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交渉

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 名前を名乗るのを忘れてしまった事に自分でもショックを受けた私は、恥ずかしさにサイナまれながら椅子から立ち上がると、未婚の貴族令嬢のカーテシーを取って膝を折った。

「…エリスク伯爵家、長女、クレアでございます。ご挨拶もせずに申し訳ありません。」

するとヴォクシー閣下は指先で私を椅子に座る様に指図すると、考え込む様にもう一度グラスの酒を傾けた。

「エリスク伯爵…。ああ、代替わりした伯爵は中々夜会ではお会いしないがお元気かな。ここ数年体調が良くないと聞いているが…。」


 私は顔を強張らせた。ヴォクシー閣下はエリスク伯爵家の醜聞をよくご存知の様だった。次男で生まれたお父様は王宮で文官として地味な書類仕事をして、末端の貴族の一員として質素ながらも平和に温かな生活を送っていた。

しかしエリスク伯爵家を継いだ伯父上は、享楽的生活で伯爵家の領地経営をお父様に押し付けた上、財産を食い潰していた。男娼を何人も屋敷に囲っていた伯父上は、勿論妻帯もせず醜聞を撒き散らしていた。

これが誰か決まった相手と共に生活していたのなら、話は変わっていただろう。男色はない話でも無いからだ。


 結果として享楽的な生活で命を削る様な人生を送った伯父上は、齢50歳になる前に亡くなった。後継の居ないエリスク伯爵家を継いだのは次男であるお父様だった。

伯爵になった事を羨ましがる向きもあったけれど、蓋を開ければ火の車で、お父様は王宮の仕事をしながら領地の立て直しを本格的にする事になった。そんな矢先に立て続けに不幸は重なった。 


 エリスク伯爵家領地のガマリ川の氾濫が何度か続いたお陰で、領民への支援が負担になり、上向いていた財政はすっかり破産寸前の有様になった。

そしてお父様の最愛の妻である、お母様が風邪を拗らせたと思ったらあっという間に亡くなってしまって、お父様は張り詰めていた心が私から見てもすっかり切れてしまった様だった。

お母様を亡くしてから気力を失ったお父様は、王宮での仕事をある日突然辞めて領地に引き篭もってしまった。


 領地にはまだ幼い弟のマイケルがいる破綻寸前の我が家は、私が直ぐにでもお金のある貴族の後妻に入るかどうかして支援を受ける必要があった。王都の家財道具もほとんど無い屋敷に上京したのも、そんな事情だったものの、どうしても気が進まない私は現実逃避を続けていた。

だから王都の孤児院の困窮振りに見て見ぬ振りが出来なかったのも、きっと自分のままならない近い将来を彼らに重ねているからなのかも知れない。私は自嘲気味に薄く微笑んだ。


 「…お父様はお母様が亡くなってからすっかり気力を失ってしまいました。領地での立て続きの水害にも疲弊してしまって。…私が後妻に入って、婚姻による僅かばかりの支援を受ける事が、幼い弟の居る我が家の最後の希望と言えばそうなのでしょうけど。

 私自身は貴族に生まれた時から、ままならない事も受け入れる覚悟は出来ています。けれど、孤児院に居る幼いあの子達にそれを求めるのは酷というものです。彼らは貴族でも無く、守られるべき領民なのですから。違いますか?」


 私はもう破れかぶれだった。ヴォクシー閣下を怒らせようが、私は辺境の年取った貴族の後妻として人知れず生きていくだけなのだから。するとヴォクシー閣下は思いがけない事を私に言った。

「貴族はままならない事でも受けいれる…。君は今時珍しい古臭い考えの持ち主だな。そんな志の貴族など、今探しても居るかどうか。君の伯父上の様に領民を踏みにじってまでも、享楽的な生活を送りたがる者が普通ではないか?」


 私はカッとして嘲笑うヴォクシー閣下を睨みつけて言った。

「他の方はどうなのか知りませんけれど、私は目の前で溺れていく人間を見捨てる様な事は出来ません。それをしたら唯一自分のものである心が死んでしまいますから。」

するとヴォクシー閣下は私をじっと見つめて言った。

「君は嗜虐シギャク的な貴族の後妻に入っても、心が死なないとでも考えているのかい?彼らは理由無く若い困窮した貴族の娘を次々に後妻として受け入れている訳ではないのだが。君にそんな性癖があると言うのなら話は別だがね?まぁ、最悪心だけ死ぬなら上々と言った所だ。」


 いきなり考えもしない事を言われて、私は恥ずかしさと恐ろしさに、すっかり膨れ上がっていた勇ましい気持ちが萎んでいくのを感じた。けれど、ここで何の収穫も無しですごすごと帰る訳にもいかず、喉の奥に詰まる悔しさと涙を、唇を噛み締めて堰き止めることしか出来なかった。

そんな私をじっと見つめていたヴォクシー閣下は、グラスを置くと肩をすくめて呟いた。

「確かにベクトル教会付き孤児院は私の管轄だ。管理は子爵に任せていたがね。若い君の勇気に免じて状況を調べてみよう。さぁ、もう帰りなさい。破綻寸前とは言え、ここは未婚の貴族令嬢が来る場所では無いからね。」


 そう言うと、まるで私の事が急に見えなくなったかの様に目を閉じてソファに寄り掛かった。私は少し震える声を張って、挨拶だけすると居心地の悪い部屋を飛び出した。

部屋を出ると、堪えていた涙が溢れ出た。それでもこんな場所で泣くのは馬鹿な事だと指先で涙を拭うと、社交場の視線を振り払ってすっかり暗くなった王都の表通りへと飛び出した。


 馬鹿なのは私だ。現実逃避して、ヴォクシー閣下の言う通りの後妻に入るその先の未来を甘く見ていた。家に届いているニ件の後妻の案件は、どちらも眉を顰める様なものだった。お金はあるけれど、3年毎に後妻を娶ってる50歳の伯爵は、まさにヴォクシー閣下の言う様な人物なのではないだろうか。

それだったら、五人もの子供がいて愛人も二人居る子爵の方がマシなのかもしれない。けれどこちらの子爵では伯爵家への支援の金額は希望の半分にも満たない。


 彼らの目的が私の若さと、母親譲りのこの真っ直ぐな銀髪と、柔らかな空色の瞳の見栄えにあるとしても、それで少しでも条件を良くすることが出来るのなら、私はそれを差し出すしか無い。

私は従者が待っていた馬車に乗り込むと、こぢんまりした裏寂しい屋敷に向かいながら、自分を憐れんで酷く泣きじゃくった。私だって、ヴォクシー閣下にああ言ったものの、両親の様な唯一の愛を囁きあえる恋をしたかった。


 お金のために婚姻を決めるのは貴族では珍しい事ではないけれど、自分がよもや身売りをする様な婚姻をするなんて少女の頃は考えもしなかったのだから。

屋敷に到着する頃には、私は侍女や家令を心配させまいと、ベールを深く下ろして馬車の中で明るい声が出せる様に何度か発声した。私に出来る事をするしかない。もう残された道はないのだから。









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