぜひ経理兼、絵のアシスタントをお願いしたいんです!」
「え……。えぇ!」
「大丈夫です! 永島先輩、経理も兼務しているからお金に関して詳しいですし、絵もお上手ですから!」
「ち、ちょっと待って矢島……」
「そうと決まれば、早速今後のプランを練りましょう! まずは事務所となる場所。駅からちょっと離れていれば、その分利用料は安くて済みます。ですから、駅から徒歩十分以上の事務所を借りましょう。それから次に、キャラクター原案を募集しているコンペに参加して……」
矢島の悪い癖が出てしまった。人の意見を無視して押し通すところが。でも、彼女の夢に乗っかってみるのも悪くないかもしれない。今までとは違った、新しい景色が見られるかもしれないから。
「ありがとうね、矢島」
「え。どうして先輩がお礼を?」
「ふふ。秘密だよ」
矢島は不思議そうな表情を浮かべるも、これからの展望について話を続ける。私は矢島の声を聞きながら、残っていたレモンサワーを一気に飲み干した。
夜が更けていくと共に、居酒屋はますます活気に溢れているようだった。
三月九日 ありがとうの日
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
除雪師・雪雄は今日も「かく」!
希家由見子
現代文学
長野県に住む、高校2年生の米持和美(よねもち かずみ)は祖父から雪かきを依頼されたものの、雪の多さに悪戦苦闘。
そこに「雪かき、しようか?」と除雪師を名乗る男性が現れて……。
除雪師・雪雄と雪、そして「見えない何か」が関わるその先とは――?
これからの時期にピッタリ&役立つ(かもしれない)、雪かきがテーマの話です。
毎週土曜日、お昼の12時に更新します!
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
パラダイス・ロスト
真波馨
ミステリー
架空都市K県でスーツケースに詰められた男の遺体が発見される。殺された男は、県警公安課のエスだった――K県警公安第三課に所属する公安警察官・新宮時也を主人公とした警察小説の第一作目。
※旧作『パラダイス・ロスト』を加筆修正した作品です。大幅な内容の変更はなく、一部設定が変更されています。旧作版は〈小説家になろう〉〈カクヨム〉にのみ掲載しています。
ぷろせす!
おくむらなをし
現代文学
◇この小説は「process(0)」の続編です。
下村ミイナは高校2年生。
所属する文芸部は、実はゲーム作りしかしていない。
これは、ミイナと愉快な仲間たちがゲーム作りに無駄な時間を費やす学園コメディ。
◇この小説はフィクションです。全22話、完結済み。
猫の罪深い料理店~迷子さんの拠り所~
碧野葉菜
キャラ文芸
アラサー真っ只中の隅田川千鶴は仕事に生きるキャリアウーマン。課長に昇進しできない男たちを顎で使う日々を送っていた。そんなある日、仕事帰りに奇妙な光に気づいた千鶴は誘われるように料理店に入る。
しかしそこは、普通の店ではなかった――。
麗しの店主、はぐれものの猫宮と、それを取り囲む十二支たち。
彼らを通して触れる、人と人の繋がり。
母親との確執を経て、千鶴が選ぶ道は――。
箱
黒田茶花
現代文学
シリアスな現代小説。研究者である男性主人公が破滅していく話です。毒親やSNSなど、現代的要素も含みます。(あまり主人公に感情移入しすぎないのがおすすめです)。
2023/04/11追記① 「就職祝い」の話を分割し、「就職祝い」と「『雑草』」にしました。ご不便をおかけして恐縮です。
2023/04/11追記② キャプションを一部修正。また、読んでいただいた方、ありがとうございます!ライト文芸大賞にも応募させていただきました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる