ー 殉情の紲 ー

MICA

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燎原の火

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熱意は、やがて西郷の心に沁みゆく。

だが坂本は、ここで西郷から思わぬ難題を呈示される。

会談の場所を、下関から京へ変更するよう要請を受けたのだ。

これには、さすがの坂本も三度、立て続けに嘆声を漏らす。

長州は、“八・一八の政変”や、“長州征討”等で会津と手を組んだ薩摩に対し、激烈な怨憎の念を持っている。

長州からすれは、赦免を請うべきは、薩摩側である。

その意を含み、坂本からの再三に渡る会談要請に、下関でなら薩摩の人間との面会を考えてもよいと譲歩した桂。

それは、本当に限界の譲歩であった。




坂本は、四度目の嘆声を生み出す。

今更──桂をどう説き伏せられようか……

だが、坂本は五度目の嘆声を吐く前に、決意の腰を上げた。

感情を抜きにしても、新撰組や京都見廻組に狙われている桂を京へ招く事は、不可能かもしれない。

それでも、薩長同盟を締結させるために必要なら、坂本はどんな橋でも渡る覚悟を持っていた。




“逃げの小五郎”などと称されているが、桂は決して怯懦きょうだな男ではない。

“逃げるが勝ち”
“命あっての物種”

そんなことわざは、桂のためにあるようなものだ。

彼は、目的を遂行するために何が必要で、何をすべきか熟知している。

賢哲な桂は、それが“必要”であると判断すれば、危険と知りつつも上洛の道を選ぶだろう。

坂本は、小細工なし、誠意を以て桂の説得に当たる。

互いに披瀝ひれきし合う事、八日──

坂本はとうとう、桂に会談のための上洛を承諾させた。




慶応二年 一月二十一日──

京都の小松帯刀邸にて、現状では不可能と思われた西郷、桂の雄藩二大巨頭による会談が、秘密裏に行われた。




互いが腹を探り合う事は判っていた。

探り合わねば、開化せぬ事も判っていた。

長い、長い一日だった。

感情論を除けば、この頃佐幕から倒幕へと藩論の傾いている薩摩と、長州との和親協力は充分に可能であった。

藩同士が抱くわだかまりを払拭するための顔合わせ──

だが、やはり感情論が邪魔をする。

特に、先の政変で『久坂 玄瑞』『寺島 忠三郎』ら多くの朋輩ほうばいを失った桂は、その原因を作った薩摩に対する憎悪を捨て切れない。

長く、貝の如く閉ざした口が、怨嗟の深さを物語っていた。




西郷は西郷で、おいそれと謝意を表する訳にはいかなかった。

自分ひとりの問題ではなく、それは薩摩藩全体に関わるものだからだ。

何より、西郷自身、謝罪する意味も理由もないと思っていた事は、ふてぶてしく膨らませた両の頬が証明していた。

坂本が提唱する二国間の同盟は、同等、もしくは自藩が主導権を握るべきとの考えも、西郷を意固地にさせている一因であり──それは、長州を代表して赴いた桂の頑なな態度からも同様の推測ができた。




間怠まだるい時間が、それでも留まる事なく流れてゆく。


「ふたり共、いごっそうじゃのう」


会話が成立せぬまま一時ほど過ぎた頃、とうとう仲立ち役の坂本が、堪え切れず大声を上げた。

とは云っても、痺れを切らした訳ではない。

少しでも何かの糸口になれば、との行動だった。


……?」


西郷、桂が同時に問訊する。

声が被った事が気まずかったのか、両者は互いを一瞥したのちは外方そっぽを向いてしまった。


「まぁ、わしはおふたりの上を行く“いごっそう”者ですき、それに、待つんは慣れちょります。 今日は、小松さんのところに泊まることになりゆうですろうか」


台詞と同じく豪快に、坂本は畳の上に寝転んだ。


「坂本さんっ……」


同席していた薩摩藩家老『小松 帯刀』は、その自由闊達さに思わず取り乱す。

だが坂本はどこ吹く風──

寝転んだまま足を組み、両手を頭の下に敷いて天井をみつめた。


「“ジョン万次郎”さんがゆうちょりました。“アメリカ”っちゅう国は、日本国でゆうたら公方くぼう様に当たる“大統領プレジデント”ゆうもんを、国民の中から投票で決めるそうながです」

「……投票?」

「“投票”云うがは、候補者の名前を書いた札を箱に入れて、一番仰山ぎょうさん名前を書かれた人間が大統領プレジデントになる── まあ、平たくゆうたら、そういうもんですき」


坂本の説明は漠然としてよく判らなかったが、何となくの意味を理解した西郷が声を上げる。


「国で一番偉いお方を“投票”で決める…… そげんこつ、考えられもはん」


坂本は片笑みを浮かべ、話を続けた。


「わしも最初はそげん思ちょりました。 けんど、“アメリカ”ゆう国は、能力のある人間は出自に関係のう政治の表舞台に立てるち、万次郎さんは云いゆうがでした。 今の日本国では考えられん、開けた思想やち思わんがですか?」


西郷は思わず、桂と視線を絡ませる。

その、わずかな時間の中で、両雄は坂本の話の出口を探ろうとした。


「……それはつまり、こういうことですか?」


立場上、傍観の姿勢を貫かねばならぬ屋敷の主、小松が、ついつい口を挟む。


「開国し、もっと諸外国に目を向け、学ぶべきを学び、吸収し── 今の日本を根底から改革してゆく。 そのために、薩摩と長州が手を結び、幕府を倒す必要が──」

「さすがは小松さんですき」


語尾を遮り、坂本は大袈裟に起き上がる。


「日本国を洗濯したい気もちは薩摩も長州も同じ── 違うかえ? 今、手を結ばんと、それは机上の空論で終わるき。 仲ようしようぜ」


そして、一番に心を開いてみせた。


「──おいは、桂さんに謝りもはん。 薩摩がしたことは間違ってはおらんち、信じておりもす。 じゃっどん、先の政変で命ば落とされた長州の方々のご冥福は、お祈り致しておりもす」


坂本に触発され、西郷も自身の胸中を吐露する。

桂は左手で眉をなぞり、細く息を吐いた。


「判っているのです。 もしも、藩の立場が逆であったなら、長州もためらうことなく薩摩を討ったでしょう。 時代は渾沌としている。 犠牲は避けられぬと、私にも判っているのです」


桂は、今、薩摩との同盟を結ばねば、自藩が更なる犠牲をこうむる事も判っていた。

充分な武器も入手できず、幕府軍を迎える事となる。

ここで同盟締結に至らねば、当然、薩摩も幕府軍として長州征討に乗り出すだろう。


「坂本君のことだ。 提携の内容はもう、纏めてあるのでしょう?」


桂が微苦笑を浮かべながら問うと、坂本は迷わず破顔を返した。




近いうちに、幕府軍による第二次長州征討が実行される。
戦になった時、薩摩は長州に対し、武器、兵の供給を惜しみなく行い、幕府軍との戦に勝利した暁には、“朝敵”と押された長州の烙印を、薩摩が責任を持ってそそぐ──

といった内容が盛り込まれた、六箇条からなる軍事同盟は、こうして締結の時を迎えた。

やがて、幕府滅亡へと時代を動かす、“薩長秘密攻守同盟”の成立──

慶事であるはずの同盟締結後、坂本は安堵の表情の中に、確かな憂愁を滲ませた。


「坂本さん? どげんしたとですか?」


西郷が、心配そうに問う。


「いんや、なんでもないですき。 ほれ、祝杯を上げましょうや」


案じる西郷を酒宴の席へ向かわせた後、坂本はひとり、ぽつりとつぶやいた。


「……すまんのう、美琴ちゃん────……」
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