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Beat 5
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しおりを挟む幸せな日々、ミオはふと長谷川の事を思い出した。
トモヤとの事で傷つき疲れたあの日、心配してくれた長谷川を無礼な態度で追い返してしまったミオ。
病院にはもう行かないと、どうせ耳は治らない、治らなくていいと……子供じみた言葉を長谷川にぶつけてしまったあの日の自分を、ミオは心底恥じた。
耳が聞こえるようになってこんなにうれしいのに。
あれから、どのくらい時が経ってしまっただろうか。
とにかく、長谷川に謝罪し、耳が聞こえるようになったと報告しなければ。
そう思い、ミオは久しぶりに病院を訪ねた。
「ミオちゃん、よくきてくれたね」
「長谷川先生……」
白い部屋には、変わらぬ長谷川の笑顔があった。
ミオの無礼な態度など、空白の時間などなかったかのように。
「先生…… ごめんなさい……」
ミオは手土産のシュークリームを差し出しながら頭を下げた。
この人がいなければ、ミオの心はとっくに壊れていたかもしれない。
「どうして謝るの? 僕はミオちゃんが元気そうでうれしいのに」
「だって…… 先生にはお世話になったのに、ひどい態度で──」
「いいんだよ。 正直に言うと少し淋しく思ったけどね」
そして、あらためて医者の無力さを感じた。
だがそれをミオに言うべきではない。
「今日は、謝ってくれるためにわざわざ?」
受け取ったシュークリームの箱を机に置き、長谷川はミオの顔をみつめた。
通院していた頃に比べ、顔色も表情も晴れやかな気がする。
その理由が、ミオの口から告げられた。
「それもあるけど…… 先生、あたしね、右耳が聞こえるようになったの」
「えっ…… 本当かい?」
「うん」
心を診る医者は、時に残酷な幸せに痛めつけられる。
治療とは別の力で回復した場合、結果的に幸せでも、こうして自分の力量を否定される気分になってしまうのだ。
だが、それもミオに言うべき事ではない。
一時的にそういう気分に陥っても、
「よかったね。 本当によかった……」
やはり患者の回復はうれしいものだから。
「念のために検査してみようか。 それで、晴れて卒院だ」
特別な患者との別れは少し淋しいが、同時に喜ばしい瞬間でもある。
理由は訊かなかった。
ミオの右耳が聞こえるようになった理由。
回復して去ってゆく患者に心を残してはいけない。
長谷川は今まで通り、普通にミオを見送った。
「もう二度と、ここへきちゃいけないよ」
そう、つぶやきながら。
忙しいトモヤと逢えるのは、よくて週1日。
それでも彼は毎日メールや電話をくれた。
ツアー先の風景、名物料理、様々な写真と共に。
慣れない右耳にスマホを当てがい聞くトモヤの声は新鮮で、そのたびにミオは幸せを噛みしめた。
それは脆く崩れてしまう砂上の城だとは露ほども思わずに。
トモヤからデートの誘いがあったのは、ミオが長谷川の許を訪ねてから2週間後の事だった。
今度こそ、今度こそ。
そう思ったミオは、自分がトモヤを家まで迎えに行くと言って譲らなかった。
怖いくらい幸せだからこそ、もうE駅前にこだわりたくなかったのだ。
平凡な恋人同士のデートを、今度こそ楽しみたい。
そう思いながら服を選ぶミオの横顔は、怖いくらい美しかった。
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