30 / 59
公私混同は禁止
カフェテリアでの大騒ぎ
しおりを挟む 中島 康太 二十一歳
ゆっくりと目をつむる。鼻から大きく息を吸い込み、拳を強く握る。そして口から長くゆっくりと息を吐き出して、目を開く。
これは儀式だ。心を落ち着かせて集中力を高めるための儀式。意識して呼吸を整えながら、落ち着いた頭で考える。
世界が終わるということの意味を。
と……いうことはだ、来年……オリンピックはない。俺は……今の俺のまま死ぬことになる。
「……くそっ」
思い出す。
それは小学二年生のときだった。
その頃の俺は特撮ヒーローが大好きだった。五人組のヒーローが一人の怪人を倒すやつじゃなくて、ヒーローと悪役がサシで戦うやつが好きだった。
ヒーローごっこもやった。父さんが仕事から帰ってくると悪役をやってもらって、ほとんど毎日のようにやっていた。でもそれは所詮ごっこ遊び。父さんがわざと大げさに負けてくれるのが、いつの頃からか気に食わないと思うようになった。
それで俺は本当に強くなりたいと考えた。ヒーローがやっていた空手が習いたくて、思い立ったその日のうちに父さんにお願いした。しかし近所には空手の道場がなくて、結局俺は柔道を習うことになった。
それが俺と柔道の出会いだった。
柔道は楽しかった。自分より大きい相手を投げたり、押さえ込んだりと、どんどん夢中になっていった。それでも小学五年生になるまで、俺は道場に遊びに通っていた。
柔道に対する意識に変化が訪れたのは、小学五年生のときに見たオリンピックの影響だった。それまで三年間柔道をやっていたが、柔道をテレビで見るのはそれが初めての機会だった。
衝撃的だったのは軽量級の工藤竜司選手。初戦から決勝戦まで全て背負い投げで一本勝ち。このとき工藤選手は二大会連続の金メダルだった。
めちゃくちゃかっこいいと思った。大好きだった特撮ヒーローよりもずっとかっこよかった。その日から俺のヒーローは工藤選手になった。そして俺は柔道でオリンピックを目指すことを決めた。
それからずっと俺は人生の全てを柔道に捧げてきた。
初めて大会で優勝したのは小学五年生の十一月、地元で行われる食品メーカーの名を冠した小さな大会だった。それから俺は十八歳まで、出場した大会で一度も負けたことはなかった。インターハイ、国体はもちろん、年齢制限のない選抜選手権や世界大会であるワールドカップでも優勝した。高校三年生のときには憧れであった工藤選手とも二度対戦し、二度とも一本勝ちで勝利した。
それも二度目の試合はオリンピックの選手選考に大きく影響する、選抜選手権の決勝戦だった。
その試合、開始まもなく組み手を取ったところで、俺は先にポイントを奪われた。工藤選手の戦い方は柔道をかじったことのある者なら誰だって知っていた。彼はひたすらに背負い投げにこだわりを持っていた。もちろん足技も使う。しかしそれは牽制や相手の体勢を崩すためのものか、背負いにつなげるための予備動作でしかなかった。もし相手を背負いで投げて、それが技ありだったなら、彼は寝技を避け、次の背負いで一本を狙っていった。彼が求めるのはただ一つ、背負い投げによる一本勝ちだけだった。誰もが彼の背負いを警戒していた。それでも背負いで投げてしまうのが彼の強みだった。その工藤選手が開始直後の組み手争いの中、足技の小内巻き込みでポイントをとりにきたのだ。俺は完全に虚を突かれ、背中こそつかなかったが倒されてしまった。判定は有効。その後、工藤選手はいつも避けていた寝技で押さえ込みまで狙ってきた。試合は結局内股で俺の一本勝ちだったが、工藤選手は巴投げまでやってきた。必死さこそ伝わってきたが、正直いつものスタイルのほうが恐さがあった。
そして俺はオリンピックの軽量級代表として選ばれた。三大会連続優勝中、三十二歳の工藤竜司選手ではなく、十八歳で高校生の俺がオリンピックの日本代表に選出されたのだ。
それは日本中を騒がす大きなニュースになった。工藤選手は国民的ヒーローだったから。
柔道をよく知っている人たちは俺の選出を好意的に受け止めてくれた。しかしオリンピックくらいでしか柔道を見ないような人たちの中には俺を否定する者が多かった。
経験が足りないとか若すぎるとか……俺のことを何も知らないような奴らが、口々に俺を否定した。
だから俺は取材に対して言ったんだ。
俺は試合で負けたことがない。世界大会で優勝するより工藤選手に勝つほうが難しい。工藤選手に勝てた時点で金メダルは貰ったようなもんだ。だからぐだぐだ文句を言ってないで安心してくれと。
この発言で俺はまた叩かれた。ビッグマウスだとか天狗になっているだとか、いろいろ言われた。
それでも俺は全く気にしなかった。オリンピックで優勝して黙らせてやればいい。そう思っていた。
そしてオリンピック。
初戦だった。相手はデンマーク代表のクリスティアン・エリクセン選手。以前に一度対戦したことのある相手だった。軽量級の割には背が高く力が強い。四肢も長くやりにくい相手ではあるが、恐れるような一発を持っているわけではない。
俺は畳の上で彼と対峙した。
ゆっくりと目をつむる。鼻から大きく息を吸い込みながら拳を強く握る。そして口から長くゆっくりと息を吐き出して、目を開く。相手を真っ直ぐに見据えて、審判の合図で礼をする。
そして試合が始まった。
「せい!」
声を出して組み手争いのために手を構える。
この試合でまず俺を否定する奴を黙らせてやる。一分以内、いや一撃で倒す。そんなことを考えていた。
俺は組み手争いも強い。開始数秒で俺は自分の組み手を取った。そして相手の呼吸に合わせて、軽くこちらに引き寄せる。相手はそれに反発する。そこに一歩踏み込んで足技に行くそぶりを見せる。またそれに合わせて相手の重心が移動する。
そこに内股を仕掛けた。
完璧だった。相手はおもしろいくらい簡単に浮き上がる。俺は自分ごと回転し相手を投げ飛ばした。少し勢いがつきすぎたため相手の背中は畳についていないかもしれない。それでも完全に投げ飛ばした。スーパー一本で問題ないだろう。
そんなふうに考えながら、投げ飛ばした姿勢のままで審判を見上げた。審判の手は水平に上げられていた。技ありだ。目を疑って電光掲示板を見る。技ありが点滅していた。
そのとき視界から電光掲示板が消えた。
あ、やばい……
そう思ったときには、すでに押さえ込まれていた。一本と技ありの違いもわからないヘボ審判が押さえ込みを宣言する。
二十秒で逃げなければ、俺は負ける。
完全な形で押さえ込まれていた。それでも負けるわけにはいかない。必死にブリッジして体を回転させようともがいた。
やばい、やばい、やばい……頭の中がその言葉だけで埋め尽くされていく。焦りが募る。それでも俺は必死に暴れ、押さえ込みから逃れようとした。
そしてやっと逃げ出した。
そう思ったそのとき……相手は座ったまま両拳を天へと突き上げて、歓喜の声を上げていた。そして審判が一本を宣言した……
俺は負けたのだ。相手の選手が次の試合で敗れたため、敗者復活戦もなく一回戦敗退。
帰国するとバッシングの嵐だった。八年間公式戦で負けたことのなかったこの俺が、たった一敗しただけで……これまでどれだけ過酷な練習を重ね、どれだけ多くのものを諦めて俺が柔道だけに取り組んできたのかを知りもしない奴らに、負け犬のレッテルをはられて嘲笑の的にされた。
それでも言い訳は出来なかった。審判の誤審で無理やり負けにされたわけじゃない。あそこで気を抜かなければ、問題なく勝てた試合だったのだ。そもそもあのときの俺は相手選手と対峙しながら、別のものと戦おうとしていた。俺は負けるべくして負けたのだ。
それからの俺は今まで以上に柔道に全てを捧げた。絶望に浸っている暇なんてなかった。全てが終わってしまったわけではない。俺にはまだ四年後があった。次のオリンピックでこの汚名を返上したかった。
そのためだけに生きてきた。毎日、毎日、吐くまで練習した。どれだけ練習しても、次ぎ勝てる確信が持てなくてひたすらに練習を続けた。食事にも気を使い、好物だったチョコレートなどの甘いものも、あの敗戦以来一度も口にしてはいない。
どれだけ勝利を重ねても、どんな大会で優勝しても、オリンピックでの汚名はオリンピックでしか晴らすことが出来なかった。
そのオリンピックが来年だった。すでに選考は始まっている。来月には選考に影響する大会も控えていた。その大会には工藤選手も出場する。
それなのに……それなのにだ。
世界が終わる。オリンピックの前に終わってしまう。俺は負け犬のまま、この人生を終える。汚名を返上するチャンスは訪れなかった。
「ふざけんなよ……」
そんなの許されない……そんなことがあっていいわけがない……
心の中で様々な感情が入り乱れていた。後悔、怒り、悲しみ、絶望……様々な負の感情が溢れ出してくる。その溢れる思いを吐き出そうと、叫び声を上げようとしたそのとき、電話が鳴った。携帯ではなく、家の電話だ。
家の電話なので誰からかはわからないが、俺はつい反射的に電話をとってしまった。
「俺だ……」
それはよく知った声だった。
「新手の詐欺かなんかですか? どうしたんです? 工藤さん。こんなときに」
工藤選手だった。
「はっ、残念だったな。オリンピックどころじゃなくなっちまったな」
少し笑いながら、工藤選手はそう言った。
「ですね……これ、ドッキリとかじゃ、ないんですよね?」
「ああ……もうすぐ世界が滅びるんだってよ。本当……ありえねえよな」
「俺は……俺なんか、大口叩いてたのに、オリンピックで一回戦負けの、負け犬野郎のままエンディングですよ……」
「そうだな……まぁ、でも、俺が知っているさ。お前は誰よりも強いって……」
そう言ってまた少し笑った後、ため息まじりに工藤選手は言葉を続けた。
「俺はな、オリンピックで三回も金メダルを取ってるんだぜ。それなのに、お前には一度も勝てなかった。オリンピック前に二回、後に二回。四戦とも一本負けだ。お前はいっつも、自分は誰よりも練習してるって言うけど、お前はまだ二十一だろ。俺は三十五だ。総合的な練習量じゃあ、圧倒的に俺のほうが多いからな。その俺が十八だったときのお前にすら、手も足も出なかった。どんだけくやしかったかわかってんのか? 俺はもともと前回のオリンピックの後、引退するつもりだったんだ。それなのにまだ続けてるのはな、一度だけでもお前に勝ちたかったからだ。あーー! くっそ! 来月の試合楽しみだったのにな。対お前用の必殺技を用意してたんだぞ。そうだな……お前、ちょっと今から一試合やらねえか? 今どこにいるよ?」
「奈良です」
「くそっ……遠いな。無理か。あー! ちくしょう。もし、あれだぞ。天国みたいなのがあったらそこで勝負すんぞ。勝ち逃げなんて絶対に許さねえからな」
「はは……わかりました。やりましょう。天国で天使が審判なら、あんなヘボい判定しないでしょうしね」
「おい……ちょっと待てよ。あれじゃねえか? 天国だったら俺、全盛期の状態でやれるんじゃねえ?」
「それでも返り討ちにしてやりますよ」
なんだろう……少し楽しくなってきた。
工藤選手と話していたら、負の感情は全部どっかに行ってしまった。やっぱり工藤選手はかっこいい。俺と違って他人の目なんて気にしていなかった。きっと、ただ自分のやりたいようにやっているだけなんだ。
そうだ。俺だって汚名なんて気にする必要なんてない。俺は強い。俺は柔道が大好きだ。
試合がしたくてたまらなくなってきた。
もういい。はやく世界なんて滅びてしまえ。そして俺は天国で工藤選手と戦うんだ。必殺技とやらがどんな技なのか楽しみでしかたがない。工藤選手が必殺技だというくらいだから凄い技に違いない。それでも俺は負けない。絶対に勝つ。
なんせ俺は最強だからな。
誰がなんと言おうと俺はそう信じている。
それで、それだけで充分だったんだ。
ゆっくりと目をつむる。鼻から大きく息を吸い込み、拳を強く握る。そして口から長くゆっくりと息を吐き出して、目を開く。
これは儀式だ。心を落ち着かせて集中力を高めるための儀式。意識して呼吸を整えながら、落ち着いた頭で考える。
世界が終わるということの意味を。
と……いうことはだ、来年……オリンピックはない。俺は……今の俺のまま死ぬことになる。
「……くそっ」
思い出す。
それは小学二年生のときだった。
その頃の俺は特撮ヒーローが大好きだった。五人組のヒーローが一人の怪人を倒すやつじゃなくて、ヒーローと悪役がサシで戦うやつが好きだった。
ヒーローごっこもやった。父さんが仕事から帰ってくると悪役をやってもらって、ほとんど毎日のようにやっていた。でもそれは所詮ごっこ遊び。父さんがわざと大げさに負けてくれるのが、いつの頃からか気に食わないと思うようになった。
それで俺は本当に強くなりたいと考えた。ヒーローがやっていた空手が習いたくて、思い立ったその日のうちに父さんにお願いした。しかし近所には空手の道場がなくて、結局俺は柔道を習うことになった。
それが俺と柔道の出会いだった。
柔道は楽しかった。自分より大きい相手を投げたり、押さえ込んだりと、どんどん夢中になっていった。それでも小学五年生になるまで、俺は道場に遊びに通っていた。
柔道に対する意識に変化が訪れたのは、小学五年生のときに見たオリンピックの影響だった。それまで三年間柔道をやっていたが、柔道をテレビで見るのはそれが初めての機会だった。
衝撃的だったのは軽量級の工藤竜司選手。初戦から決勝戦まで全て背負い投げで一本勝ち。このとき工藤選手は二大会連続の金メダルだった。
めちゃくちゃかっこいいと思った。大好きだった特撮ヒーローよりもずっとかっこよかった。その日から俺のヒーローは工藤選手になった。そして俺は柔道でオリンピックを目指すことを決めた。
それからずっと俺は人生の全てを柔道に捧げてきた。
初めて大会で優勝したのは小学五年生の十一月、地元で行われる食品メーカーの名を冠した小さな大会だった。それから俺は十八歳まで、出場した大会で一度も負けたことはなかった。インターハイ、国体はもちろん、年齢制限のない選抜選手権や世界大会であるワールドカップでも優勝した。高校三年生のときには憧れであった工藤選手とも二度対戦し、二度とも一本勝ちで勝利した。
それも二度目の試合はオリンピックの選手選考に大きく影響する、選抜選手権の決勝戦だった。
その試合、開始まもなく組み手を取ったところで、俺は先にポイントを奪われた。工藤選手の戦い方は柔道をかじったことのある者なら誰だって知っていた。彼はひたすらに背負い投げにこだわりを持っていた。もちろん足技も使う。しかしそれは牽制や相手の体勢を崩すためのものか、背負いにつなげるための予備動作でしかなかった。もし相手を背負いで投げて、それが技ありだったなら、彼は寝技を避け、次の背負いで一本を狙っていった。彼が求めるのはただ一つ、背負い投げによる一本勝ちだけだった。誰もが彼の背負いを警戒していた。それでも背負いで投げてしまうのが彼の強みだった。その工藤選手が開始直後の組み手争いの中、足技の小内巻き込みでポイントをとりにきたのだ。俺は完全に虚を突かれ、背中こそつかなかったが倒されてしまった。判定は有効。その後、工藤選手はいつも避けていた寝技で押さえ込みまで狙ってきた。試合は結局内股で俺の一本勝ちだったが、工藤選手は巴投げまでやってきた。必死さこそ伝わってきたが、正直いつものスタイルのほうが恐さがあった。
そして俺はオリンピックの軽量級代表として選ばれた。三大会連続優勝中、三十二歳の工藤竜司選手ではなく、十八歳で高校生の俺がオリンピックの日本代表に選出されたのだ。
それは日本中を騒がす大きなニュースになった。工藤選手は国民的ヒーローだったから。
柔道をよく知っている人たちは俺の選出を好意的に受け止めてくれた。しかしオリンピックくらいでしか柔道を見ないような人たちの中には俺を否定する者が多かった。
経験が足りないとか若すぎるとか……俺のことを何も知らないような奴らが、口々に俺を否定した。
だから俺は取材に対して言ったんだ。
俺は試合で負けたことがない。世界大会で優勝するより工藤選手に勝つほうが難しい。工藤選手に勝てた時点で金メダルは貰ったようなもんだ。だからぐだぐだ文句を言ってないで安心してくれと。
この発言で俺はまた叩かれた。ビッグマウスだとか天狗になっているだとか、いろいろ言われた。
それでも俺は全く気にしなかった。オリンピックで優勝して黙らせてやればいい。そう思っていた。
そしてオリンピック。
初戦だった。相手はデンマーク代表のクリスティアン・エリクセン選手。以前に一度対戦したことのある相手だった。軽量級の割には背が高く力が強い。四肢も長くやりにくい相手ではあるが、恐れるような一発を持っているわけではない。
俺は畳の上で彼と対峙した。
ゆっくりと目をつむる。鼻から大きく息を吸い込みながら拳を強く握る。そして口から長くゆっくりと息を吐き出して、目を開く。相手を真っ直ぐに見据えて、審判の合図で礼をする。
そして試合が始まった。
「せい!」
声を出して組み手争いのために手を構える。
この試合でまず俺を否定する奴を黙らせてやる。一分以内、いや一撃で倒す。そんなことを考えていた。
俺は組み手争いも強い。開始数秒で俺は自分の組み手を取った。そして相手の呼吸に合わせて、軽くこちらに引き寄せる。相手はそれに反発する。そこに一歩踏み込んで足技に行くそぶりを見せる。またそれに合わせて相手の重心が移動する。
そこに内股を仕掛けた。
完璧だった。相手はおもしろいくらい簡単に浮き上がる。俺は自分ごと回転し相手を投げ飛ばした。少し勢いがつきすぎたため相手の背中は畳についていないかもしれない。それでも完全に投げ飛ばした。スーパー一本で問題ないだろう。
そんなふうに考えながら、投げ飛ばした姿勢のままで審判を見上げた。審判の手は水平に上げられていた。技ありだ。目を疑って電光掲示板を見る。技ありが点滅していた。
そのとき視界から電光掲示板が消えた。
あ、やばい……
そう思ったときには、すでに押さえ込まれていた。一本と技ありの違いもわからないヘボ審判が押さえ込みを宣言する。
二十秒で逃げなければ、俺は負ける。
完全な形で押さえ込まれていた。それでも負けるわけにはいかない。必死にブリッジして体を回転させようともがいた。
やばい、やばい、やばい……頭の中がその言葉だけで埋め尽くされていく。焦りが募る。それでも俺は必死に暴れ、押さえ込みから逃れようとした。
そしてやっと逃げ出した。
そう思ったそのとき……相手は座ったまま両拳を天へと突き上げて、歓喜の声を上げていた。そして審判が一本を宣言した……
俺は負けたのだ。相手の選手が次の試合で敗れたため、敗者復活戦もなく一回戦敗退。
帰国するとバッシングの嵐だった。八年間公式戦で負けたことのなかったこの俺が、たった一敗しただけで……これまでどれだけ過酷な練習を重ね、どれだけ多くのものを諦めて俺が柔道だけに取り組んできたのかを知りもしない奴らに、負け犬のレッテルをはられて嘲笑の的にされた。
それでも言い訳は出来なかった。審判の誤審で無理やり負けにされたわけじゃない。あそこで気を抜かなければ、問題なく勝てた試合だったのだ。そもそもあのときの俺は相手選手と対峙しながら、別のものと戦おうとしていた。俺は負けるべくして負けたのだ。
それからの俺は今まで以上に柔道に全てを捧げた。絶望に浸っている暇なんてなかった。全てが終わってしまったわけではない。俺にはまだ四年後があった。次のオリンピックでこの汚名を返上したかった。
そのためだけに生きてきた。毎日、毎日、吐くまで練習した。どれだけ練習しても、次ぎ勝てる確信が持てなくてひたすらに練習を続けた。食事にも気を使い、好物だったチョコレートなどの甘いものも、あの敗戦以来一度も口にしてはいない。
どれだけ勝利を重ねても、どんな大会で優勝しても、オリンピックでの汚名はオリンピックでしか晴らすことが出来なかった。
そのオリンピックが来年だった。すでに選考は始まっている。来月には選考に影響する大会も控えていた。その大会には工藤選手も出場する。
それなのに……それなのにだ。
世界が終わる。オリンピックの前に終わってしまう。俺は負け犬のまま、この人生を終える。汚名を返上するチャンスは訪れなかった。
「ふざけんなよ……」
そんなの許されない……そんなことがあっていいわけがない……
心の中で様々な感情が入り乱れていた。後悔、怒り、悲しみ、絶望……様々な負の感情が溢れ出してくる。その溢れる思いを吐き出そうと、叫び声を上げようとしたそのとき、電話が鳴った。携帯ではなく、家の電話だ。
家の電話なので誰からかはわからないが、俺はつい反射的に電話をとってしまった。
「俺だ……」
それはよく知った声だった。
「新手の詐欺かなんかですか? どうしたんです? 工藤さん。こんなときに」
工藤選手だった。
「はっ、残念だったな。オリンピックどころじゃなくなっちまったな」
少し笑いながら、工藤選手はそう言った。
「ですね……これ、ドッキリとかじゃ、ないんですよね?」
「ああ……もうすぐ世界が滅びるんだってよ。本当……ありえねえよな」
「俺は……俺なんか、大口叩いてたのに、オリンピックで一回戦負けの、負け犬野郎のままエンディングですよ……」
「そうだな……まぁ、でも、俺が知っているさ。お前は誰よりも強いって……」
そう言ってまた少し笑った後、ため息まじりに工藤選手は言葉を続けた。
「俺はな、オリンピックで三回も金メダルを取ってるんだぜ。それなのに、お前には一度も勝てなかった。オリンピック前に二回、後に二回。四戦とも一本負けだ。お前はいっつも、自分は誰よりも練習してるって言うけど、お前はまだ二十一だろ。俺は三十五だ。総合的な練習量じゃあ、圧倒的に俺のほうが多いからな。その俺が十八だったときのお前にすら、手も足も出なかった。どんだけくやしかったかわかってんのか? 俺はもともと前回のオリンピックの後、引退するつもりだったんだ。それなのにまだ続けてるのはな、一度だけでもお前に勝ちたかったからだ。あーー! くっそ! 来月の試合楽しみだったのにな。対お前用の必殺技を用意してたんだぞ。そうだな……お前、ちょっと今から一試合やらねえか? 今どこにいるよ?」
「奈良です」
「くそっ……遠いな。無理か。あー! ちくしょう。もし、あれだぞ。天国みたいなのがあったらそこで勝負すんぞ。勝ち逃げなんて絶対に許さねえからな」
「はは……わかりました。やりましょう。天国で天使が審判なら、あんなヘボい判定しないでしょうしね」
「おい……ちょっと待てよ。あれじゃねえか? 天国だったら俺、全盛期の状態でやれるんじゃねえ?」
「それでも返り討ちにしてやりますよ」
なんだろう……少し楽しくなってきた。
工藤選手と話していたら、負の感情は全部どっかに行ってしまった。やっぱり工藤選手はかっこいい。俺と違って他人の目なんて気にしていなかった。きっと、ただ自分のやりたいようにやっているだけなんだ。
そうだ。俺だって汚名なんて気にする必要なんてない。俺は強い。俺は柔道が大好きだ。
試合がしたくてたまらなくなってきた。
もういい。はやく世界なんて滅びてしまえ。そして俺は天国で工藤選手と戦うんだ。必殺技とやらがどんな技なのか楽しみでしかたがない。工藤選手が必殺技だというくらいだから凄い技に違いない。それでも俺は負けない。絶対に勝つ。
なんせ俺は最強だからな。
誰がなんと言おうと俺はそう信じている。
それで、それだけで充分だったんだ。
0
お気に入りに追加
162
あなたにおすすめの小説
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

Honey Ginger
なかな悠桃
恋愛
斉藤花菜は平凡な営業事務。唯一の楽しみは乙ゲーアプリをすること。ある日、仕事を押し付けられ残業中ある行動を隣の席の後輩、上坂耀太に見られてしまい・・・・・・。
※誤字・脱字など見つけ次第修正します。読み難い点などあると思いますが、ご了承ください。
小野寺社長のお気に入り
茜色
恋愛
朝岡渚(あさおかなぎさ)、28歳。小さなイベント企画会社に転職して以来、社長のアシスタント兼お守り役として振り回される毎日。34歳の社長・小野寺貢(おのでらみつぐ)は、ルックスは良いが生活態度はいい加減、デリカシーに欠ける困った男。
悪天候の夜、残業で家に帰れなくなった渚は小野寺と応接室で仮眠をとることに。思いがけず緊張する渚に、「おまえ、あんまり男を知らないだろう」と小野寺が突然迫ってきて・・・。
☆全19話です。「オフィスラブ」と謳っていますが、あまりオフィスっぽくありません。
☆「ムーンライトノベルズ」様にも掲載しています。

甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。
海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。
ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。
「案外、本当に君以外いないかも」
「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」
「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」
そのドクターの甘さは手加減を知らない。
【登場人物】
末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。
恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる?
田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い?
【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
隠れドS上司をうっかり襲ったら、独占愛で縛られました
加地アヤメ
恋愛
商品企画部で働く三十歳の春陽は、周囲の怒涛の結婚ラッシュに財布と心を痛める日々。結婚相手どころか何年も恋人すらいない自分は、このまま一生独り身かも――と盛大に凹んでいたある日、酔った勢いでクールな上司・千木良を押し倒してしまった!? 幸か不幸か何も覚えていない春陽に、全てなかったことにしてくれた千木良。だけど、不意打ちのように甘やかしてくる彼の思わせぶりな言動に、どうしようもなく心と体が疼いてしまい……。「どうやら私は、かなり独占欲が強い、嫉妬深い男のようだよ」クールな隠れドS上司をうっかりその気にさせてしまったアラサー女子の、甘すぎる受難!

社長室の蜜月
ゆる
恋愛
内容紹介:
若き社長・西園寺蓮の秘書に抜擢された相沢結衣は、突然の異動に戸惑いながらも、彼の完璧主義に応えるため懸命に働く日々を送る。冷徹で近寄りがたい蓮のもとで奮闘する中、結衣は彼の意外な一面や、秘められた孤独を知り、次第に特別な絆を築いていく。
一方で、同期の嫉妬や社内の噂、さらには会社を揺るがす陰謀に巻き込まれる結衣。それでも、蓮との信頼関係を深めながら、二人は困難を乗り越えようとする。
仕事のパートナーから始まる二人の関係は、やがて揺るぎない愛情へと発展していく――。オフィスラブならではの緊張感と温かさ、そして心揺さぶるロマンティックな展開が詰まった、大人の純愛ストーリー。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる