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恋々
壱
しおりを挟む覚悟と理性は、美琴の核で互いに相容れず──
“葛藤”という名の地獄が幕を開ける。
“心”と“頭”というものは、同躰にありながら異なる思考を持つ、という事は往々にして見られる傾向であり──
この日の美琴に精神分裂に似た症状が表れたとしても、決して不自然な事ではなかった。
斎藤と時尾の祝言を屯所で挙げると云い出したのは誰だ──
まずはそんな、無益な“首謀者”探しを始める美琴。
だがすぐに、考えを切り換える。
街で些々たる事件でも起こり、祝言が流れたらよいのに……
思いやりの破片もない事を描き、そして美琴は自己嫌悪の波に飲まれた。
譬えば今日、祝言が挙げられなかったとしても、明日、明後日、明明後日──
いつになっても、斎藤と時尾が夫婦になる現実は避けられはせぬのだ。
その覚悟は、昨日できたはずなのに……
頭では理解し、あきらめていても、やはり心が追いつかない。
そしてまた、
「……屯所でやるって云い出したの、誰よ……」
心情に汚染された美琴の思考回路は、振り出しに戻った。
──斎藤の幸せを願い、祈ろうと決めた昨日の心が移ろい流れても、きっと、誰も美琴を責めはせぬだろう。
盛大に始まった祝言、その只中に、美琴の姿はなかった。
『嫌なこと忘れられるぜ。 なにもかも── な』
いつかの芹沢が教えてくれた通り、美琴の手には酒壷がしかと握られている。
祝い酒の中から失敬してきたのだ。
本当に、酒にはそのように神秘的な力があるのか……
身を以て知るには、今の自分ほど適した人間はおらぬと、美琴は思った。
ここへ……
幕末へ迷い込んで、もう何年になるだろうか……
歳を取ったという実感はないが、自分ももう十九になった。
誕生日を迎えれば二十歳──
こんな風に侘しいやけ酒をひとり煽ろうとは……
自嘲気味に笑い、美琴は最初の一献を傾けた。
はじめて口にした時と変わらず、その透明な液体は容赦なく美琴の喉を焼く。
噎せ返りに負けず、美琴は義務の如く盃を二度三度傾け続けた。
「……まずい…… よ……」
それゆえのものではない涙が、美琴の頬に足跡をつける。
喉が、胸が、尋常でないほどの熱を帯びても、美琴の記憶は飛ぶどころか、神経そのものが冴え渡るような気がした。
下手な囃子が聞こえて来る。
あの喧噪の只中に誰がいるとかいないとか、きっと、気づく者はおらぬだろう。
また、自嘲気味に笑う美琴。
春風が渇かした涙が、頬を引き攣らせた。
持ち出した酒壷は、それほど大きなものではない。
五合、入るか入らぬか──そんなものだ。
だが、下戸である美琴には、拷問と呼べる量だった。
どうにか半分、酒精を躰内に取り込んだところで、美琴は乱暴に盃を投げた。
「芹沢さんの嘘つき──!」
“魔法の水”は、美琴に救いの手を差しのべない。
確かに、視界は頼りなく揺れ、頬は不自然にほてる。
躰は、酒に支配されているのだ。
だが……なればこそ余計に、冷静な精神が際立ち、哀愁を増長させた。
判っている。
これは“罰”なのだ──と。
異端者である自分が、恋をした“罰”──
こんなにも苦しいのは、斎藤に対する想いが深いからだ。
きっと、酒の力を借り、何もかもを忘れたとしても──
斎藤の事だけは、決して忘れぬだろう。
それでも美琴は、酒を煽る。
酒壷を傾け、浴びるように。
それは、いつか大空を自由に飛翔できる日を夢みて地面を啄む鶏の如く、ある種の苦悶に満ちた姿だった。
酒は好きだ。
酒の席も、華美過ぎぬものは、どちらかと云えば好みに合う。
だが、土方は居心地の悪さを憶えていた。
祝婚の中、この吉日の主役である花婿が、感情をどこかに置き忘れた、そんな顔を微塵も崩さぬからだ。
自分とは対照的に、斎藤がこのような祝宴を好まぬ事は知っているが……
土方は、今日の斎藤をどこか痛々しくさえ感じる。
この渾沌とした情勢下で妻を娶るなど、色を好む左之助ならともかく、斎藤の性分からは考えられぬ事だ。
その考えられぬ事態を斎藤が甘んじて受け入れているところを見ると、そうせざるを得ぬ“理由”というものが、土方にも見えて来る。
こちらも対照的に幸福そうな花嫁の腹を、土方は透かすように見据えた。
近藤もまた、道場のため良家の娘『つね』と望まぬ祝言を挙げた。
それでも、祝婚の最中はあの厳めしい面も緩み、骨張った頬もかすかに紅潮させていた。
経験はないが、夫婦の誓いを交わすとは、そういう晴れがましい事なのだと、土方は思っていたが……
少なくとも斎藤は、輝く太陽に心を晒す事を拒んでいる──
土方の目には、そう映った。
たまらず、席を立つ土方。
今日の酒は悪酔いしそうだと、そっと盃を手放した。
冷水を口にしようと向かった井戸端に、先客があった。
井桁に凭れ座り込んでいる人影の正面に回った土方は、思わず嘆声を漏らす。
眼下には、酒壷を抱きしめ眠る、『琴次郎』の姿があった。
「……こいつ、なんだってこんなところでひとり酒盛りやってんだ……?」
そうつぶやいた土方は、ふと思い出す。
「……琴次郎の奴、下戸じゃなかったのか?」
この時は、“兄貴分”である斎藤の祝言をひとり祝っていたのだろうと察した土方。
まだ幾分風が冷たい時期、放置しては躰に障ると思った土方は、軽く美琴の頬を張った。
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