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誠の名のもとに
参
しおりを挟む「兄上…… よいのですか? あのような偽り事を……」
“了解”の意思を明確に残した斎藤が退室した後、彼が消えた方とは反対側の襖が小さく割れた。
隙間から顔を覗かせたのは、伊東の実弟『鈴木 三樹三郎』。
薄い襖一枚、隔てた部屋で虚言を連ねる兄、甲子太郎──もし、自分が血を分けた弟でなくとも、果たして彼はこの身を信じ、重用してくれたであろうか……
心にかかる、実質のない靄が、三樹三郎を苦しめていた。
「偽り事とな? これは為たり」
「兄上──」
「よいか、三樹三郎、私は偽り事など申しておらぬ。 武田君が薩摩との繋ぎを取れと申したは、羂であると思ったのだ。 おそらくは、近藤が仕掛けた羂── あちらが、御陵衛士を潰すために手段を選ばぬなら…… 存続のため、こちらも手段を選んではおられぬ。 違うか?」
三樹三郎は、忘れていた。
実兄は、思い描いた策を、絵画の如く愛で、己の中で消化する事を。
ゆえに、自己暗示に陥るのだ。
己が口が語るのは、すべて真実である──と。
「偽り事では…… ないのだ」
「兄上……」
本当は、そうして暗示をかけねば、嫌悪感、罪悪感に苛まれ、心を失くしてしまうと……兄は怖れているのかもしれない。
三樹三郎は、妙な話、つきあいの長い実兄のすべてを、未だ把握できずにいた。
「──兄上は、斎藤を信頼しておられるのですか……?」
嫉妬に似た感情に蝕まれ、三樹三郎は直接的に訊ねる。
「信頼? そんなもの、抱いたことはないよ。 私は、誰に対しても── ね」
自分に忠義心を抱く弟の胸中を知ってか知らずか──伊東は、虚しげにそう云った。
同じ刻、美琴がそうしていたように、斎藤も、彼女の名もない刀を愛しげにみつめていた。
──そう、彼は知らない。
美琴も、“近藤暗殺”の計画を知り得た事を。
真の仲間内で、自分だけがこの怖ろしい謀略をつかんでいるのだと──そう思っていた。
ゆえに、斎藤が脳裏に描く打開策は、そこに基づいたもの。
斎藤は、伊東が自分を信じ切っておらぬと判っている。
『武田 観柳斎』を斬った事は、まるで意味を成さなかったという訳だ。
すべて判っているからこそ、重大な計画を聞いた今、斎藤は動けずにいるのだ。
近藤と繋ぎを取れば、それは伊東の思う壷──
彼は、自分を始末する理由と機会を探しているに違いない。
秋も深いというのに、斎藤の額には真夏を思わせるほど大量の汗が滲む。
どうにかして、伊東の謀略を近藤に報せねば──
命を落とすなら、その後でなければならない。
すべてを、成し遂げた後に……
斎藤はそう、思っていた。
翌日──
菊屋に、思いがけぬ客人が来た。
左之助の妻、『まさ』だ。
棚の書物を見るふりをし、まさは器用に、折りたたんだ書簡を美琴の掌中に滑り込ませる。
それは、間違いなく左之助からの繋ぎ──美琴は、努めて冷静さを装い、峰吉の目を盗んで書簡を開いた。
以前、平助作の地図が、土方作の局中法度が読めなかった美琴とは違う。
ここの書物のお蔭で、蚯蚓がのたくるが如く文字も随分読めるようになった。
左之助の書簡には、ふたりとは比べものにならぬ悪筆が並んでいたが、彼からの伝言はしかと美琴の視覚に訴えた。
──戌ノ刻(午後8時)、筋釜屋町、原田邸に来られたし。
左之助の指示通り、美琴は得意の脱走を図る。
自分に好意を持つ峰吉をおだて、酔い潰れるまで酒を飲ませる事はたやすい。
彼に対する罪悪感は、本当にどこへ消えてしまったのか……
美琴は、凍える京の夜に薄情な身を晒した。
「──おまえ、戻りたいと思ってるか? 組に」
前置きは、実に単刀直入であった。
左之助の焦りが滲み出る。
「一晩、考えたんだ。 おまえが仕入れた情報、あれをどう、近藤さんに伝えようかって。 言葉そのまま、伝えるのは簡単だ。 けど、情報源を訊かれたら、おまえのことを話さなきゃなんねえ」
「……ですよ、ね」
「だったら、おまえが直接、近藤さんに話しゃいいって思ったりした訳よ」
左之助は、それが組に戻る足掛かりになると、してみせると、どこか渋る美琴に詰め寄る。
魅力的な話なのだろう。
だが、今の美琴は斎藤を救い出す事で頭が一杯だった。
「──斎藤ちゃんを助けたいんだろ? だったら、組に戻った方がその術を得られるんじゃねぇかな」
めずらしく──左之助が人の、美琴の心を読む。
彼女が組へ戻るために奔走している事は、想像に難くない。
そして、それが至極危険を伴うという事も。
彼は彼なりに、美琴を案じているのだ。
「“琴次郎”に戻ってよ、一緒に斎藤ちゃんを助けようぜ」
伊東に心酔し、高台寺へ移った隊士も多く──大袈裟に云えば、今は猫の手も借りたいというのが新撰組の実情である。
“近藤暗殺”──その情報と共に組に戻るのは可能であると、何度も繰り返す左之助。
半時後、美琴は、その熱意に頷いていた。
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