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七条の辻
弐
しおりを挟む今更──
袂を分かった『琴次郎』と逢っても、話す事など何もない……
平助は踵を返し、帰途に就こうとする。
だが、彼の後ろ髪は、起居を共にした友人を求めるように引かれた。
狛犬が、平助の弱い心を責める。
その鋭い視線を浴びながら、平助は階段を昇り、『琴次郎』の待つ境内へと歩を進めた。
静かで冷たい早朝の風が、平助の袴を揺らす。
足許で渦を巻く風を蹴るように、平助は認めた人影を目指した。
「……琴次郎……」
潜めたはずの声が、澄んだ空気の中で弾ける。
それは、同じく澄んだ美琴の耳に飛び込み、彼女の肩を震わせた。
「……平助…………」
彼を、繋ぎ止めたい──
あふれた想いが、言葉を紡ごうとする美琴の邪魔をする。
不自然に頬が痙攣し、鼻に鋭い痛みが走った。
「……泣くなよ……」
たしなめる平助も、その瞳に薄らと涙を浮かべていた。
自分が、許せない。
平助は、心ならずも一度は見捨てた『琴次郎』から目を逸らした。
「……平助、朝早くに呼び出してごめん…… どうしても、伝えたいことがあって……」
美琴は、心の風呂敷を広げ、持参した数多の言葉を吟味した。
その中から、絶対に伝えねばならぬ近藤の想いを取り上げる。
「近藤さんは、今でも平助のことを想ってる。 平助は居場所がないって云ってたけど…… 近藤さん、わたしにこう云ったんだ。 組に戻るよう、平助を説得して欲しい、って」
「…………」
だが、氷よりも厚い平助の心の壁が、美琴の言葉ごと近藤の想いを跳ね返した。
「……もう、遅いんだよ…… なにもかも…… 遅いんだ」
うつむき、平助は絞り出すようにつぶやいた。
「なにが? 遅いことなんて…… 遅いことなんてない」
「あの日──」
平助は、途端に声を荒らげる。
「近藤さんの遣いで高台寺に来たあの日── 刺客に…… 襲われただろ? 私は知っていたんだ。 伊東先生がおまえと斎藤さんを始末しようとしたこと…… 知っていたんだよ!」
「────っ……!」
「知っていて、私はおまえたちを見殺しにしようとした。 ……判っただろ? なにもかも、遅いんだ! 私は、骨の髄まで御陵衛士の人間なんだよ……」
衝撃的な、平助の告白──
責める言葉も、庇う言葉も吐き出せず、美琴はただ、揺れる平助の睫毛をみつめていた。
そして、瞬時に悟る。
用意して来た近藤の想いも、この場を選んだ自分の覚悟も、すべて無駄であった、と。
平助は、かつての仲間を裏切った自分自身を許せぬのだ。
こうして、傷ひとつなく現れた自分を見て、その想いはますます強くなった事だろう。
「……もう、充分だろう? ……おまえと逢うのは、これが最後だ……」
物云いは厳しく……優しかったあの頃の面影を失くした平助を、美琴は潤む眼差しに焼きつける。
『最後』──
そんな風に云われたら、美琴にはほかにどうする事もできなかった。
だが、平助の言葉通りにはならない。
ふたりにとっての“最期”は、別の場所に用意されていた。
慶応三年 十一月十八日──
酷く、底冷えのする季候であった。
伊東は、ひとりの従者しか連れず、招かれるまま醒ヶ井にある近藤の妾宅を訪れた。
待っていたのは、主である近藤を含む五名。
副長の土方と、六番隊組長の源三郎、十番隊組長の左之助──そして、監察方の山崎が、仰々しく伊東を迎えた。
相手に含むところがあるとしても、揃った面々に満更でもない伊東。
金子の話は後回し、まずは各々つかんだ反幕府勢力の情報を交換した。
だが、互いに出し惜しみをしているのか、さしたる成果を得られぬまま、場は、ささやかな酒宴へと移る。
近藤らは、あからさまな態度や行動は取らず、自然と伊東の盃が傾くよう、自ら勢いよく酒を煽ってみせた。
軽く勧めると、伊東も合わせて酒を飲む。
次々と空になる徳利を一瞥し、土方は、左之助に目配せを送った。
受けた左之助は、座を盛り上げるため、真冬だというのに半裸になり、自ら拍子をつけた奇妙な踊りを始める。
上品な伊東だが、この時ばかりは諸手を打ち、大いに笑った。
そして、左之助の踊りを肴に一献、また一献と、伊東は、おそらく人生始まって以来の量、酒を躰内に流し込んだ。
──同じ頃、木津屋通りと油小路通りを結ぶ四つ辻、つい先日火事に見舞われたばかりの民家を囲った板塀の蔭に、刺客として選ばれた四名が身を潜めていた。
酔った伊東を暗殺する──
単純で漠然とした策ゆえに、実行の時はいつ訪れるか判らない。
寒さと、緊張との闘いである。
監察方の『尾形 俊太郎』よりの報告では、伊東は従者をひとり連れているのみとの事。
酔わせた上、数的優位に立つ刺客らだが、葬る相手を思うと、やはり身も震う心地であった。
脂汗も滲まぬ寒沍たる夜風に晒されるは、
『大石 鍬次郎』
『横倉 甚五郎』
『岸島 芳太郎』
『宮川 信吉』
この四名──
いずれも、数多の修羅場をくぐり抜けて来た兵だが、中でも大石は、居合いの腕は新撰組一と称されるほどの手練だ。
とはいえ、死臭漂う任務に当たる事は、決して慣れるものではない。
足許から忍び寄る冷気は、意思を持つ手の如く刺客の躰を這い上がり、体温を奪ってゆく。
吐く息は白く、夜の寒さを際立たせた。
だが、その息も、繰り返される呼吸によって肺が冷やされ、次第に目立たなくなる。
その極寒の中、刺客は頻りに指を動かし、来るべき時に備えた。
上辺のみの酒宴は、更に進んでいた。
空徳利はその都度片づけられ、伊東が吸収した酒量は判らない。
ただ、朱に染まる頬、据わり始めた目が、伊東の底が近い事を物語っていた。
機は熟した。
近藤と土方は、伊東に気取られぬよう小さく頷き合い、段階を次へと移す。
「伊東先生、随分と長い時間お引き止めして申し訳ありません」
居去り寄り、土方が告げると、伊東は完全に据わった目を向けた。
「……今、何時かね?」
「じき、戌の刻(午後8時)です」
「うむ…… そろそろ、暇せねば……」
伊東は従者を部屋に呼び、その手を借りて立ち上がる。
「伊東先生、これを」
土方も合わせて立ち上がり、濃紺の包みを差し出した。
「活動資金の三百両です」
「おお、これはかたじけない。 ありがたく、お借りしてゆきますよ」
覚束ぬ手で受け取り、伊東は不自然なほど恭しく頭を下げた。
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